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    自 転 車
菅野ゆきえ
 
 
 青空を渡る風はまだ冷たいが、2月初めの陽光は明らかに春の色を帯びている。
 その日、私は軽快に赤い自転車をこいでいた。週一回の太極拳教室稽古日だ。通い始めて5か月になる。ようやく型と呼吸法の一部を覚えて面白くなってきたところだ。
 
 左側に山茶花の生け垣のある路地の緩い坂道を下って行ったその時だ。生け垣の角から3歳ぐらいの女の子が急に飛び出してきた。私はびっくりしてブレーキをかけた。赤い自転車は生け垣にぶつかってガシャン!と倒れ、私はというと、その山茶花に抱き留められるようにして転倒を免れていた。
 ピンクのジャンパーを着た女の子は一瞬立ち止まって倒れた自転車を見、私を見、そして何事もなかったかのように走って行ってしまった。
 
 事故にならなくてよかった……。
 自転車の前かごから放り出されたディパックを拾い上げて、私は安堵のため息をついた。そして、そろそろと慎重に運転しながら太極拳教室に向かった。
 
 私の骨密度は普通の人の58%しかない。1年半前、それ程高くない位置から落ちて腰椎圧迫骨折をしてしまったのもそのせいだ。普通の人なら打撲で済んだはずだ。それ以来ずっと骨粗しょう症治療薬を飲み続けている。主治医からは「今度転んだりしたら、大腿骨を骨折して寝たきりになるかもしれないよ」と脅かされていたので、今回の出来事は私の肝を冷やすのに十分だった。
 
 そんな折、同年代の友人・多美子さんが自転車で怪我をしたという連絡が来た。
 自転車にまたがって信号待ちしている時、スマホ片手の若い男のマウンテンバイクに後ろから追突され、自転車ごと倒されたという。警察や救急車を呼んでの大騒ぎになったが、幸いなことに多美子さんは左手首の捻挫と自転車の軽微な損傷で済んだ。
 「とっさにブレーキを掴んだからよかったのよ。そうでなかったら車道に押し出されてトラックなんかにはねられていたわ」多美子さんは後で恐々と語った。
 
 元ママさんバレーボールの選手で運動神経抜群の多美子さんだからこんな程度で済んだのだ。もしこれが、鈍くてどんくさい私だったらどうなっていただろう?
 想像したら震えがきた。もちろん自転車でなくても事故に遭うときは遭う。歩いていても転ぶ時は転ぶ。しかしこの年齢で、自転車の事故リスクが高いのもまた確かだ。
 もう自転車はやめようか――心の奥からそんな呟きが聞こえてくる。
 
 ところが、この太極拳教室会場が家から結構遠いときている。電車とバスを乗り継ぐと片道35分、徒歩だと50分もかかる。それが自転車だと23分だ。この差は大きい。それに、リハビリ医から「ウォーキングは一日6000歩程度にすること」と制限されているので、往復歩いたらオーバーしてしまう距離だ。う~ん、どうしたものだか。
 
 自転車を手放せないもうひとつの理由に飼い猫の存在もある。
 14歳になるオス猫・クロはアレルギー体質なので、毎月の動物病院通いが欠かせない。治療費もさることながら、かかりつけ病院までタクシーを利用すると往復2500円以上もかかる。バスの便もないので、経済上自転車に乗せていくしかないのである。
 
 さらに、この4月から道路交通法が改正されて、自転車の法規制が厳しくなるという。大人もヘルメット着用(最初は努力義務とか)、子どもと年寄り(13歳未満、70歳以上)以外は歩道を走ってはならない、信号待ち時は降りる、自転車保険に加入すべし、等々。
 そんな面倒くさい法律情報も私の自転車利用に迷いを生じさせている。
 
 今は取りあえず、太極拳教室には往きにバス電車を使い、帰りはてくてく歩いている。歩数は5700歩程度。歩きすぎも腰に良くないと言われているので、このくらいがちょうどいいようだ。買い物も、以前は遠くまで自転車で買いに行ったが、今はショッピングカートをカラカラ転がして近所のスーパーで済ませている。
 だが、猫の病院へはおずおずと自転車で行く。デブ猫を入れた5㎏強のキャリーバッグを担いではとても歩けないから仕方がない。
 
 こうしてめっきり出番の少なくなった私の赤い自転車は、今駐輪場の片隅で寂しそうに佇んでいる。時々埃を払ったりタイヤに空気を入れたりするが、こいつの為にヘルメットを買う決心はまだついていない。
2023・2・17


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(乱蘭通信HPバックナンバーに過去の文章 載せてあります。)
http://ranrantsushin.com/backnumber.htm 
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