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ハ ク ビ シ ン
菅野 ゆきえ

 チーン…チーン……チーン…チーン……
 
 誰もが寝静まった真夜中午前1時、私と夫は窓の外遠くから微かに聞こえてくる高い鈴のような音にガバッと起き上がった。
 
 「おい、あれは何の音だ?」
 「なんだろう?」
 
 それは高く澄み切った金属音で、途切れ途切れだが、巡礼のお遍路さんが鈴を鳴らしながらゆっくり歩くような速さで、しかし確実にこちらに近づいてくるのだ。
 チーン…チーン…
 ここは会津の山奥にある私の実家である。長谷川という小さな川の河岸段丘に20軒ほどの家がポツポツと点在する農村である。私たち夫婦は毎年5月の連休には、山菜採りを兼ねてここに帰省していた。
 この年はたまたま、4月末日に隣家のミヨ婆さんが亡くなって、その葬儀が行われている最中だった。そしてその鈴のような怪しい音は、川下にあるミヨ婆さんの家の方から聞こえてくるようだった。
 
 「ねぇ、まさかミヨ婆さんの霊が彷徨っているんじゃないよね」
 私が震えながらつぶやくと、
 「そうかもしれない。家に帰りたい、帰りたいって言っているんじゃないか?」
 
 顔を強張らせた夫は、寝室としてあてがわれている2階の角部屋の窓を恐々開けて隣家の方を窺った。田舎の夜は都会と違って闇が深い。街灯もない。僅かな星明りの夜空に黒々とした山並みが迫り、隣家もぼんやりとしたシルエットになって静まり返っている。不思議な音もピタッと止んで、川のせせらぎだけが急に大きく響いてくる。
 
 夜気の冷たさに慌てて窓を閉め、布団を被って寝ようとすると、また再びあのお鈴の音が聞こえてくる。
 
 チーン…チーン…
 
 まんじりともせず夜を明かすと、私たちは早々に東京に帰る支度を始めた。話を聞いた怖がり屋の妹は、眉をひそめて言う。
 
 「この世に心残りのある人は、死んでも死にきれないって、家の周りを彷徨うらしいよ」
 
 一方、母は目をぱちくりさせて言う。
 
 「そんな音はオラ聞いたごとね。悪ぃ夢でも見てたでねだが?」
 「それより山菜採りはどうすんだ。一緒に行くはずだったべ」
 
 山菜採りどころじゃない。横溝正史の小説じゃあるまいし、怨霊なんかに祟られたらたまらないと、私たちは一目散に東京に逃げ帰った。
 
 事の真相が解ったのはそれから3日後のことだった。義弟が夜中に例の音を聞きつけ、懐中電灯を持って川沿いをそっと探索したのだという。
 
 「姉ちゃん、見つけたよ。あれはハクビシンだった」
 
 義弟は笑いながら電話をくれた。彼の調べによれば、ハクビシンの雄は年に一度、ごく短い繁殖期に雌を求めてああいう鳴き声を出すのだという。亡霊でも何でもなかったのだ。
 
 『幽霊の正体見たり枯れ尾花』(也有)――
 
 まさにこのことかと、私と夫はホッとした。
これは20年近くも前の怖かった思い出である。
 
 今思えば、ハクビシンという外来種の獣は、その頃に会津の里山あたりに進出してきたのではないだろうか。それ以前にはムジナ(狸)やカモシカくらいしかいなかった。だから母も当時、あの鳴き声を聞いたことがなかったのだろう。
 あの後からだ。母は畑で作物を育てながら、他の獣と同様に、いやそれ以上に、ハクビシンとも戦うことになっていった。
 
 「ハクビシンの畜生め、おらが作った野菜や唐黍みんな食い散らかしていきゃあがった!」
 
 母はそう怒りながら電話をしてきて、私に送る収穫物の少ないことを詫びていた。ハクビシンはその後この地で急速に繁殖増大していったようだ。
 その母が亡くなって3年になる。ハクビシンの怪しい求愛声に怯えた夫も8年前に病没した。ようやくコロナが明けた今夏、私は久々に孫たちを連れて会津の実家に帰省した。
ここは元々寒村だったが、さらに過疎化が進んでいるようで、空き家や耕作放棄地が増えている。高齢者率も高く、夏休みだというのに子どもの声も聞こえない。
 
 ボロボロの廃屋になって久しい隣家には、どうやらハクビシン一家が棲みついているようだ。夕方散歩に出かけた中学生の男孫が、「珍しい動物が歩いていたよ」と、スマホで撮った写真を見せてくれた。丸々と太った二匹のハクビシンだった。
 義弟がガレージの前に仕掛けた簡易防犯カメラには、夜中に餌を求めてうろつくハクビシンやムジナの姿がたびたび捉えられていた。
昨年郵便局を定年退職した義弟は、母の残した畑を受け継ぎ、趣味程度の野菜を作るようになった。やはり病害虫やハクビシンなどの害獣対策に苦闘しているという。アーチ形の支柱を立て丈夫なネットを張り、朝晩見回りしながら水をやってと、大変な手間暇をかけて作物を守っている。
 
 「労力や経費なんか考えると、野菜は町のスーパーで買った方が安いってつくづく思うよ。でも作ってないと土地がどんどん荒れるばかりだからさ」
「人間がだんだん減って、獣だけが増えてのさばって、そのうちこの村はあいつらに完全に占拠されるかもね。今は熊とか猿が来ていないからまだいいけど、狙われたらほぼ全滅だからね。……まあ時間の問題だな」
 
 そんな恐ろしいことを何気に言って、義弟は苦そうにビールを飲み干した。
 翌夕、向かい山にあるお宮に行ってみた。蔦だらけの鳥居をくぐり苔むした石段を登った。幼い頃、かくれんぼや虫探しをして遊んだお宮だが、社の縁台も無残に朽ちかけ、境内には茫々と夏草が伸びている。鬱蒼とした杉木立からは、蝉の音が喧しく降り注ぐだけだ。
 
 あまりの寂れように言葉もなく、しばらくぼんやりしていたら辺りが急に薄暗くなってきた。時計を見たらまだ午後5時だ。山あいの村は日没も早い。太陽が高い山の向こうにストンと落ちてしまうからだ。同時に気温も少しひんやりしてくる。
 急速に暮れてゆくお宮や村のそちらこちらの暗闇から黒い妖気が漂ってくるような気がするのは、私の思い過ごしか。
 ハクビシン、ムジナ、魑魅魍魎までもが息をひそめて出番を窺っているような怪しい気配を感じるのは、私の弱気のせいだよね。そう思いながらも慌てて石段を駆け下り、実家への畦道をひたすら急いだ私であった。
 
2023・8・18
 

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