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  ス ロ ー ラ イ フ
菅野ゆきえ
 
 
 数年前に定年退職し、長野の田舎に古民家を買って引っ越していった友人の桃子さんから、8月、段ボール一杯の新鮮な野菜と共にこんな手紙が届いた。
 
 ようやくまともな野菜が収穫できましたのでお送りします。
 抜いても抜いてもあっという間に生えてくる雑草に手を焼き、やっと芽が出たと喜んでいた菜っ葉に次々と病害虫が襲い掛かり、その対処に朝から夕方まで追われます。やっと収穫できると思ったスイカやトウモロコシが、一晩のうちに野生動物に食われてしまい、がっかりしたことも何回もあります(涙)。
 夫と二人で小さな畑を耕しながら、憧れのスローライフを満喫しようと移住してきましたが、現実はなかなか厳しく、のんびりとした時間などほとんど持てない毎日です。
 曲がった胡瓜やえくぼができた茄子ですが、子どもを育てるように手塩にかけた野菜です。食べてみてくださいね。これからも試行錯誤して頑張ります。
 
 当時、「落ち着いたら絶対に遊びにきてね。手製のハーブティーや無農薬野菜をご馳走するわ」と、余裕綽々と言っていた桃子さんだったが、やっぱりいろいろ大変みたいだ。
 桃子さんの野菜はみずみずしく甘く、長野の風の匂いがした。
 
 「スローライフ」とは、時間を気にせずゆったりとマイペースで人生を楽しもうという、2001年頃から登場してきたライフスタイルの概念のことである。技術の急激な進歩や情報量の過多に疲れた現代人にじわじわと受け入れられてきた。
 さらに昨今のコロナ禍での自粛生活やリモートワークを契機に、ますます「スローライフ」への関心が高まっているようだ。
 毎朝満員電車に揺られ、過酷な残業をこなし、溺れそうな程の情報量に喘ぎ、がんじがらめの格差社会に傷つき、人との距離感も図りにくくなっている都会人に、「スローライフ」というのは砂漠のオアシスのようなイメージを抱かせるものなのかもしれない。
 
 桃子さんのように「リタイアした夫婦でのんびり田舎暮らしをしたい」という人や、「人口密度の低い田舎の方がコロナに感染しにくいだろう」「どうせリモートワークするなら海辺の別荘の方がいい」という人がどんどん増え、2020~21年には軽井沢や伊豆の中古別荘がかなりの高値で売買されたという。
 知人に門田氏という50代の男性会社員がいる。彼はやはり数年前、那須塩原に安い土地を買って週末ごとに通いながら、2年ほどかけて自分ひとりで平屋のログハウスを2棟も建ててしまった。
 ガスはプロパンを入れ、水道と電気をひいて、トイレも浄化槽工事をしたという本格派である。私も家族と一緒に泊まらせてもらったことがあるが、へたな観光地のペンションよりずっと快適で楽しかった。
 近くの川で釣ってきた魚をバーベキューにしたり、花火をしたり、大音量で音楽をかけて歌っても踊っても山あいの一軒家なのでご近所からの文句もこない。そして星がきれい。
 スーパーマーケットや銭湯まで車で20分もかかる不便なところだけど、その不便さがいいのだと門田氏はにっこり言う。「都会に疲れた時、ふらっと深呼吸しに来るといいよ」
 彼のこの別荘も昨年「売ってくれないか」と、問い合わせが2~3件きたが断ったそうだ。
 
 私は昨夏、40年近く勤めた仕事を辞めた。以前から、仕事を辞めたら今住んでいるマンションを売り、何もかもリセットして、故郷の会津に移住しようかと漠然と考えていた。
 故郷には父母の墓がある。気心の知れた親族もいる。懐かしい同級生もたくさんいる。素晴らしい自然がある。分相応の小さな家を買って、年老いた猫と二人でつましく暮らそう。冬の雪かきは大変そうだがまだ70前だ。何とかなるだろう――そう夢見ていた。
 しかし、長年の腰痛は仕事を辞めてもなかなか治らず、遠出には杖が手放せない有り様が続き、主治医に聞くと「完治は難しいでしょう。これ以上悪くならないよう気をつけることです」という。これでは雪かきどころか会津での日常生活すら危ういと、移住の夢は諦めた。
 よくしたもので、リハビリで始めた水中散歩教室やノルディックウォーキング教室で知り合った人たちと友達になったり、同じマンションに住んでいるおばさま達にお茶に誘われたり、勤めていた頃には得られなかった新しい人間関係が生まれた。
 
 さらに「スローフード」にも目覚めた。例えば「味噌」「干し柿」「切り干し大根」などを手作りする喜びである。買いに行けばいくらでも安くて多種類の物が手に入るけれど、オリジナルを作る手間暇がなんとも愛おしい。孫たちに「ばあば、おいしいよ!」と言われると頬がゆるむ。
 時間も忘れて、くすんだ古い鍋をピカピカに磨きあげたり、絨毯のシミを悪戦苦闘の末すっきり落としたりすると「よしっ!」と、思わずひとりでガッツポーズをする。
 日の出間近の美しい海浜公園を1時間散歩し、雨の日は読書に勤しみ、自治会の花植え替え時には、係りの班長として皆と共に汗を流す。
 
 こうして1年余が過ぎ、ふと気がついた。
私のこの暮らしって立派な「スローライフ」ではないだろうか。
 田舎に移住しなくても、別荘暮らしでなくても、適度に自然とふれあい、人とふれあい、時間に縛られず好きなことに没頭している。わざと不便な暮らしを楽しんでいる。たまのボランティアで他人様の役にも立っている。
 大上段に構えなくても、お金をかけなくても、「スローライフ」って案外簡単なことなのかもしれない。自分の人生にとって一番大事なことを中心に据えて、身の丈に合った暮らしを大いに楽しめばいいことじゃないだろうか。
 
 そう考えると、従兄の武藤守さんは「スローライフ」の元祖とも言える。世間でブームになるずっと前から、独自のスタイルで人生を楽しんでいる大先輩だ。今度ご教授願おう。
 
 寅年が終わり、新しい卯年が始まろうとしている。
頭の中では「年が明けたら新しい小説にも着手したい、編み物にも挑戦したい」と、希望だけが空騒ぎしているが、まあまあ、のんびりゆったり取り掛かろう。なにせ私は「スローライフ」の新参者なのだから。
2022.12.8.

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