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母の死

 

 我が母は 手を振りつつ 飛び込みぬ   (ヂィーゼル車の運転手は手を振っているように見えたと証言)

 我が母は 汽車と相撲取りぬ 天晴れ天晴れ    まもる

母の押し花絵 ↓

 12月24日の朝、僕の母は飛び込み自殺をしました。八十三才でした。痴呆の始まりの不安定な精神状態での決行でした。誰もが予想だにしなかったことです。凝りは当分残りそうです。

 

 母の中に眠る頑固さ、気性の激しさが全面に出た感じです。父が寝込んでいた頃、そして、僕が病気した時、彼女は恐ろしかった。僕は五人兄弟の中で一番母や父に反抗しました。当時、激しいことばで、母と親子喧嘩したことも何度もあります。お陰で、彼女の気性の激しさを身をもって知ってしまいました。今はみように納得できるので困ったことです。でも、幸い、僕とはここ十年で関係をほぼ修復できていたと思います。その点は良かったとほっとしています。

 兄弟が多いと言うのはありがたいことです。親との関係がこれ以上悪化しなかったのは、中間に姉や叔父たちがいたからです。さらに母の老後も、兄夫婦や二人の姉達が居り、彼らが彼女の先々はどんな形になっても見て行くと心に決めておりました。とりあえずは八十八のお祝いをすることを楽しみにしていたのです。ゆえに、彼等には「裏切られた。」という感情が残り、失望は大きかったようです。その点さばさばしている僕は、亦勝手な奴と言われても仕方ありません。

 

 母の異常が始まったのは昨年の夏ごろからです。被害妄想がひどくなり、「兄がお金をとった」等々の妄想を抱くようになりました。そして、それは兄だけでなく次に親しい親族、叔父や姉達も「ぐる」になっていると言い出すようになりました。姉や、兄から僕にもその異常は伝わっていたのですが、僕と電話で話している限りでは病的なところは全く感じ取る事は出来ませんでした。同様に叔父以外の親戚や村の人に対しても僕と同様の母の対応だったようです。しかし、彼等にはまだ母の異常は知らされていませんでしたので、「あんなに元気なおばあちゃんがなぜ。」と言った疑惑はしばらく残りそうです。 

 

 事件の前日の夜、母が突然いなくなり兄たちがやっとのことで見つけ出しました。毎日電話で母と話していた上の姉は、兄から説明受けるまでもなく、当日の早朝の母との電話の調子から、敏感に母の更なる変化を感じ取り、埼玉の飯能から会津に向かおうとして家を出ました。叔父も同様に、母を病院に連れて行き介護体制を組むべき時と判断して、会津若松から汽車で実家に向かいました。兄はその叔父を迎えに駅に車で向かいました。義姉は勤めがあり兄より少し前に家を出ておりました。一人になった、ほんの十分十五分の魔の時間の出来事でした。皮肉にも、叔父の乗ってきた汽車にです。

 

 彼女は病気一つしたことのない丈夫な人でした。それ故恐らく、病み始めた自分を発見したときのショックは余りにも大きかったのだと思います。更に、脳血栓で十年寝込んだ父の姿を思いだし、強烈な拒否反応を起こしたのだと思います。当時、それまで見たことのない献身的な母と、強い女に変身した母がそこにおりました。しかし、それは「病む」ということに対する嫌悪感を母に植え付けることになったのだと思います。それ故、彼女は「緩やかな死ではない死」を選択したのだと思います。ギリギリの所で自分のプライドを固持しようとしたのだと思います。死んでゆく人の心理を知ることなどできません。これは僕の勝手な推測でが、「あっぱれ」と思わず叫んでしまいました。完敗です。

 

 欲を言えばきりがありません、あれだけ丈夫なら、百才まで期待できたことも確かです。でも、女性の平均寿命まで生きましたので「可」でしょう。それも「秀」は上げられませんが限りなく「優」に近い「可」です。安らかにお眠むりください。 

あなたの二番目の息子 



 追記

 今、老人が過ごすのには田舎のほうが都会より暮らしやすいと思います。いち早く田舎はもう老人社会なのです。医療も町の施設もそこに住む人々も皆、老人を中心に動いているからです。

 僕が言いたいのは、母の絶望には理由があると言うことです。彼女も田舎が変わりつつある事は知っています。しかし、父の看護で知ってしまった医療機関に対する不信は拭い切れなかったのです。

 父が寝込んでいたのは30年前です。二年ぐらい入院していました。脳血栓の場合、死を待つ患者として、治療らしきことは当時何にもしなかったのです。薬で唯、病院側が管理できる状態に押さえておくと言うだけだったのです。今なら、軽ければリハビリをするし、重ければ、より良い状態にする努力がなされます。とうとう、彼女は病院には任せておけないと怒り、家に連れ帰ってきてしまったのです。彼女のお陰で父の病気の進行は緩み、二、三年は長く生きることが出来たと思います。

 体で知ってしまった経験は消しても消し切れません。「飛び込む」と言う行為を僕は肯定はしませんが、父の死とあわせて考えたとき、「なるほとなるほど」と賞賛の声さえ沸き起こってくることも確かなのです。  

 追記2

 僕が喧嘩状態の解消ぐらいで満足せず、もっと母と関われば、母が自分を追い込まない抜道を作ることが出来たかも知れない。などと言う考えが次から次と出てきて、なかなかきついものです。まあ、実の母が死んだのです、ゆっくりと時間かけ噛み締めることにしましょう。

 追記3

 事件がショキングだからついつい物事悪く悪く考えてしまうけど、案外本人は夢こごちてあったのかも知れない。傷だらけの顔からは最後の表情は読めないが、それが本当だったら僕らとしてはありがたい。本当に来る汽車に手を振っていたのかも知れない。汽車が止まって乗り込みどこかに行く夢を見ていたのかも知れない。高校生で死んだ姉が出てきて母を呼んだのかも知れない。父も出てきたのかも知れない。自分が死ぬなど全く想像していなかったのかも知れない。出来たらそうなんなふうに考えたいのだが。

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