思い出すまま - No114 / prev top next


 21世紀は女性の時代。
 日本の女はダメ、まだまだダメ、これからの時代は女です。「社会のリーダーの半分は女であるべき」と言うのが僕の考えです。それに比べたらまだ女は弱いのです。これから女が強くなるのは歴史的な必然です。
 男が強い社会は、戦争や戦争を前提にした社会です。しかしこれから、大規模な戦争は起こりませんし、起こせません。これからの日本社会の緊急の課題は、高齢者社会、少子化、環境問題と長く女性が担当してきた問題です。彼女らが社会のリーダーシップをとらなければ解決しない問題だからです。
ヤマボウシ 写真 komaki
 企業戦士とかいう糞面目さや、蟻ん子の様な社会はうんざりです。世界はますます多様化しているのです。それに合わせ多様化したライフスタイルで、なければ生き残れません。
 そして、女が強くなったからといっても、今まで弱かったという分、強くなれというだけのことです。家庭の中では女性の方が強い、それを社会全体に広げればいいだけです。そして、家庭の中での男の復権です、家の中を女に任せないで、ということです。
 TV番組で、今女が元気だという。もし、女が元気なかったら、それは大変で、重症の日本病にかかっていることです。男が元気ない、わけじゃない、相対的なそう見えていると言うことだけでしょう。彼女達が切り開いた所から、新しい日本が見えてくる。これから成熟した日本が始まるのです。
 
 気になるのはビルマ
 五月に、ミャンマー、旧ビルマのサイクロン被害と四川の大地震が起こった。中国は、今近代国家、先進国の仲間入りをしようとしている国です。天安門事件の頃とは全く違った社会になりました。チベットのでも鎮圧に武装警察以上は出せない。今回の四川大地震は、国民の結束と、後回しにされてきた国内問題を浮き彫りにする結果となった。オリンピックの成功と会わせ、三つの明暗の大事件は、国内の諸問題の是正へと、改革の方向に向かうんじゃないでしょうか。情報の自由化、民主化も、具体的な射程に入ってくるんじゃないかと思います。
 問題はビルマです。一カ月以上も経っているのに、援助物資が届いていないところが多く残っていると言う。軍事政権の指導者は馬鹿なんでしょうかね、憲法改正や、対面だけ取り繕っても、「彼らをほったらかしにすると言うことは、軍事政権そのものの政権基盤を弱体化することになる。」と言うことが。
 気になるのは、被害を受けたのが、ビルマの穀倉地帯だと言うことです。今後、食料不足がそうされます。また、強権でそれを押さえ込もうとしているのでしょうか。スチーさんが登場するきっかけになった、民主化も、発端は食糧問題です。今年の秋以降、政治的混乱が予想されます。ここは、ニュースに注目して行こうと思っています。
 
 若い頃の詩
 表に出せるものはこの程度ですかね、あとは捨ててしまったので出てこないと思います。水俣から帰って何やろうか迷った時、二つのこと決めました。一つは「絵を描くこと」。もう一つは「水俣をネタに表現しない。」ということでした。そんなわけで詩は余り表に出さなかったのです。
 水俣病の運動をやっている頃は、突きつけられた現実に対応するのがやっとで、ゆっくり考える暇はなかったのですが、止めてからですかその問題の大きさに気付きました。何年経っても心の整理がつかなのです。「水俣をネタにしない。」でなく、持ち出せなかったのです。
 考え始めると感情だけが空回りして、後ろめたさだけが何年経っても消えない。一升ビン全部一人で飲んでしまうことが良くありました。一人で飲み始めると押さえがきかないのです。結局、体を壊しました。胃を切り、火傷し、入院する度に、強制的に少し健康になる。といった具合です。
 だからこの新聞が必要だったのです。「絵」というイメージの言語だけでは直せなかった。意味言葉である文章で、脳味噌の整理をしないと気づいたのです。友達に、乱暴な文章送り付け、何度も喧嘩になりました。どうしても刺ある言葉になってしまうのです。それでも僕を許してくれた友人たちに感謝しています。そのお陰で、四十歳半ば頃から、少しずつ話せるようになりました。
 僕にとってはこの時期の記録は宝物なのです。「人として」という問いに対しては、この時代まで戻れば大方、自分の態度が見えてきます。肉親の死や友人の死、人間つき合いで起こるさまざまなトラブルなど、難しい心の問題はそこまで戻ることにしています。
 そして、僕が詩を人前に出すようにりました。十年前ぐらいから、この新聞載せるようになりました。きっと僕は根は言葉人間なのでしょう。だから絵を先行させ、イメージの力を養いたかったのでしょう。言葉の暴力にはヘキヘキしていたからです。
 
 水俣・僕にとっての
 僕の青春、水俣病告発する会は、僕にとっては「泪」で始まりました。1970年の秋のチッソ株主総会は荒れ、ニュースで患者さんの怒号がながれました。それをラジオで聞いた浪人中の僕は何故か泪が流れてきたのです。高校生の頃から、感動できない自分、悲しいのに悲しめない自分に嫌悪を感じていた僕は、その時「泪」の実感が欲しく、一度水俣まで行ってみたいと思うようになりました。そのチャンスが一年後にやってきました。
 僕は理系の学生でしたから、高校生の頃から科学雑誌にグリーンランドの氷河のCO2や金属類や農薬の蓄積量が急激に多くなっている警告論文などなど読んでいましたので、漠とした不安は感じていました。71年に大学入り、宮内という同級生と東大の宇井純の自主講座に通ったり公害問題のサークルを作ったりしていました。そんな折、12月に水俣病の患者さんが丸ノ内に座り込んだと聞き、その生の衝撃に「これだ!」とのめり込んでしまったのです。
 早速、宮内と「告発する会」を大学に作ったら、二、三十人集まってしまって、一寸した勢力になりました。そして、僕と美和ちゃんとユリちゃんは大学より、丸の内の座り込みの現場に居る方が多くなりました。彼女達は後でここで知り合った仲間と、その後結婚することとなりました。今どうしているかな。会いたいな。
 
 「告発する会」は、五十、六十年代の左翼運動に挫折した人々が、会のとり巻としてアドバイスや支援をしてくれていました。そして、「『開放』とか『革命』とか左翼のイデオロギー的なことを、水俣病では言うべきではない。」と言ってくれていました。実動部隊の僕らも、学生運動や、当時の新左翼の運動に失望した人々でした。「告発する会は大人の運動」と言われていました。全く左翼的な言動を言わない、美和やユリや僕なんかが入り込めたのです。
 
 丸の内の一角にテントを張り、一年半座り込んでいました。僕らは若いからその実動部隊です。朝、東京駅でガリ版刷りのビラを配り、昼、チッソ本社に交渉しに行き、夕方、都内各地の駅前でカンパを集め、夜は、新橋の事務所で会議、それから徹夜で朝ビラを徹夜で作る。寝るのは、場所と時間を作り、ごろ寝で二時間三時間。風呂は一月に一回というのもザラ。環境庁に座り込んだことも何回かありました。
 交渉事が膠着状態で暇なときは、手分けしてアルバイト。僕は堀さんという映画やっていた人の叔父さんの町工場で働いたり、中の上さんが働いていた、地下鉄工事の型枠大工の仕事を一番多くやりました。
 楽しかったですね。三里塚に行っても、都内の新左翼のデモでも、圧倒的な機動隊に規制されるばかり、一発機動隊員にケリを入れると、三倍から五倍返って来る。それに比べ、水俣は交通警察しか出てこない。環境庁に座り込んで排除される時でも、激しい暴力は受けなかった。
 更に、毎日テレビニュースには出るし、お金は集まるし、チッソ本社前は解放区だったのです。新左翼でも旧左翼でも、左派の組織に行けば「水俣の運動の現場にいる」と尊敬の眼差しで見られ鼻高々でした。世界の中心にいるような気分錯覚をしてね。鎌倉に家を借りて仲間と住んだりとか、すっかり大学生を忘れてしまいました。
 
 そして、裁判に勝ち。座り込みを解き、運動も一段落して、やることがなくなった時、今映画を作っている山上君が「映画と写真」のキャラバンをやろうと僕も誘ってくれました。そして、九州に行くことになりました。この時、大学に退学届けを出しに行き、高校生から大切に持っていた日記帳を全部捨てたと思います。
 一年半かな、九州各地を廻りました。五十ヶ所以上は廻ったと思います。焼酎の味を覚えたし、刺身の味も知った。その後、僕は水俣に残り、侍の家、遠見の家、事務局と支援者の借りていた家を点々として、ミカン畑の草刈りの手伝いをしたり、県庁への交渉事のあるときは、一緒に付いていったりしていました。
 
 この時期です、キャラバンが終わり水俣に居残った時期に、胎児性の患者さんたちと付き合い始めまのは。一緒に温泉に行ったり、パーティーを開いたり、勉強会開いたりするようになりました。でも、彼らとのつき合いは大変でした。三つ四つ年下なんです。彼らは、体の機能障害のほかに、女の子などは恋愛感情をむきだしにしてくる様なこともあり。それはきつかった。「お前は私たちと一生付き合うのかどうか」と無言で突きつけてくるのです。若いしそこまでの覚悟はない。結局二年ぐらいで放り出してしまいました。
 事務局にいた谷さんや外の人に、彼らと付き合うことは、抱えている問題大きいから、考え直せと再三注意されたけど、馬鹿ですね、気になると人の言うこと聞かない。何もわからず動いていました。
 
 水俣まで行って、運動も低迷期に入ってきたこともあり、こうなると、「何故運動やるのかと」「自分は何ものか」と自分の問題に返ってくるのです。答えは簡単に出るはずがありません。どうも自分のやることとは少し違う、いや・・・追いつめられ、皆のいる前、患者さんも支援者もいる大きな会議の場で「東京に返ります。」と言って、水俣を出てきました。
 
 東京に戻っても、もう病気です。東京の友達も、自殺する奴、「壁の中から声がすると」精神病と認定され実家に連れ戻される奴、似たりよったりでした。僕も医者にかかれば、ノイローゼとか、分裂病かの病が付いて薬漬けになっていたでしょう。そんなの嫌ですから、三谷や寿町の労務者街をほっつき歩き、メモ帳にボールペンでデッサンして二年ぐらい過ごすことになりました。詩は絵と一緒に出てきました。100枚ぐらい絵がかけたので、絵を描いて行こうとやっと心が定まりました。
 
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 今回の詩はその頃からのものです。それ以前は全て捨ててしまったからです。そして、それ以降、一杯泪は流せるようになりました。そして泪は大好きです。人間だから流せるし、幸せだから流せるからです。
 
 事実経過は話せますが、僕にとって水俣病の運動は何だったかといわれると、なかなかすっきりとは言えないのです。

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 水俣病の問題はまだまだ解決などしていません。時々ニュースに載るように、たくさんの未認定の患者さんには何の保障も与えられずいます。国は一貫して逃げ腰、認定基準を高く設定して下げようとしません。  しかし、水俣市はゴミの分別収集日本で一番早く始めたり、環境行政をリードしてきました。
 「エコ、エコ」と誰も彼もが環境問題を口に出しますが、僕らが運動やっていた頃は、警察の「極左対策・・」とかいう部署が僕らのこと調べていました。あんな穏健な運動が、テロリスト扱いです。時代の変化を肌身に実感します。
多くの被害民の犠牲の上に、今日の繁栄があることは忘れてはいけない事実です。



  結局一番強いのは信頼です。
  二十代一番きつかったのは、おや、特に父親との関係です。苦労人の父は、体が弱く、寝込むようになり、痴呆になった。そうなると、人間素直になるのです。死ぬまで、自分の子に対する愛情みたいなものは素直に出てくる。いくら親の世代に反抗すると言っても、誰もそれは裏切ることは出来ません。最大限反抗できたのは「安定した収入のある仕事に就く。」と言うところまででした。
  水俣時代も無意識的に、親を心配させるような行動はひかえていたと思う。例えば警察に捕まり、裁判沙汰になるようなことは。毎日のようにTVニュースカメラや新聞社のカメラが僕らを狙っている。一緒に行動している友達は、興奮して一度はアップでマスコミに登場している。僕はほとんどないのです。僕の仲間たちと同じで、チッソの社員や環境の役人に詰め寄ったりしているのですが、カメラが狙っていると分かると無意識的に避けていたと思う。勿論暴力行為を狙った、私服警察のカメラも。
  四川の大地震や宮城や岩手の地震にしても、親子の問題にしても、 友達関係にしても、信頼や優しさと言った、誰でも持っている感情ですね。世の中そんなに悲観したものではないと僕は思います。


アザミ 写真 komaki
  出来ることは何でも
  四月五月、脳味噌の中はすっかり二十代に戻ってしまいました。こうなると、五十代の僕の世界で何やらチグハグが連発。冷水をぶっ掛けられ三十年引き戻されることになりました。
  少なくとも僕がこれからやるべきことの核みたいなのは見えてきたような気がします。後はチャンスだけです。僕が出来る、少し頑張ればやれるチャンスを見つけるだけです。絵描きとか芸術家とかまたまた大工とかギャンルを限定する必要はないのだと思います。僕が今までやってこなかった、苦手と思ってきて仕事に挑戦してみることは、ワクワクしますし、やりがい位があることだと思います。失敗したら戻ればいいからです、成功したら、新しい僕の仕事の引き出しの中身が豊かになるからです。
  これから、やれることは何でもやって行こうと思っています。甘やかすのは良くない、心も体も、もう若くないからなおさらです。これから、リタイヤーじゃないのです。今までの経験やそこで学んだ知恵を活かせる時なのです。

写真 水鳥 ヤッサンより
 太王四神記
 ヨン様ことぺイヨンジュン主演の土曜深夜のNHKの韓国ドラマです。面白いので見ています。古代の朝鮮半島がなるほどと分かるからです。
 四世紀日本では各地にミニ国家がで規制力争いをしていた頃、朝鮮半島は、中国東北部のまで勢力を持つ高久麗王朝があった。古代朝鮮族、夫余の王国である。その中興の王、広開土王の物語です。
 夫余は旧満洲に拠点をおく遊牧民だった、それが朝鮮半島を南下し、高久麗、百済と王朝を作り、先住の農耕民と同化して現代の朝鮮族につながるのです。面白いのは、その遊牧民の伝統が随所に見られることです。強い中国文化の影響の部分など、区分けしながら見ることが出来るからです。
 タイトルの玄武、青龍、朱雀、白虎の四神は中国発の神々ですが、彼らの主神、天の神は彼らの伝統的な神様でしょう。王の最終的に正当性を与える巫女、女のシャーマンが政治や軍事とは別に、強い力を持っていた、これは遊牧民の伝統です。また、6/21の放送で「騎馬隊」が出てきて、「騎馬隊が到着するまで戦争を待て」と司令が出せるほど、軍はみな騎馬なんですが、その中でも「騎馬隊」と名付く軍隊は遊牧民の誇りの軍隊です。律令制が整えられる前の時代で、王は部族連合の盟主的存在で、部族長会議の意見を王は無視できなかった。角笛は牧畜民の連絡手段ですよね。等々です。
 昔、一世を風靡した、大和朝廷の騎馬民族説は、朝鮮半島のこの歴史を日本にまで拡大した話なのです。
 高久麗は強い国で、髄の軍隊を退けたし、唐の太宗の軍隊も退けた。しかし、新羅、唐の連合軍に破れることになる。日本の中大兄皇子は、世界情勢を読めず、高久麗と同盟関係にあった百済に援軍を出し、大敗北をする。中大兄皇子を進歩的王と見る見方は、完全に書き替えられつつあります。
 新羅は高久麗、百済と宗教も違い、農耕民の国家でしょう。現代韓国でも地域的な対立はこの頃まで遡る事もできます。

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