< 乱蘭通信176号・横田基地友好祭の注意事項  菊池 尚武
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 横田基地友好祭の注意事項
                               菊池 尚武
 
 2018年9月16日11時頃、福生の横田基地日米友好祭に行ってきました。(福生の横田基地とはややこしいですが、そのあたりは武藤さんに聞いてください。)
 ゲートを通過してからアチコチ見ながら一時間半位、会場の一番奥の超大型輸送機GALAXYに、歩き疲れながら到着しました。 GALAXYの中は通り抜けられルます。壁に沿って簡易な長椅子が端から端まであり、歩き疲れたので、それに30分程座ってました。GALAXYは超大型だけあって(全長37M)中に小さな売店が二軒あってTシャツなど売ってました。しかしアーミーTシャツ3千円は、高いですね。売れ行きはボチボチのようですが。もう一軒の売店は何を売ってるか人だかりで、見えませんでしたが、キリッとしたベッピンの白人の軍人が売り子をやってました。商品よりそっちが気になり、一度戻って見ぬふりしてベッピンを見てました。(笑)
 GALAXYの椅子は簡易だけど、お尻部分にヤスリみたいな滑り止めがあるのと機体の丸見が背もたれになり、座り心地が意外に良いのに驚きでした。さらに機体の前後の大きな扉が開いて、爽やかな風が通り抜け、気持ち良かったです。(外は晴れ気温28℃?)
 それで壁に掛かってる、消火器のボンベの色が黄緑です。ビックリ!(赤もあり) 海外では当たり前で、マスコミが取り上げないところが 興味深くアメリカ的ですね。 それと一番奥のGALAXYにたどり着くまで、内部見学できる飛行機は、長蛇の列ですが、一番奥のGALAXYは、並ぶ必要もなく長椅子もあるので、他の輸送機の見学は飛ばして、始めからGALAXYに来るべきですね。
 一番デカい輸送機はを見れば中型機は兼ねますからね。戦闘機の見学は別ですが。
 
 
 天気はゲートを入った11時頃は曇りでしたが、昼1時過ぎ位から薄曇りになってきました。そして昼2時から、オスプレイのデモンストレーションが始まりました。 遠くに飛んでる姿はそうでも無いですが、地上10メートル位でホバリングして、こっちに向きを変えて、機首を軽く上下にフル姿は、ゲームのラスボスみたいな迫力がありました。(笑)
 オスプレイは色々言われますが、個人的感想は、まず一番深刻だったのは、反対派ではなく、初期のオスプレイで墜落死したパイロット達とその家族ですね。当時表向きは実用飛行だったんでしょうが、実質試作機で、多数の墜落死しは必然でしょうね。軍隊とは言え、パイロットの家族がよく訴訟しないと、不思議に思います。そして散々墜落死したので、データが取れて試験飛行は終わり、今のオスプレイは実用安全レベルに達してるようですね。
 そうそう4年位前、日本のマスコミがオスプレイを騒いでた時にも、横田には拍子抜けする位にオスプレイは展示してて、内部見学もできました。まさに基地の中はアメリカで、日本は関係ないんですね。
 
 
 話は今年に戻し、オスプレイの飛行を見終わって帰ろうと、15時45分頃ゲート出口に到着しましたが、大渋滞で出れるのに40分かかりました。そこから、最寄り駅の牛浜は大渋滞だと思い、拝島まで歩いて25分でした。門から合計65分。
 そして拝島の改札を取ろうとしましたが、通れません。実は行きは牛浜で降りて、帰りの切符を買うのは大変だろうと、牛浜から買って置いた切符がアウトでしたね。拝島の駅員さんが、ハンコ押してなんとか通してくれましたが、今後横田基地日米友好祭に電車で行く人は、要注意ですね。
  実は15日土曜も横田基地日米友好祭をやってたのですが、雨なので来なかったのです。 しかし今日の大渋滞で 横田日米友好祭は、雨の時こそ来るべきと思いました(笑)。
 ただし出るのは、閉門の9時過ぎでも良いと言う人は、時間にゆとりある人は、いつでも大丈夫ですね。確か8時か8時半に花火を打ち上げます。
 それで話を戻し、出口大渋滞ですが、信号はお巡りさん達が直接さばいましたが 「後ろに人が詰まってるのを、全然わかって無いのかな???」とも思いました。それで待って20分したところで、駄目元で110当番して「何とかなりませんか」と言ったところ、しばらくしたら110番のせいか??流れが早くなりました。
 それでもさらに20分かかりましたが。僕の後ろの人達は1時間位かかったかもしれません?警察や軍隊はとっさの適応力が命と、思いますが、警察も軍隊も人間の集団 想定外には弱いのかな? と思ったのが横田日米友好祭の 最後の感想でした。
 


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 横田基地の名称
 戦前は福生飛行場という名前でした。今の昭和公園に立川飛行場があり、その予備の飛行場という扱いでした。敗戦後アメリカ軍に接収されたのですが、「fussa」とアメリカの兵士が呼びづらかったので、呼びやすい「yokota」にした訳です。当時、飛行場の東隣は横田村といっていましたのでそれを取り、名称変更した訳です。
 占領間もない頃で、日本に異議をいいつらかったことや、立川飛行場ほどの重要飛行場ではなかったことや、違和を感じるのは福生の住民のみだったことなどが、簡単に名称変更なされた理由だと思います。これだけ大きな空港に拡張したのも、日本ではなくアメリカです。
 蛇足:
 横田基地の真下に大きな水道管が通っています。多摩川の水を羽村の取水場から取り入れ狭山湖、多摩湖に流すものです。帝都東京の水源を確保する、戦前の大工事でした。
 また、福生辺りの国道十六号は、江戸時代は日光街道といい、八王子の千人同心が名誉職である日光警護ために通る道でしたが、拝島駅から箱根ヶ崎に真っ直ぐ伸びていたのです。横田基地の拡張とともに五十メートル福生よりに移動し、現在の位置になったのです。  (M)
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