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江戸の春・如月


今の季節三月は、旧暦では仲春の二月、如月である。二月の主な行事を上げてみる。

●二月の初午 各地で稲荷明神を祭り、江戸で特に盛ん。赤飯を炊き、芥菜からしなの味噌汁を作りみんなに振舞い食べる。平安時代の書物にも載っている。

●御事始おことはじめ 江戸では武士も町民も家ごとにざるを竿につけ高く上げる。江戸では御事汁といっていも、牛蒡、人参、焼豆腐、蒟蒻などに小豆を入れた味噌汁をを作る。

●彼岸 春秋ともに七日間。大阪では四天王寺、京都では知恩院御忌、江戸では親鸞宗の人が東本願寺に参詣するが他宗の人は参詣しない。

●花見 幕を張りその中で酒宴をすると言うのが本来の花見の方法。幕の代わりに着物を張り巡らし酒宴もしたが幕末には武士も幕を張る人はいなくなった。花見は盛んで、立春から何日で彼岸桜が何時咲くかが大きな話題であった。

●涅槃会ねはんえ 二月二十五日は各寺で涅槃の掛け軸を吊るしておく。参詣人が殺到するほどではない。大阪では正月の餅で作ったあられに大豆を煎って供えたりする。これを俗に「お釈迦様の鼻くそ」という。京都では正月の餅花を煮て供物 にしたり、刻んで煎って食べる、これを餅花煎もちばないりと言う。

●雛市 二月の二十五日から三月四、五日まで、江戸の十軒店、尾張町、麹町に急遽、雛店ができる。また大きな通りには中店ができる。通に二列板で仮設の店を作り、人の通るところは三列になる。京都は四条通り、大阪では御堂筋に市が立つが、中店方式ではない。




さて次に二月の料理に付いてみてみましょう。

●膾なますの部

は冬から春にかけ一番うまいとされ、刺身にした。付け合わせ野菜は山葵。

さし鯖、これは秋の季語だが、鯖を塩で干して二枚重ねたもの。これを引き裂くて生姜と栗を添え、酒びたしにする。

鮭の子ごもり、詳しくわらないが、子持ち鮭の料理か。

霜降り鯒こち脂ののった冬のコチ、嫁菜(菊科、若草を使う)を添える。

たいらぎ、貝の一種で柱を使う。高級料理。

ぼらも鮭と同じに酒に付ける。
上にない付け合わせ野菜には、石茸、独活、あさつきなど。

り酒、酒に醤油、酢、鰹節のだし、焼き塩などを加え煮詰め、刺身や膾の調味料としてよく使われた。

●煮物

天王寺かぶらの味噌煮。尾張大根輪切りに味噌をかける。大牛蒡輪切りに花鰹かける。すくい豆腐、卵の黄身をかける。焼き豆腐を甘煮にして辛子をかける。焼き豆腐味付け生姜味噌かけ。など。

●汁の部 
魚の切り身をそのまま汁に入れたり、焼いていれる。
蒲鉾や竹輪を垂直にきり使う。
牡蠣とおろし大根と独活。
大根の輪きりと牡蠣に柚子で汁にする。
松露(松林に出る茸)を輪切りにして干して葉(葉もの野菜)をざくざく。
慈姑くわいの薄い輪切りや蕗など野菜を工夫して使った汁もの。など。

●猪口、和え物の部
鱚を使った生姜の膾。塩辛類。なまことおろし大根。赤貝酢味噌。梅びしお(梅干しを潰してこねたもの)。たいらぎの酢漬け。烏賊の青和え。さやえんどうを潰し裏漉しにして調味をくわえ酢をたして和える。とか。




もちろんこれらは晴れの日の春の食材の一部です。通常は一汁一菜が基本ですが、飽食の時代と言われる今日から見てもなかなか豊かです。

江戸の庶民は桜開花時期の早い遅いが茶飲み話の話題となり、次の縁日を指折り数え楽しみにしていたことが想像できる。

筑摩文庫「江戸あじわい図譜」高橋幹夫著を参考にしました。 (まもる)





日暮里諏訪の台・広重

日暮里諏訪の台 - 広重・「名所江戸百景」 

西日暮里駅におりて道灌山通りに出る。駅の西側を線路ぞいに日暮里駅の方に歩く。だらだらの上り坂である。

右手石垣の上が道灌山の続きで今は通りで切断された西日暮里公園。右折して公園入リ口に出る。そしてすぐ左折。すると左側に諏方神社がある。この境内付近の高台、今も諏訪の台である。

江戸のレジヤーブームは化政期(一八○四~三○)になって、各地に〃名所八景〃をつくった。玉川八景、金沢八景etc。ここがそのはしりだそうで、すでに享保十三年(一七二八)にできていた。今も神社の隣にある浄光寺、そこの坊さんが文化人たちに頼んで選んでもらったという。〃日暮里八景〃、ご紹介しよう。

筑渡茂陰 黒髪晴雪 前畦落雁 後岳夜鹿 隅田秋月 利根遠帆 暮荘煙雨 神祠老杉 (黒髪は日光連山、後岳は道灌山を指す)

東に筑波、西に富士。とにかくいい眺めだったらしい。ここで生まれ、すぐ隣の谷中に住んでいた田戸亀太郎さん(八十七歳で死去)が残したガリ版刷りの小冊子によると、広重が描く茶店は「崖の茶屋」とよばれ、三軒あったそうで「田村屋、富士見屋、馬渕と云い…春の花見、夏は涼み、秋の月、冬、は雪景色の眺めが美しく…私が子供の時分…はるか遠く荒川の土手迄田畑で…荒川を上下する白帆も見え、遠く国府台の丘陵、男体女体の筑波山も広重の版画そっくりに紫にかすんで見えました」ということだから、明治三十年ごろまでは、広重の風景はそのまま残っていたことになる。

絵に、坂を上ってくる人の姿が見える。地蔵坂である。・・・八景の一つ「神祠老杉」は今はあとかたもない。・・・

(解説文からの抜粋 )

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