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白い蝶

菅野 幸江


 父が亡くなったと知らされたのは、7年前の3月3日、暖かなひな祭りの夕方だった。

 電話脇に飾った菜の花がひらひらと散った。薄暗くなったリビングの、そこだけがぼんやり明るかったのを覚えている。

 

 その前の日まで 私は会津若松の病院に、父の付き添い看護に行っていた。

 その頃の父はとろとろ眠ったり覚醒したりで、意識はかなり混濁していた。夜中に突然起きあがり、「明日はゲートボールの試合だ。こうしてはいられない」と点滴をカラカラ引きずって出て行こうとしたり、「観音様がお通りになる」と空間に向って拝み始めたり、ガン末期のモルヒネによる幻覚症状が顕著に出ていた。

 3月2日、母と交替して、東京への帰途につくはずの夕刻。なぜか私は会津若松駅に辿りつくまでいつも30分の道程を2時間も有してしまった。不思議な事にバスに乗ろうとすると様々なじゃまが入り、次のバス、次のバスと病院の周りをぐるぐるしていたのだった。今思うにあれは父が私を――行かせまい――と引きとめていたのだと思う。

 電話を受けて悲しいという感情は沸かなかった。

「とうちゃん やっと楽になって良かったね」とむしろ労いの言葉さえかけてあげたいくらいだった。

 10年だ。10年もの間、父はガンと戦ってきた。60歳の時の胃がん発病・全摘手術・抗がん剤投与・退院、まもなく大腸に転移・また手術・人口肛門・退院、つぎは腎臓と…満身創痍、壮絶な戦いの10年であった。

 抗がん剤の副作用に苦しみ、医師のインフォームドコンセントがうまくいかず、強引に退院してしまったこともあった。せっかくの外泊も様態の急変により、その日のうちの救急車での舞い戻りとなったときもあった。ときに自暴自棄になり母に八つ当たりし、ときに希望を見出して小旅行やゲートボールなどの趣味を楽しんだこともあった。

 「告知」など一般化していなかった頃である。どんな思いで「死」の深い淵を覗いていたことだろう。父は知っていたのだ。自分の命がそんなに長くないことを……。

「にしゃは(おまえは)俺に似て酒が好きみてえだから言っておくが 飲み過ぎるんでねぇぞ。とうちゃんの様な病気にならねぇようにしろよ。」――しみじみと言ったことがある。父の私への唯一の遺言となった。(ごめんなさい、今だに守られていない…)

父の本名は「正ただし」だったが姓名判断からなのか「正志まさし」と名乗っていた。彼の戸籍には 昭和元年12月1日生となっているが、本当はその年の正月生まれだったようだ。身体も小さく泣き声も弱く「育たないかもしれない」という産婆の言葉に、親は届を出さずに1年近く様子をみていたようだ。乳児死亡率が高かった当時としては、普通の事だった。

 父の少年期のことを私は知らない。父は多くを語ろうとしなかったし私も聞こうとしなかったからだ。18歳で航空隊に志願し、新潟で訓練したが20歳になる前に終戦になり、一命をとりとめたとだけは母から聞いた。終戦後は「石工」として修行し、27歳の時に、近隣の山口部落の母(当時21歳)のところに婿にきたのだった。

 父は無口だった。父の無口は半端じゃあなかった。ある時、私が何か質問したのだが、父は返事をせず、5分も10分もたち私もそのうち質問した事も忘れてしまった頃 いきなり「あれはな、こういう意味だと思う」とボソッと答えたのにはびっくりしてしまった事がある。あまり笑わない人で、かといって怒っているわけでもなく、ひたすら静かに思策の人だった。

 父は酒豪であった。「飲んべぇ正まさ」の異名をとったこともある程、ほっとけば3升ぐらいの酒は平気で飲んだ。暴れるわけでもなく、ただ穏やかに飲んでいた人だった。昭和30年代〜40年代初めにかけて、父は冬になると関東方面に出稼ぎに行った。「石工」の腕を買われて当時としては良い稼ぎをしていたらしく「(あの家は)いい婿を貰ったもんだ」「正あんつぁは婿の鏡よ」とまで村中から言われた。しかし、この頃から酒量が増えていったのも確かなようだ。母に叱られながらよく「大田胃散」を飲んでいる父の姿を 覚えている。

 父は勉強家であった。農作業一つとっても「温度」「天気」「水」「肥し」など克明に記録して科学的に積み重ねていくタイプで「直感」にのみ頼る事を嫌った。よく本を読んだ。私達娘にも「向上心」を暗黙のうちに求めた。玩具は買ってくれなかったが、百科事典とかテープレコーダー・本などは無理しても買ってくれた。

 父はやさしかった。大学を勝手に中退した私が、駆け落ち同然に今の夫と暮らし始めた福島市「信夫山」中腹の、粗末なアパートを父は探し訪ねて来て、怒鳴るわけでもなく、静かに言った。「にしゃが幸せならそれで良い。田舎(祖母と母)には迷惑かけるな。身体には気をつけろ」……。

 坂道をとっとこ下って行く小柄な父の後姿を見ながら、その時私は初めて「親の有難さ」「自分の傲慢さ」を感じたのだった。どうしてあの時「ごめんなさい」と言えなかったのだろう…と、私は後々まで後悔した。

 父の晩年の夢は、100年近く経つ「家」の新築であった。あちこち改修はしても、古さは隠しようもなくガタがきていた。何回も自分で図面を引いてみたり大工に相談してみたりしていたが、これも縁なのだろうか、とうとう実現しないまま亡くなってしまった。

 

 昨秋、父の念願だった「家」が建った。

 2階に4部屋、1階に4部屋+LDKNの大きな家である。茶とグレーを基調とした父の好みそうな落ち着いた家である。

 それは、親族一同集まっての「新築祝会」の日であった。

 盛り上がる宴会の最中、季節でもないのに一匹の白い蝶が ひらひらと玄関から入ってきた。体長2cm程の小さな蝶である。

「おやっ?蝶が…」――叔父がつぶやいた。

 白い蝶は1階の各部屋を確かめるように巡った後、今度は2階へと向きをかえた。

「とうちゃんだ…」――義弟がくぐもった声で言った。一同がシンと見守る中、白い蝶は2階から降りてくると 満足したように茶の間を一巡りした後 ひらひら出ていった。

皆しばらくは無言であった。胸に去来するものは 同じだった。

 

「とうちゃん、立派な家ができて良かったね。」

「とうちゃん、皆のこと守ってあげてね。」

――白い蝶が消えた透明色の空を見上げながら 私は語りかけていた。

会津の秋はいよいよ深まり、遠く飯豊山の頂は白く、木々を渡る風は間近な冬の到来を告げていた。


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