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道中日記 3

4月18日

午前8時起床。

10:00チェック・アウト。1人6800円也。展望台。北緯33度線。だんぢく(竹)の繁み海風に騒(さや)ぐ。この竹で年少時の山崎、ちゃんばらにて大いに遊んだ由。崎戸では30代までの夫婦は住居無料提供、手当て付く由(子を生すが条件)。古津と私が夫婦者、山崎その父というふれこみで住むかという冗談。どっちの父親か。昭和13年築の監視塔 (スクリュ ー音の探知)、内も外も蔦でぎっしり。海のいろ日本とも思えず。水あかるく澄 んでなめらか。光を秘めて流れる。潮の香あくまで軟かし。藍よりも青しといった趣き。小さな入江に寄る。ビーチグラス、流木ならぬ流瓦ひろい。墓地、碑銘みな金泥、日に輝く。南国らしい。社交クラブ跡廃墟。校舎のごとし。写真。中学校跡。三輪トラック横転、肥料ぶちまけた話。生徒千数百人だった由。病院 跡。ひろびろした芝生の公園に今は子どもが遊ぶのみ。日を遮るものなし。炭鉱跡廃墟、緑猛る。鳶多し。

昼、真宗大谷派法恩寺。古掛軸すばらし。龍樹大師、源信、法然等七像。モモ(猫)、障子の破れをくぐる。裏庭の低い木蓮の花、匂い柑橘のごとし。古津と二人、旧山崎家。屋号かどや。煉瓦塀のみ残る。br>
曾祖父与史朗、鍋島藩剣術師範。二人で京まで近藤勇を討ちに後をつけるも、その尋常ならざる殺気に格の違いを悟り頓挫。祖父仙一、炭鉱の工木工場を営み財をなす。当時の家財、柿右衛門あまた、仙崖五巻等、その後の火事で焼失。父与(あたえ)。当時長崎で5人という帝大出身。気位たかくひとに仕えるを拒み通す。発明狂だった由、報われるところなく逼迫。史朗氏母堂の苦労ひとかたならず。崎戸を離れてからも、最晩年まで化粧品・宝石のセールスで島を訪れていた由。短歌結社四つに所属。古津曰く油彩水彩、画をものして鮮か、人柄も華やかだったとか。

界隈を散策。人気なし。古井戸。仔猫。蜂の巣と化した家壁。池に亀とびこむ。森。竹生の空き地。熊蝉のなきがら。大きな蝸牛の殻、貝殻。大つぶのいぼいぼがついた小さな青いガラスの壺。大木に蔓ふとく下がる。ターザンごっこのさま髣髴。そこここに秘密の基地ありげ。絶好の子どもの遊び場。寺に戻り、辞去。

旧山崎家の隣家に山崎旧知を訪ねる。今は七十路の未亡人。往時の美貌偲ばる。最後の崎戸会、この5月。盆踊りは踊りも唄も昔のまま。崎戸で撮影した映画“おばけだぞぉ”今夏公開の由。明日海胆の口。崎戸産の若布をみやげに戴く。

日本中の島をめぐり、崎戸に居を据えた元広告デザイナーという人に会う。お上の傘をかりずに自力で事を興し伝えるための場作りの必要を、自然の残る田舎暮しが秘める可能性を、山崎熱っぽく説く。同級生、柘本酒店に寄る。つぶれた島のレコード屋から譲り受けたという蓄音機用の新品のレコード盤、段ボール二箱ぶんを、山崎貰い受ける。まだまだ沢山ある由。それはいずれまた。

5:00、崎戸を辞す。

6:00、佐世保着。駅前“お富さん”にて長崎ちゃんぽん。佐世保時代、山崎古なじみの店とか。味は渝(かわ)らぬ由。

馬場崎研二(ダライ・ラマ専属のタンカ絵師、個展に合せて帰国中)をその実家に訪ねる。山崎と同高校の後輩。ここはもと雑木山(楠多し)の一軒家だった由。今は住宅地、マンション建ち並ぶ。とは言え庭先には 楠の美事な大樹、竹林に囲まれ、高台より佐世保の街を一望す。小糠雨。ジュン(犬)。母堂79歳、若々し。付近で採れたての竹の子煮、刺身、ビール〜日本酒。馬場崎、豊住とは、インド放浪時代(30年近く前)に一時行を共にしていた縁あり。一緒にインド人をからかって遊んだ由。馬場崎の祖母、山崎と知り合う前の山崎妻のお華の師匠。世間は狭い。山崎かりんとうが大の好物。花粉症の咳をかりんとうで鎮めんとす。曰くカリ中、カリスマ中年。してその実体は、かりんとう中毒。馬場崎“金はない”“暇なひと”を連発、山崎への忌憚なき親愛の情溢る。馬場崎伯父は鍼師、戦後薬のない時代に大繁盛、不見転(みずてん)で金鉱買ったものの、結局だまされたのだとか、妻女のひとりが権利を持って跡しら浪とか、金銭に無頓着だったという話。今以て真相は謎。竹の葉ずれのみ、夜ふけていよいよ静か。酒すすむにつれ馬場崎日本の現状を頻りに憤る。宗教を教えず、道徳薄い日本の教育に二児の子の父慨嘆。小説“永遠の仔”に感心した由。この実家と両親がなければ日本に帰ってくる理由はないとか。芦北の秘湯120円の話。日本の素晴しい面を日本人は知らなさすぎる。灯りを消して街明りに一服、煙草談義。

午前一時就床。

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