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七十の手習い
菅野 ゆきえ

 今「書道」にはまっている。
 友人に誘われて気軽に覗いた近隣の書道教室。芳しい墨の匂いやアットホームな教室の雰囲気に、いっぺんで引き込まれてしまった。
 木曜日午前の1時間半、15~6人の中高年男女の生徒たちに、80歳のかくしゃくとした拓琇先生とその娘さん達である春鶯先生、白琇先生の3人が交代で指導している。始まる前は墨を摺りながらぺちゃくちゃおしゃべりしていた生徒たちも、始まるとシンと静まり返ってそれぞれの課題に集中していく。
 菅野さんも試しに書いてみれば、と渡された太筆で半紙に「永」の字をつづってみる。
 「あら、芯のしっかりした字ね」「伸びやかなはらいですね」「本当に初心者ですか」等とほめられ、すっかりその気になってしまった。
 
 考えてみれば毛筆を持つなんて半世紀以上も遥か昔、小学生以来じゃないだろうか。
 「上手く見せようってばかり思っているでしょ。こういう字、先生は好きじゃないな」
 お習字のW先生は私の書いたばかりの半紙をぎろっと見てこう言った。言い方はきつくはなかったが、小学校6年生の私のプライドを叩きのめすには十分な言葉だった。何という字だったかは忘れたが、書いた字を否定されたというより私全部を否定された気がして、何も言えず下を向いて唇をかみしめた。
 (W先生は私のこと嫌いなんだ……。私の字は駄目な字なんだ……)そんな惨めな気持ちでいっぱいになった。
 
 それ以来私はお習字の時間が大嫌いになり、いい加減にやり過ごすようになっていった。そして大人になっても墨や筆からは何となく距離を置き、努めて関わるのを避けてきた。いわゆるトラウマというものかもしれない。
 確かに小学校の「習字」は文字を正しく美しく書く練習段階であり、「書道」のように文字の形象美を追求する芸術的なものではないかもしれない。だとしても、12歳の子どもに諭す言い方が他にあっただろうと今にして思う。
 
 その頃の私は早熟で生意気な女の子だった。お勉強もそこそこできたし、本をたくさん読むので同級生より物知りだということを鼻にかけているところがあった。特別に目をかけてくれる先生も何人かいて、依怙贔屓されていると陰口をきかれていることも知っていた。なんでもひと通りそつなくこなせるので褒められて当然と天狗にもなっていたのだろう。
 そんな私に苦々しさを感じている大人もたくさんいたのだと思う。W先生もそのうちの一人だったのかもしれない。
 ――この子の天狗鼻を今のうちにへし折っておかなければ……。
 (W先生ありがとう。おかげで今の私の鼻はぺちゃんこの獅子鼻です……)
 
 拓琇先生は、おずおずと差し出す私の半紙に赤を入れながらにこやかに言う。
 「お手本をよく見て慎重に書いていますね。真面目な方なんですね。でも基本さえできていればお手本通りじゃなくてもいいんですよ。滲みも歪みもあまり気にしないでください。ほら、これはこれでいい味わいでしょう?」
 「書道は自分自身と向き合う時間でもあります。イライラしている時は荒れた字になります。弾んでいる時は落ち着きのない字になります。心を空っぽにしてただひたすら書くことがメンタルにとてもいいんですよ。さあ楽しんで書きましょう」
 
 (なぁ~んだ、お手本通りじゃなくてもよかったんだ。楽しんでもいいんだ)
 拓琇先生のこの言葉を聞いて、心の隅っこにずっとかかっていた灰色のモヤが晴れてゆくような気がした。
 一筆一筆が違う雰囲気になり、半紙ごとに趣が異なる「書」というものに、今、私は夢中になっている。筆の回し方、ぬき方ひとつで全く違うものになる「書」の虜になっている。
 「菅野さん、息してる?」と、声をかけられハッとして皆の失笑をかう時もある程だ。
 出来ることなら今の私を動画に撮って58年前の私に届けてあげたい。「書道」って奥が深くて自由でうんと楽しいものなんだよって教えてあげたい。
 
 ※ここに通っています→ 拓門書道会 (takumonshodo.jp)
 
 
 先日、ダウン症の書家・金澤翔子さんの画廊(大田区久が原)を訪ねる機会があった。
生まれつきの障がい者であり言葉によるコミュニケーションもとりにくい彼女だが、その作品の力強さ、美しさには只々圧倒される。NHKの大河ドラマ『平清盛』を揮毫したことでも有名な方である。母親である書家・金澤泰子さんの厳しい指導の下、5歳から書に取り組んできたという。笑顔がかわいらしい小柄な彼女のどこに、このようなほとばしるエネルギーが潜んでいるのかと思うほど、太く逞しく躍動的な作品がたくさん飾ってある。
墨の濃淡、線の太さ、跳ね上げる角度とかすれ具合、それらが見事にバランス良く融合し、向き合う者の胸に迫ってくる芸術作品たちである。
 金澤さん関係の教室に通っているわけではないが、私もいつかこんな迷いのない書を描けるようになりたいものだと、そっとため息をつきながら画廊を後にした。
 
 金澤翔子ホームページ (k-shoko.org)
 
 「六十の手習いっていうけど、お母さんのは七十の手習いだね」
 娘たちはあきれた顔でいうけれど、学ぶのに年齢は関係ない。人は幾つになっても成長できると誰かが言っていた。それに私のようにせっかちでガチャガチャした日常を送っている者は、せめて週に一度筆を持ち静謐な時間に身を置くことで、少しは落ち着いた性格になるのではないかと密かに目論んでいる。
 
 もうすぐ拓琇先生拓門会の作品展が開催される。頑張って良い作品を出すぞっと、今週も元気に教室に向かう私である。
 
 あらいけない!文鎮を忘れて来ちゃった!
 
 せっかく始めた「書道」でも、あわてんぼうでおっちょこちょいの性格はそんなに簡単には直らないようだ(トホホ)。
2023.10.31


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(乱蘭通信HPバックナンバーに過去の文章 載せてあります。)
http://ranrantsushin.com/backnumber-yukie.htm


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