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今野ユキ
 
 今年は暖冬でいつもの年より早く桜が咲いたと、ニュースで言っていた。
確かに、通勤途上の小さな公園や街角には桜の薄ピンク色がさんざめいているのを 眼の端に捕らえていたような気がする。
 
「ああ、桜が…」
 
 しかし、私の心が捕らえない桜は 眼に映っていても実態を伴わず、言葉としてのプリントアウトもされないまま そうしていつのまにか散り、季節は移ろっていたのだった。大好きな桜なのに…。
 
 昨年、若年性の認知症と診断された夫の病状は、薬のおかげかそんなに大きく悪化することもなくしかし、確実に少しずつ彼の脳を蝕んでいっている。
彼の記憶は、カラオケの字幕が曲に合わせて色塗られ消えていく様に消えていく。直前の言動のほとんどが瞬時に消えていく。
それだけならいい。同じことを何度も繰り返し言う「変なおじさん」で済んでいるうちはまだいい。
 
 彼の脳は時々ワープする。
「弟を婿養子にくれと言ってきた」「親父とお袋の位牌を投げ捨てやがった」等々…訳の分からないことを真顔で言い続ける。電話をかけまくる。落ち込む。否定すると怒鳴りだす。
認知症特有の「妄想」なのだという。
 全くの作り話なわけでもなく、過去にショックを受けた、似たような経験と、幻視・幻聴が重なって「妄想」を引き起こすらしい。彼の場合、甥の葬儀というショックと、通夜の睡眠不足と疲れが「妄想」の引き金になったらしい。この春、夫の「妄想」は約一週間続いた。
ようやく落ち着いたある日、彼は言った。
 
「かあさん、おれは親父の墓に入りたい」
 
「あら、あなたは『骨は散骨してくれ』っておっしゃってたじゃない?」
 
「いや、親父が待っているような気がする。昔は大酒飲みの親父が嫌いだったが、今なら一緒に酒を酌み交わせる気がするんだ」
 
「おれは先に入っているから、かあさんもあとからくるんだろ?」
 
「…はいはい、ずーっとあとになりますけどね」
 
 ふたつ哀しかった。
ひとつは、彼の蝕まれた脳に「死」は確実に射程距離に入ってきているという予感。
もうひとつは、一緒の墓に入るかと聞かれ、一瞬たじろいでしまった自分。
彼の故郷の日当たりの良い斜面にある共同墓地が目に浮かんだ。
市町村合併されるという話が持ち上がっている少し寂れた小さな町である。
静かな墓地に桜の木が一本ある。
 あそこに眠れば 毎年ゆっくり花見ができるかもしれない。
彼にとっては懐かしい先祖の墓でも、私にとっては知人のひとりもいない地ではある。
しかし桜は等しく美しく 我らに安らぎを与えてくれることだろう。
 
 桜よ、桜!あでやかに狂おしく 死者と死に逝く者をその美しい花びらで覆っておくれ。
そして桜よ!見送る者に ほんの少しでいいからその潔い「覚悟」を教えておくれ。桜よ!
 
 ― 私の心は泣きそうな想いで叫んでいた。

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