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春の風になる
菅野ゆきえ
 

 「あなたにお話があるの」
30年来の友人のせっちゃんが突然訪ねてきた。

 私が温水プールから戻ったばかりで、濡れた髪を乾かしている時だった。
 「どうしたの?」とドアを開けると、げっそり痩せて白い顔をこわばらせたせっちゃんが立っていた。コロナ禍もあり私たちはしばらく会っていなかった。
せっちゃんは手近な椅子に座ると、はぁ~と大きなため息をついてから言った。

 「実はね、私、先週家を出たの」
 「えっ、どうゆうこと? お引っ越し?」
 確か80歳近い夫君と二人暮らしのはず。せっちゃんだって小柄でおかっぱ髪だから若くは見えるけど、私よりちょっと年上で70代半ばになっている。

 今更引っ越しとは大変だ。
 「ちがうのよ。私だけが○○町にアパート借りたの」
 「えー! 別居? いったい何があったの?」
 私は頭に巻きつけたタオルが落ちたのにも気づかず、思わず身を乗り出した。


 誰にも言ってなかったけど、ひとり息子が結婚して家を離れてから、私たちあまりうまくいってなかったの。仮面夫婦っていうのかな、ここ何年かはずっと同居別居状態だったのよ。
 何が原因かって? 一言ではいえないわ。だんだん価値観の違いがはっきりしてきたってことかしら。気がついたらもう修復できない状態になっていたのよ。
 私はね、残された人生、旅行でもして楽しみましょう、家のリフォームもして快適に暮らしましょうって言うんだけど、あの人は『旅行に行きたかったらひとりで行ってこい』『リフォームなんかしなくても不便じゃない』って、ことごとく反対するの。

 挙句の果てには『これからは食事も洗濯も全部別々にしよう。俺は自分の事は自分でできる』とか言って、本当に冷蔵庫も縦半分に仕切ってしまったの。

 そりゃあ私だって何度も話し合って歩み寄ろうとしたわよ。でもね、あの人頑固者だから昔から私の話なんか聞かないのよ。
 『この家は俺が働いてローンを払って建てた家だから俺の物だ。文句があるなら出て行ってくれ』なんて信じられないことを言い出すし。この間なんか、
 『お前さんの役割はもう終わっているんだ。まだ分からないのか!』って言うの。
それって、もう母親でも主婦でもない私なんか要らないってことよね。それ聞いて私、本当に悲しくなっちゃった。妻ってなに? 夫婦ってなに? あの人にとって私はいったい何だったのって……(涙)。

 別に暴力を振るわれているわけじゃないの。でもこれモラハラ(モラルハラスメント)っていうのよね。今までずいぶん我慢してきたけど私、もうほとほと疲れちゃった。
 離婚? それも考えたけどいろいろ面倒だからとりあえず家を出ることにしたわけ。
 息子もメールで、母さんの好きにしたらいいよって言うから、えぃって思い切って飛び出しちゃった! あなたには事後報告になってごめんなさいね。


 普段はおとなしいせっちゃんだが、今日は珍しく一気にまくし立てた。そしてすっかり冷めてしまった紅茶をぐびっと飲んだ。
 「そう、そんなことがあったの。辛かったわね。私の方こそ力になってあげられなくてごめんなさいね。それで、せっちゃん、これからひとりでやっていけるの?」

 私は一番心配なことを聞いてみた。
彼女は言いたいことを全部言ったせいか、ほっとしたように愁眉を開いた。
 「ええ、大丈夫。僅かだけど私の年金も入るし、母が残してくれた貯金も少しあるし、贅沢さえしなければ当分は食べていけると思うの。
 1Kの狭いアパートだけど、今、私、とっても幸せなの。あぁ自由なんだな、誰にも気兼ねしなくていいんだなって深呼吸したいくらいよ。だから心配しないでね。落ち着いたら電話するからお茶しにきてね」
 せっちゃんはようやく昔からの人懐っこい笑顔を見せて言った。


 大手企業にお勤めだった夫君は穏やかな腰の低い人で、いつもニコニコ挨拶してくれる。専業主婦のせっちゃんはPTAや町内会の仕事も引き受ける世話好きで明るい人だった。二人はどこにでもいるごく普通の夫婦だと思っていた。
 後期高齢者にもなって、お役御免だの別居だのと、どこでどう間違ってこんなことになってしまったのだろう。双方から聞いてみないと分からないが、夫君の方にも積年の何かがあるに違いない。夫婦には、他人にはうかがい知れないそれぞれの事情や闇があるのだなあと、つくづく思った。

 ともあれ、見る影もない程に痩せてしまったせっちゃんを、今は応援してあげたい。たとえ70歳を過ぎても、人は幸せを求めて前に進めることを体現してほしい。


 詩人・新川和江さんの『わたしを束ねないで』という詩の中にこんな一節がある。


わたしを名付けないで
娘という名
妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
座りきりにさせないでください
わたしは風
りんごの木と泉のありかを知っている風

※新川和江著『わたしを束ねないで』童話屋1997



 Oさんちの娘さん、S田さんの奥さん、D君のお母さん――身にまつわりつくそれらのしがらみを捨て、今一人暮らしを決断したせっちゃんにこの詩を贈ろうと思う。
 「勢津子」という一人の人間として、春の自由な風になりますようにと祈りを込めて。

 空色のスカートをひるがえして帰っていくせっちゃんの後姿は輝いていた。

2023.4.16


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