思い出すまま - No191 /  prev top next

 山の神
 山の神と言うと、古くは日本狼だったお犬様、大山祇、木花咲耶姫などが上がります。庶民が山の神と言う時は自分の奥さん、主婦を尊敬していいます。また、何も神様名を言わず山の神というと、女神が一般的です。山の神が春里に降りて田の神になり、豊穣を司るとなれば、女神の方が都合がいいのです。
 
 木花咲耶姫はサクラの化身、浅間神社の御神体、富士山の御神体です。
 そこに修験道と言う仏教と山岳信仰が融合したものが入ってきます。仏教は中国を経由する中で、父系社会の影響を受けて、より男性中心になりました。修験道の仏様蔵王権現は、日本で作られた仏様です。男性的な色彩の強い仏様です。
 富士山は古代は女が登っていけないという忌避はありませんでした。中世になると、女性の登山が禁止されるようになったのです。
 
 「女性が登ると山の神、木花咲耶姫が嫉妬するから」とか「生理の血で汚すから」とかいう理由をつけていますが、生理の血が汚れと結びつくのは中世以降で、古代は豊穣、生産の証とて縁起のいいものだったのです。母系制から父系制に社会が移行し、男の勝手な論理です。
 しかし、江戸時代になると富士登山が盛んになり、それを批判したのが、富士講の女性達でした。その運動が功を奏し、浅間神社も八合目までの女性の登山をまとめるようになったのです。
 富士講は江戸周辺の少し生活に余裕のある庶民の団体です。お蚕さんとか、繊維産業に携わる女性の参加が多く、女性は経済力があり、発言力の強化に結びついた団体だったのです。男尊女卑の社会で男女平等を掲げていたのです。
 
 山の神、お犬様は青梅の御嶽神社があげれます。日本オオカミです。縄文時代の信仰を色濃く残す神様です。大山祇、丹沢の阿夫利神社があげられます。丹沢山に風が当たり雨を降らす、雨の神様ですね。阿夫利神社の神主は、「富士山は大山の娘だ」(こちらがお父さんで位は上)だそうです。
 
 羽村の取水堰の水門。冬場ここで長い時間過ご
すことが何度かあった。風がさえきられ、日当た
りが良い。何より音は、気持ちを落ち着かせる。
 和歌
 昔の人、文字のない古代の人が使っていた形式、難しいはずがないということに気付いた。
 紀の国は木の国、木が多かったからです。吉備国は黍が多く取れたからです。淡路島は粟が多く取れた。ですね。
 文字が無かったのです。聞いたら覚えやすいのが、五音と七音の詩の形式なのです。万葉集は貴族が洗練した、あらたまった歌集です。漢字で記録までされていますが。神話や神社の縁起など出てくる和歌は、公的文書です。畏まったものだったのです。しかし、恐らく歌垣などで庶民が口ずさんだ和歌はもっと言いやすかった、話しやすかったものと思われます。今の流行歌と思ってもらえれば良いような気がします。
 
 若者達の宴会、歌垣では和歌を異性のグループに投げかけ、相手の気持ちを確かめていたのです。和歌を詠えなければ恋愛も出来なかったのが古代社会なのです。古代社会はは自由で男女は平等!だったのです。歌垣で思いを投げかけるのは男が先と言ったルールはあったかもしれませんが、現在の男女の恋愛のように、気持ち伝われば良いわけで、和歌は貴族のように洗練されていなくても良い訳ですからね。
 庶民が日常的に五七五の形式でコミュニケーションを取っていたから、貴族はそれを洗練することが出来たのでしょう。貴族だけの占有物では無かったと思います。むしろ逆、庶民の物だったのではないでしょうか。
 恐らく万葉集は、圧倒的に大陸の文化が流入する中、貴族達がこの国の指導者として、庶民に見せる必要があったから編纂されたのです。庶民の和歌より上手い、洗練されている。しかも庶民から離反した存在ではない。共有した文化を営んでいる。ということを示したかったからなのではないでしょうかね。
え・ちえ 
 ジェンダー平等
 女性の社会進出は、日本はかなり下のランクです。中国や韓国の下にいます。何処に原因があるのでしょうかね。
 元々日本は古代の母系社会の伝統が残る国です。様々なところで、女性的な細やかさが、日本文化の特徴となっています。この国際的尺度の選択の問題もあるかもしれません。ヨーロッパ社会は昔は父系社会なのです。それ否定する形で女性の権利が問われてきたので、尺度自体が男性的な物差しも多分あるかもしれません。
 
 嬶カカァ天下、山神と言った言葉は、女性が主役であると言った言葉です。そう言った伝統があるのに、下品なもの、品がない言い方といった、蔑みのイメージがあるのです。撫子なら良いが、山神では荒過ぎる。そう言ったイメージの持つ力が、足を引っ張っているのかもしれません。
 元々は嬶は庶民の主婦の意味で蔑み意味合いはありません。山の神は尊敬の言葉です。山の神は元々権威ある神様ですから。
 埋もれた日本語、女性の力を尊重した日本語の復活をすることは大切なような気がします。僕は。そうしたら、新たなもう少し柔らかい女性主体の言葉が生まれてくるような気がするのですがね。
4/10 羽村のチューリップ祭です。 
 慰安婦問題
 戦前の社会を知らない世代が作り出した人権問題です。自分達の前世代への無知が作り出したのです。極東裁判でも全く取り上げられなかったのは、そこに裁くべき人権問題がなかったからです。これをもんだ死している全ての国の人々です。韓国の団体だけではありません。
 元慰安婦というおばあちゃん達という証人がいます。しかし彼女らはその場その場の印象のみの証人です。逞しい生活者です。今でも自分の利害関係で生活しているのです。ただの人間、多くの人々同じです。だから話すことが変わるのです。それを裏付ける資料がなければ、証人としての信頼性は失われるのです。
 
 人権活動家、、、? 高等教育を受け、人権問題に目覚めたのは良いが、浅はかな知識の信仰者、宗教家といっても過言でない人々です。知識はそれはそれを批判する様々な視点から考察した時、初めて真実という実態が見えてくるものです。知識の持つ悪害を知らない無能者なのです。
 なぜ韓国で人権活動家がセクハラすのか?自らの知識を自分が生きる哲学の領域まで落として理解していないからです。傲慢さが、自分に眠る差別意識を表に出してしまっているのです。
 
 追伸
 人権問題を扱っているとというプライドが、自分達は世界の先端を生きているとなり、新たな差別を作り出していることに気づいていないのです。差別は人間の業に根ざした深い意識です。誰でも起こり得るものでもあるのです。
 古きもの、遅れたものにはそうであらざる得ない必然があるのです。それは常に未来に繋がる新たな価値を備えているのです。勿論否定されるものも多いのですが、全てを否定してはならないのです。だから、常に自らに問いかける謙虚さが必要なのです。
4/12 仕事で東京タワーに行く。
新緑とタワー。いつ見ても良いね。
 
 中国、、、分からない!
 コロナ禍後の世界は中国絡みで進むのは確かですが、どうなるのか予想は難しい。ウイグル、香港の人権問題。また習近平一局体制を深めた国内政治。一人勝ちと景気の良い話が出ているが、本当の実態はは分からない。
 環太平洋の自由主義の国々も、ヨーロッパも中国依存の経済体質からの脱却は進むと思います。そして中国包囲網という、政治経済の連帯が進みつつあります。それがどこまで強固に作れるのか予想しずらいこともあります。
 
 中国ウオッチャーからは、多くの中国人が依存する中小零細企業の経営がそろそろどん詰まりで、倒産の荒らしとなるとという、予想もあらます。また、中所得国の罠という経済用語の時期に中国が入っているという指摘もあります。「国民一人当たりのGDPが一万ドルをなかなか超えられない。」というものです。中国の一人当たりのGDPは一万ドル以下です。このまま社会主義体制のままですと、一万ドルを超えられません。民主化して新たな自由なルールを作る必要があるのです。「中所得国の罠」の意味することです。それはすなわち共産党の解体です。
 
 習近平は一万ドルを超えられないという経済学のセオリーを力すなわち覇権主義で乗り越えようとしてあるのです。先進国の中国包囲網は強まろうとしています。中国はその対抗策として途上国への影響力を確保するため、コロナ支援、経済援助を増やしています。しかし、必ずしも効果を上げているとは言えません。東南アジア諸国は政治的脅威の方が大きく、対中国の印象は悪化しています。コロナ後も、中長期的にもなかなか予想出来ないのが中国なのです。
 
 カップヌードル革命!
 1970年代初頭出た製品です。安藤百福、日清食品の創業者が世界を睨んで作った、傑作なのです。見事にその戦略は成功し、ラーメンは一地方食べ物ではなく、世界、人類の食べ物になったのです。その執念と先を見る目は尊敬以外の何物でもありません。
 とりあえずはアメリカ人、麺文化のないアメリカ人に食べさせる為様々な仕掛けをしました。
 
一、名称をラーメンではなくヌードルにした。
二、箸を使わず、ホークで食べるようにし、欧米の習慣に近づけた。
三、容器は発泡スチロール、具材はフリーズドライ、スープは顆粒と、当時の最先端技術で固  めた。
四、鶏ガラから豚スープにした。具材と共に、美味しさを確保した。
五、お湯を注いて三分。他は何も必要ない。究極の手軽さを実現した。
六、長期保存が可能で、調理する時間の作りにくいあらゆる場合に対応出来た。
 
 等々です。食べ物は安く簡単でも、美味しくなければ売れません。美味しさを判断するのはその土地や家庭の文化です。未知の食品を受け入れる為には、様々なハードルがあるのです。それらをほぼ全てクリアしたのが、カップヌードルなのです。
 世界のメン(ヌードル)文化はそう多くないのです。中国を中心した東アジア。パスタ、スパゲティーのヨーロッパ。中東に少しあります。習慣のない人々に普及させるためには、半世紀、一世紀と時間がかかります。しかし、カップヌードルはそれを四半世紀という短時間で成し遂げたのです。20世紀最大の食品革命品なのです。
 
 その前提になったラーメン文化は、日本人が20世紀入り、作り上げたメン文化です。中国人が持ち込んだ、中華麺を日本風に改良して中華麺でも、日本のうどん、蕎麦でもない一大メン文化を作り上げてしまいました。「ラーメン」という一大ブランドに作り上げたのです。
 手軽に食べられるインスタントラーメン、カップヌードルは、災害時の非常食、キャンプやハイキングでも手軽食べられる事が、普及の手助けになったことは確かです。
 同じことが握り寿司にも言えます。日本で江戸前の握り寿司が全国化したのは高度成長期です。1990年代経済の後退とともに、残ったのかアニメと日本食です。日本食ブームの底には、食に対する日本人の哲学があったからです。新鮮で安全。簡単で全てが揃う。素材の全てを引き出す。環境に優しく、健康的である。等の日本人が長く培ってきた思想が受け入れられたということです。
 
 福島原発、処理水について
 二年後から福島原発の処理水の海中投棄を、政府が発表した。環境保護団体から様々な懸念の声が上がっています。僕は今回は心配する必要はないのではないかと思います。
IAEAの監視の元ですし、事故を起こした原発ですので、世界中の専門家の監視の目は厳しいわけですから、心配の必要無いと思います。
 僕は基本的に原発はなくても良いと思っています。太陽光を始め、自然エネルギーで人類が使うエネルギーは賄うべきと思っています。
 投棄しないでことまま置いておく方がもっと危険です。地震や台風などでタンクが破壊されれば、大量に海に流れることになりますから仕方ないのではないでしょうか。
 海中投棄し、自然レベルまで拡散するのも一つの方法と思います。
 

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