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漢民族が展開し、北方民族が支配した
河南河北の黄河「中原」を行く
澤村浩行 
━━━  開 封 編  ━━━
2005年4月

1 宋の都 開封(カイフェン)へ
 
 中国歴代の王朝の首都は必ず大河のほとりの要害の地に造られた。黄河「関内」の「長安」(現在の西安)を都とした漢文明の源「漢」が滅亡し、再び随に統一されるまでの分裂の時代、人口が半減するほどの三国時代、五胡十六国、東晋時代、南北朝時代の戦乱期が300年ほど続く。その漢民族とモンゴル、トルコ、チベット系遊牧民との抗争を通じて、黄河と揚子江下流の平原には多くの都市が造られた。三国時代の魏、全国統一した随の首都は、「長安」から東の山地を抜けた黄河下流の「洛陽」である。
 今では、「西部大開発計画」の下で、巨大なビル群と黒ずんだスモッグと工場、自動車、ホワイトカラー、ブルーカラーひしめくだけの大都会となった洛陽あたりから東側には、どこまでも真っ平らな平原が広がっている。しかも行く先を見失うばかりに耕地、水路、道路、土壁、村落、市街地、そして突如工業地帯が張り巡らされている。このスケールに比べればより内陸の西安あたりの黄河「関内」は、あたりの山地に囲まれた盆地の文明に過ぎない。歴代王朝が黄河に沿って東へ北へと移ったのもこの豊かな麦の耕作地帯が、堤防と灌漑によって保障されたのと、西北の遊牧民による脅威が漢の武帝や唐の太宗の追討と分断政策により、薄れたからだった。僕も歴史の流れに沿って黄河を下った。開封へと。
 中国文明の文治主義を見事に実現した宋は、「開封」を首都とした。随が四百万人を使役し(その半数を死亡させ)開通させた1800キロメートルの大運河が、南のより肥沃な揚子江下流、米の二毛作三毛作もできる江南の物資をここまで届けたからでもある。羅針盤、火薬、木版印刷という人類史上に冠たる発明がこの時代になされたのも、南からの物資の集積と、文治主義によるものであったに違いない。そして女真族の金によって南に追われたのも、平和主義のためだった。北宋は10世紀末から166年間。その最盛期には城壁の内側に50万人、近郊を含めると140万人がその首都開封に依存した。日本も南北朝から鎌倉時代にかけて宋銭や磁器、竹や茶などの新植物種から、禅、茶道、花道、能、水墨画や庭園などの文化を輸入した。
 僕は今だに当時の栄華がくすぶっている開封に一週間ほどブラブラとした。ここに来るまでの、西安から三門挟へと抜けて洛陽にいたる山越えは、あえて、穴居住民みたいな茫洋として強靱な地方人しか使わない田舎道を選んだのだったが、その旅はこの年令には少々きつく腰をやられた。歩くのは治療にもなる。
 あの一車線の田舎道のほとんどは未舗装だった。窓を締め切っても細かい埃はミニバスに充満した。それでもカミソリでケーキを切ったみたいに続く断崖絶壁の連続、その上の台地と下の谷間の耕地、絶壁に掘られた穴居住宅、車内で怒鳴りまくるみたいに話し続ける乗客たちには圧倒され放しだった。これほど寒い北方に古代文明の華が咲いたのは、養分豊かでしかも水分を内に取り込む特徴を持つ黄土が細かい粉状であったため、石器でも楽に耕せ、冬暖かい穴居住宅も断崖に掘れるという好条件があったがあったからだと納得できた。当時の主食はアワだった。
 通り過がりの旅で得られるのはその程度の実感しかないが、文字や映像で想像していたものよりリアルである。僕は(漢民族のルーツを垣間見えた。この先をもっと見たい)と暑気うさとい?開封の街や黄河周辺を歩き廻った。
 
 開封は、伝統的な中国都市の景観を目の敵としているみたいに破壊して発展している現代中国では、例外的にハイウェイ、高層ビル、工場の三点セットがない。郊外を流れる黄河がいつ氾濫するのか予断を許されないほどの勢いを保っているから、企業が進出しないのである。事実この都市は過去何度となく土砂に埋まった。その結果、観光名所の古い寺は時には10メートル以上地下に降りて入ることとなる。1855年の氾濫ではその河口を山東半島の北の根っ子の部分から350キロメートル離れた南の根っ子部分へと変えたほど黄河は手に負えない。ここの黄河の堤防は城壁並の6メートル。そして同じくらい分厚い。河南、河北平原を流れる黄河のある部分の川底は、上流より運ばれる土砂の堆積で5メートルも街よりも高くなっている。それでも今は雨季前だ。長々とした平原みたいな河川敷には、大農法の麦畑が延々と続き、トラクターが、龍の鱗に食いついた虫みたいにうごめいている。中央に太々とうとうと流れる黄河は自身の湿気と黄色に煙っている。それは、荒々しく飛翔する機会を窺っている6000キロメートルに及ぶ巨大な龍に見える。
 開封は、背の低い家並に埃とドブの匂いを放つ下街と、昔の王朝風の橋や建築物に飾られた湖と、その中心に盛られた小島の組み合わせが次々と展開するから、飽きのこない街だった。しかも車が極端に少ない。だから僕はただ歩き廻った。土地人の交流風景は人情溢れている。モラルも自己修養的な歴代中国人の「忍耐と寛容の精神」が主流である。他の都市で見せつけられる「生物学的にまでパワーフル」な出稼ぎ労働者や「帝国主義的にまで傲慢」な官僚や資本家たちの姿は見かけない。
 宋は夜に甦った。昼は淡々と暮らす庶民の群れが、暑さ少し引き気味の夕刻ともなるとナイトバザールに繰り出してくる。中心地にはすべて即席の露店が並ぶ。唾が出てくるほど濃厚な料理の煙と匂いが立ち込める。売り子が耳はじけるばかりの地声を張り上げる。ビール大瓶一本一元(13円)食事も二元からと農産地は安い。群集の中には、北京あたりの大都市からに違いない現代中国人もかなり混じっている。特に週末には。誰だってこんな住民が融合する街が好きなのだ。
 広大な農耕地帯の中心に城壁に囲まれた都市がある。そこの市場と公園に人が集い、各々が生活と文化の表現をする。庶民の味わい深い日常生活。それを支える枠組みとしての漢文明。共通するのは、反乱や侵略の成功者「皇帝による軍事独裁と彼をとりまく宮廷」。意味だけは全国に通用する「漢字」。官僚採用試験「科挙制度」、地方地主で教育者たる「郷紳」。親子、男女、支配被支配の上下関係を規定するモラルの規範「儒教」と庶民の素朴な自然観と現世ご利益の願い事を統合した「道教」と言うことになる。漢人とは、それらの文明システムを受け入れた諸民族である。固有の一民族ではないという点では、インド人やアメリカ人と共通している。
 各地の民族を具体的に結びつけたのが「街道と運河」。今ではそれがハイウェイ鉄道航空路、更には揚子江の水を三つのルートで北部に運ぶ巨大水路や、光ファイバーから新彊やカザフスタンからのガスパイプまでが、勢いを加速させている。だがそれも今まで続いた大帝国の戦略を踏襲しているのに過ぎない。現在進行形の共産党独裁政権にせよ、統治を安定させるには、階級を入れ替えただけの伝統的方式を取り入れざるを得ないのである。
 

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2 マージャン・フリーズ
 
  開封は歩きながら考えるのにふさわしい街だ。裏道の奥に見つけた宿も居心地が良かった。物価も安いし街中で時々伝統的な音楽隊が演奏するのも中世にタイムスリップさせてくれる。何かと慌ただしい現代中国の旅で、中国人自身さえも見失いがちな「漢民族のルーツ」を探るため一ヶ月は滞在してもいいと思っていた。だが結局一週間で去った。それは旅につきものの予期せぬ出来事(それもいつものようにごくささやかな直接体験)に震撼させられたからである。
 開封で泊まった宿は古ぼけたモルタル作りの三階建てだった。一階の僕の個室は外の下水の臭気が窓から入るが、同時に裏道を行く住民の足音も話し声も身近に聞こえるという、一時代前の中国にいるみたいな気分とさせてくれる部屋だった。勿論、裏道の向こうには同じ小さな三階建が立ち並ぶから、一階の部屋はいつも暗い。
 宿の入り口と僕の部屋の間に大広間があり、その向こうは大家の家族の居住区だった。50がらみの主人は毎日午後になると、広間の大きなテーブルに下宿人らしい上階の客や知人を集めてマージャン大会をした。その頃僕は散歩から戻って広間を通り抜けベッド一つだけの小部屋に戻る。安宿にはつきものの臭いトイレでシャワーを浴びると、広間のマージャン大会の騒ぎやら窓の外の裏道の立ち話などを聞きながらウトウトとする。そして夕風を感じる頃に起き出してナイトマーケットへと散歩、屋台で食べてから部屋に戻るという単純な日課を繰り返していた。
 そして一週間ほどたった日の午後のことだった。いつものように昼飯の後に部屋に戻ろうと宿の入り口から大広間を抜けた。その瞬間に、それまでガヤガヤガチャガチャやっていたマージャンの動きが突然に止まって静かになった。その賑やかさは、僕が自室に戻ると示し合わせたように再開されたのである。
 ベッドに寝転んでようやくその一瞬が筋道をつけた。僕が通り過ぎた時の「マージャン・フリーズ」状態が、最初の日から毎日繰り返されていたのに気がついたのだ。外人の客などとったことのないような裏道の宿だから、と片づけられなかった。直感は異様な状況であると告げている。
 旅を続けていると、どの場所も人も文化も短時間しか観られない。土地の言葉も判らないから検証するにしても、共通語を話す限られた個人や情報との出逢いぐらいに限られている。でも何か気になることには無意識に集中し続けている。心が現象の内側に入る。(何故?どのようにして?何の意味を持って?)と自問する。
 現代の旅人は、コミットをしない観察者に過ぎない。だが多様な状況に身をさらし続けるから多様な比較ができる。つまり状況を客観的に映し出す。と同時に、始めて出くわす現象には自由に想像してその正体を探ろうとする。有史以前から続いた流動性「好奇心」が目を覚ます。その両極に振れている内に、土地人では気づかないような全体像や抽象性にまで導かれかれることがある。
 それは実感である。どこに行っても見せつけられる産業文明社会との体験が拡大するのと並行して、自身の内に不安定で純粋な主体が育まれてくる。外と内との精神性の極端な差が「移動性文化」となる。日々消耗させられ固定されていた意識が変わって行く。今回の一寸した「マージャン・フリーズ」事件でもそれが起こった。
 

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3 ナイトマーケット
 
  その日の夕刻も、マージャン大会終了した後の、ポッカリとした無人の洞窟みたいな大広間を通り抜けて宿の外に出た。久しぶりにアポがある。朝偶然に郵便局で北京居住の日本人に会った。その青年はかって開封の大学に留学していて今は北京で働いている、休暇のたびに帰省の気分でこの街を訪れる、と自己紹介をした。歴史に詳しそうなので「ナイトマーケットで会食でも」と乞うと快諾してくれた。
 待ち合わせたのは中心部に一件だけあるファーストフード店だった。そこからナイトマーケットに二人して歩くと、まだ明るい空の下で屋台が準備しているところだった。いずれもテーブル二、三個の規模である。その地域の道全面に広がりつつある屋台の一軒に僕達は坐った。途端にそれまで隣の屋台と世間話らしきを交わしながら料理の 準備をしていた無骨な中年女性が、スッと沈黙した。
 
 「これと同じことが宿のマージャン・シーンで起きましてね。一週間ほど毎日、僕が通るとフリーズしたのです。」
 「気功の国ですからね。そういう反応はあるでしょうね。」
 
 30才代半ばだろうか、やり手の商社マンみたいにも、文化を愛する教養人にも、純朴な学生にも見える青年はニコリと答えた。着流しのシャツ姿もきまっているし健康状態も良い、大柄な北京系漢民族としか見えない。その朝、僕は郵便局で速達の出し方を窓口で問い合わせている時、係員の中国語が判らずマゴマゴしていた。そこを彼が横から手助けしてくれたのだ。そう彼が現われなかったら日本人だとは気づかなかっただろう。
 
 「やはり今流行りのジャパンバッシングのせいですか?」
 「それもあるかも知れません。今年は抗日戦勝利60周年で、テレビでは大金はたいて制作した抗日英雄の大河ドラマを何本もゴールデンアワーに放映していますから。人民軍も動員されているらしく、見応えありますよ。勿論日本人は単純に戦闘と陰謀好きで残酷な人種として描かれています。どうやら、日本人役には、出稼ぎしていた中国人を使っているようです。彼等の日本語の発音は、仕事の現場の待ったなしの緊張感があって、それもなかなか迫力がありましたよ。でもここのような淡々とした田舎の人は、他所から来た人を引いて見るのが普通です。特に教育受けた都会人に対しては。収入は時には20倍の差、権利にも差があり過ぎますからね。私だって同じ扱いを受けますよ。外人に関しては、宋の時代は北方の契丹人や女真人にひどい目に遭って、いつも沢山の贈り物をして機嫌とりをしていました。でも結局は、南に逃げて南宋として栄えても、蒙古人の元帝国に滅ぼされていますから、外人アレルギーはあるでしょう。」
 「日本人に対しては日中戦争中の恨みもあるでしょうね。」
 「ここは日本軍占領地の内陸側最前線でした。それと、開戦したての頃、日本軍の進行を止めるために、国民党の蒋介石が黄河の堤防を壊して人工的な大洪水を起こしたんです。日本軍の前進部隊もやられましたが、中国住民は数十万人溺死したそうです。それでも、日本軍の進撃を数週間遅らせただけでした。日本人も沖縄戦や東京大空襲や原爆投下を忘れず語り継ぐでしょう。人災はそれを起こした人間やいきさつまではっきりしていますから、物語は遺伝子にまで刻まれて続くのです。このツケは大きいですね。」
 
 僕は通例偶然に旅であった人に個人的なことは名前さえも聞かない。職業、年齢、家族、人種も、自発的に相手が言うまで関心がない。すれ違いのチャンスはその瞬間に共通している問題だけに絞る。それは現在進行形を含む「歴史」に尽きる。
 
 「どうしてあんな戦争やってしまったんでしょうか?」
 「戦争というのは内に溜まり切ったマグマが噴出するような不可避な面ありますからね。あるいは河底に積もり積もった土砂が、一斉に堰を切って氾濫するような。特に世界大戦は無条件降伏するまでの消耗戦でした。でもあそこまで至った過程は今起こっている現象に照らし合わせながら検証すべきです。ただ、後発の植民帝国が、その産業資本のマーケットを必要とした、と単純には片づけられませんよ。防ぐ機会は幾つもあったのですから。まず悔やまれるのは日清戦争です。あの抑圧者のパターンが日露戦争、第一次世界大戦そして満州事変と益々勢いをつけて日中戦争の泥沼にはまってしまった。そこにドイツが連勝していたのを見て、枢軸国側について一気に片づけようとしたのでしょう。工業生産10倍の上、石油も鉄も依存していたアメリカとの戦争に走らせた。百歩譲って満州国については建設的な面もヴィジョンもあったように思います。だから旧満洲の中国東北部の人たちは意外と親日的ですよ。ひどい面も見ているけど、良い面も認めています。日本人が引き揚げた後も自分たちの子供に日本語教育を続け、今では毎年東大京大に60人の合格者を出しています。
 そして、全ての失敗の元は軍部独走を可能とした明治憲法、統帥権の独立です。最高指導部が軍事と政治に二分され、戦略が政略を浸食したのですから。外交は一方的な思い込み、文化は論理性のない国家神統。双方を富ませる貿易はなしで、単なるぶったくりでした。大東亜共栄圏を真剣に試みた人達もいたと思います。当時、アジアは西洋社会に一方的に支配されていましたから。でも実態は大東亜共栄圏とは名ばかりで、人の心、特に民族の心を無視して攻撃し略奪し搾取したのです。当然恨まれます。」
 
 準備中のナイトマーケットにはまだ火も起こっていず、客引きの大音声も響いていない。僕達は日清戦争以来の「抑圧者のパターン」検証した。
 つまり日清戦争の直接の開戦理由は、朝鮮半島の農民が反侵略、反封建のため起こした「甲午農民戦争」にたいする出兵だった。(民衆に対する抑圧は日清戦争とその間の旅順虐殺、戦後の台湾先住民虐殺まで続く。)日清戦争のきっかけは、日本が朝鮮農民を共に鎮圧しようと清国にも出兵をうながし、両軍が朝鮮で対峙する状況を作ったことから始まった。イギリスがロシアの南下を防ぐのに日本を利用できると日本の出兵を黙認したのを確かめてから開戦。だが日本軍が中国領土まで進入するとイギリスも硬化した。その結果、漁夫の利を狙っていたロシア、フランス、ドイツは「三国干渉」をして、日本が勝ち取った旅順、大連(東洋のジブラルタル)遼東半島を返還させた。だから戦勝で得たのは琉球と台湾と当時の国家予算の三年余りにあたる賠償金のみ。その金は日本の鉄鉱業などの基幹産業を主とした資本主義を飛躍的に発展させたが、清国はその支払いのため仏独露英米各国から借款、見返りに鉄道施設権を与えた。列強が本格的に中国を分割する道を開いたのである。日本は抑圧者のお先棒を担いだ。そして日清戦争で確立した軍国主義と軍事的天皇制は日本国民をも抑圧することとなったのである。
 と、このあたりまでは互いに礼儀正しく、話の中身も体系づけられていたような憶えがある。
 

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4 中国の女性
 
 そこに屋台のおばさんが突然怒ってどなり声をあげた。その声の方向に彼女の旦那か兄弟か使用人かは知らないが、ともかく貧相な中年男がコソコソと屋台の片隅で料理の準備を手伝うフリをしている。日本人青年はここの大学では留学生は全員寄宿舎に入れられ、標準語で教育されたから放言は判らないと言う。どうやら屋台の女性は彼が酒かマージャンに溺れて出勤が遅れたのを糾弾しているらしい。すさまじい迫力の大音声である。
 殷や周の古代都市王国の時代の戦場では、まず双方の軍隊の前面に三千人ほどの巫女が対決し、呪術をかけあうことから戦闘が始まったというが、その迫力あるシャーマニズムのDNAは、今でも漢民族の女性に脈々と流れている。当時、戦争に負けた側の巫女は全員処刑されたから、命を賭けた呪術だった。
 それから僕達はビールのピッチをあげた。ツマミも次々と運ばれてくる。あたりを埋め尽くした客の会話や屋台の呼び込みの声のボリュームも、蒸れた夜気を吹き飛ばすかのようにあがる。僕達の声もそれに張り合う。コソコソ真面目に話していると、政治的な密議をこらしているのではないかと公安に疑われるお国柄なのだ。対話の内容もランダムだ。「人間ここまでやれるのか」という中国史上の人物のエピソード、まずは屋台の女性の勢いに影響されたのか、中国の女性に関してのエピソードが次々と飛び出してきた。
 唐の最盛期を創出した太宗の後宮(側室の館)から女帝までのしあがった「即天武后」。ライバルの女性の指先から腕と脚の根元まで除々に切り離し、遂には耳も鼻も目もえぐり豚小屋に放り出したままの姿を、帝位につけた自分の息子中宗に「これが人豚だ」と見せた。とたんに彼はヘドを吐きウツ病となり、結局彼女が中国史唯一の女帝に就任した、という激しい中国の女性の話。
 あまたの愛人をはべらせ反対派を容赦なく弾圧したが、仏教を保護、中小官僚や新興地主から有能な人材を登用、新興勢力の政治参加への道を開いた、という評価と共に「儒教は男尊女卑ですから。権力持った女性は悪く言われますよね。男の皇帝は多くの側室を持つのが当たり前なのに、中国史上唯一の女帝が何人かの愛人を持ったら、後世の歴史家や道徳家は売春婦呼ばわりする。」
 清朝末期に王室の実権を握った「西太后」。アロー戦争で英仏軍に破壊された離宮の再建とその湖に浮かべる「大理石の船」を建造するために、日清戦争が迫りつつある状況で、日本海軍と戦うべき清国北洋艦隊の増強費を使ってしまい、いざ海戦となった時には火薬袋に砂が入っていたという顛末。
 そんな女性は例外中の例外だった。清朝の支配者満洲族の女性と北からの移住者「客家」(ハッカ)一族を除く女性達は「てん足」という、幼児期より足の指を根元まで折り曲げた包帯できつく締めたまま成長を止めさせられたのである。女性が台所と寝床以外には役に立たない身体として、そのよろめく姿を愛でたのである。悲しいことながら現在でも農薬を使った中国の農村の女性の自殺率が異常に高いこと、女児の出生率が男児より数パーセント低いので千万単位の男性が結婚できないことも話題となった。労働集約型農業では男性が優遇され、女性は虐待される。女児と判ると堕胎させられるのである。それでも男女の就職条件、給与や地位に関しては、国際的な機関の調査によると、日本より恵まれている、と結論づけた。トラックやバスの運転手ばかりではなく、役所や政府や企業でも女性が目立ち、管理職も多い。
 

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5 旅する僕と日中関係
 
 その夜は、最後まで名前も聞かなかった青年と中国の歴史を語った。中国の奇人、英雄、哲人、詩人と、記録好きの中国人の残した歴史書に登場する人物について話した。
 中国史研究に関しては日本人学者の優れた本があまたあり、中には今の中国では政治的な理由で公開されていない部分に関したものもある。例えばモンゴル帝国の元の時代などは、中国文化を無視し中国化もしなかったから存在しなかったかのように扱われている。89年の天安門事件も噂程度にしか知られていない。だから僕が旅の現場で繰り返し読もうと持ち込んだ文庫本の歴史書6冊も、中国人と話している時に取り出し検証すると、「エッ そうなの」とばかり漢字を辿り「ぜひ」と乞われるから次々とプレゼントした。今残るのは歴史年表地図一冊だけだ。
 したたか酔っ払い足元のおぼつかない僕を、日本人青年がタクシーで宿まで送ってくれた。夜中でも宿の入り口は開いていた。ベットに横になると、タクシーの中で彼が言ったことを思い出した。
 「今北京駐在の日本人は、次のメーデーに天安門広場で大がかりな反日デモがあるとパニック気味ですよ。すでに仕事場以外には出歩かないし、メーデーあたりは家に籠りっきりとなるでしょう。なにしろ天安門は80年以上前に最初の排日運動が起こった場所ですからね。」
 それは現在の共産党政権が高く評価する五四運動(1919年)のことである。第一次大戦終結後のヴィルサイユ条約が旧ドイツ租借地膠こう州湾を日本に移譲すると定めたのに対し、同じ連合国側に属し10数万人の兵站要員を欧州戦線に派遣した中国人民が反発し、学生を主とした3千人が天安門でデモ、各地に飛び火して負傷者も出た。そして今は、戦後最悪の日中関係の最中である。当然なにかが起こってもおかしくない。
 彼は最後に「私にはパニックになるほどの問題があるとは思えませんがね。確かにサッカーのフーリガンは北京の日本領事の乗る車に投石しましたし、イトーヨーカドーや吉野屋も上海の領事館もやられましたし、互いの国民の6割ほどは謙いあっているという統計が出ているそうですが、死者はまだゼロなんです。現実には経済的に互いはビルトインされて、現場では多くの両国民がうまく一緒に仕事しているんですから。中国には3万社の日本企業が進出しています。下請けも含めると日本企業の現地採用は900万人に上ると言われています。私のように現地採用された者から見ると、大使館もジャーナリズムも何かに煽られているとしか思いませんね。つい最近、胡首相は国際関係のコメントを発表し、昨年だけでも400万人の日本人と中国人が国境を行き来した上に、貿易額は過去最大となった、と言っているんですよ。」と呟いたのだった。
 酔った頭で(僕もその400万人の一人なら、どっちなのか現場に行ってみようじゃないか)と考えていた。メーデーは一週間ほど後である。北京は7時間ほどバスに乗るだけの距離である。これまでも多くの旅人、学者、宗教家、ジャーナリストなどが時代のホットスポットを目指した。身を危険にさらしながら貴重なものを得た。そしてその一部は業火に消えた。これも石器と火を手にして以来身に付けてしまった人間の性(さが)なのか、と僕は感傷的になった。
 酔いがさめると知的に予測し始めた。北京がゲリラ戦の最中にある訳ではない。特に天安門は、民主化デモ以後も、法輪巧信者の一万人坐り込みや焼身デモなどが次々と起こっている。今やそんなマイナスのイメージをオリンピックのイメージに切り変える時となっている。その上、経済的パートナー日本を失いたくない中国政府は今、天安門広場を徹底的に監視して、中国では最も安全な場所となっているだろう。その監視体制の現場もみたい。いずれにしても、最もワクワクする瞬間、「現在進行形の歴史」が北の大都市で僕を待っている。北京。そこは世界史上最も長期に渡り独裁政治が続けられてきた中国の首都である。
(開封編 完)

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━━━  北 京 編  ━━━
2005年4月~5月  (その一)

1 首都 北京(ベイジン)へ
 
 北京郊外のバスターミナルに到着したのは、風の吹かない夜だった。原野の面影を残すその地域一帯に溜まったスモッグが凝り固まったみたいなバスターミナルビルの黒い巨体と、その前面に広がり切った発着所に立ち並ぶ背の高い街灯の列。全ての夜行バスが出発した後のようだった。ターミナルに人影はなく、発着所の広場にも大型車の影はない。(こりゃまるで、深海にうずくまる巨大なアンコウとその提灯みたいだ。)
 高速道路を7時間ほど走りっ放しだった上に、冷房もひどかった。バスから出るとヒートアイランド現象気味の生ぬるい夜気に当たって、フニャフニャとなった。それでも歩き始めた僕に、タクシー運転手の溜まり場の影から一人のガッチリした体格の中年男が近づいてきた。
「どこへ行く?」
「天安門へ。バスはまだあるか?」
「まだある。あの乗り場だ。途中乗り換えるぞ」
とクールにそのバス停の名前を繰り返した。しばらくして到着した市バスに乗り込むと、その男が再びヨロリと乗車口に現われバスの運転手に
「天安門行きに乗り換えさせろよ」
と言って消えた。もしかしたら彼は親切な公安警察官だったかも知れない。北京オリンピックも近いから外人旅行者向けの公安マニュアルがあってもおかしくはない。
 
 夜遅く、何も知らない大都会に到着してしまった。開封から北京行き直行バスの便が数少なかった上に、ようやく昼前に乗ったのはオンボロもいいところで、2時間ほどヨタヨタ走ると鄭州・北京高速道路入口で故障した。走行中も窓開けっ放しでないと臭くてたまらなかった車内トイレの匂いから逃げても外では、高速道路脇のフェンスに寄りかかるしかない。轟音立てて突っ走る大型トラックやバスや乗用車の絶え間ない車列を眺めること数時間。わずかな雑草の他にはプラスチックのゴミだけが散らばるだけの道路脇。茫洋とした緑の河北平原を黒い排気ガスのトンネルが未来永劫に渡って貫いて行くかのようである。
 結局そのやつれた運転手がかけまくったケイタイに反応した業者がいたようだった。オンボロバスのチケットのままで、乗客の少なかった豪華高速バスへと乗り換えられた。その旅客機みたいにとり澄ました車内には背広ネクタイOLルックのみ。しかも、窓の外は余りのスピードで単なる地平線が横滑りしているだけにしか見えない。かろうじて、だだっ広い道路脇に柳やアカシヤ見たいな街路樹が二列になって延々と植えられているのを憶えているだけだ。そしていずこも同じの二極構造社会である。車体の後ろ半分のシートを占めるのはオンボロバスから乗り換えたオンボロルックの出稼ぎ組が身をすくませて坐り込んでいる。
 そんな物語性ゼロで突っ走った後だから、北京郊外のバスターミナルから乗った気怠い市バスには(これは東京の深夜バスと変わりない)とホッとした。暗く少し熱っぽい車内には、仕事収め時のバスターミナル従業員と、やはり終バスに近い市バス運転手と車掌という身内だけの「お馴染み同志たち」だけである。
 途中下車した暗く寂しいバス停に待つ客も、ほどなくして乗った次のバスの乗客達も、どこかでいたわりあっている。北京は中国の中で、新住民の割合が最も高く、また最もインテリと芸術家の集中する都市である、という事実は、こんな深夜の庶民の姿からも納得できる。北京人は自由で人情深いという評判もその通りだった。
 郊外からの道はやけに広く乗用車とタクシーがヘッドライトの流れを繋げてはいるが、両脇のビルは黒く固い。スモッグのせいだけではなく、街灯もショーウィンドーやビル入口にあるべき照明もネオンサインも極端に少ないことに気がついた。

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2 天安門広場の記憶
 
 ようやく前方が晄々と照らされてきた。浮き上がっている不夜城は、旧ソ連の政府系のものと似た威圧的なビル群である。その先に10万人は収容できると言われる「天安門広場」が現れた。
 約60年前の1948年、内戦に勝利した毛沢東はこの広場を埋め尽くした群集に中華人民共和国の成立を宣言した。40年前の1966年、彼が全国から無料の列車に乗って集結した一千万人の紅衛兵を50万人単位で閲兵したのもこの広場。僕の人生の時とシンクロする大事件である。
 その前年にベトナム戦争は本格化していた。アメリカは1950年の朝鮮戦争では当初、戦車とソ連の戦闘機に支援された北朝鮮軍に半島南端のプサンまで追い詰められたが、ソウル郊外インチョンに上陸作戦に成功してからは一方的に中国国境まで攻め込んだ。その結果、事前に周恩来が警告したように中国国内から百万人の中国義勇軍が出撃し、アメリカを主とする国連軍は38度線まで押し返される。マッカーサーは国境の北側にある中国義勇軍基地に八発の原爆を落とすことをトルーマン大統領に提案したが罷免され、大統領選立候補の道も絶たれた。
 だからアメリカの軍部は(もう再び人海と戦いたくない)と、北ベトナムには空爆だけで地上からの攻撃はしないことを中国に約束した。(海外からの侵略はない)と毛沢東は、革命の体験のない若い世代に、更なる革命の火を付けたのだった。神格化されてはいても「大躍進」政策が二千万の餓死者を出す結末となった後に実権から遠ざけられていた毛沢東は、再び皇帝独裁への復権を計ったのである。
 北京勢に常に対抗し続けてきた上海勢、妻の江青を主とする四人組と林彪が音頭をとった文化大革命は、彼の理想を裏切って出現したエリート層を除去し、革命の本来の目的であった地方分権と農民大衆の民度向上を目指したはずだった。僕も同世代の若者が隣国で起こした反乱にワクワクとした。日本では、1960年の安保闘争から68年の学園闘争の、そして反骨のモダンジャズからロックミュージックへの過渡期、アメリカでは反戦と公民権運動にドラッグ、セックス、ロックンロールの全盛期の、フランスでは68年の学生デモとゼネスト、イギリスではアングリー・ヤングメン、ビートルズへの過渡期であった。
 文化大革命の結果は60%の党幹部排除、40万人の虐待死。そしてたった二年で内部分裂を起こして崩壊した紅衛兵は地方の辺鄙な場所へと分散させられて消滅した。経済も教育も文化も「失われた10年」の始まりである。
 そして1989年三度甦った、小平は百万人の民主化デモを弾圧した。この天安門広場に起こった事件の数々を検証すれば、清の末期から今に至るまでの中国現代史が明かとなる。
 広場の大きな歩道に降り立つと、真夜中近いというのに人がゾロゾロ群なして歩いていた。一般に中国人は夜更かし好きの朝寝坊だ。宴会の後の腹ごなしに、といった手合いのグループや家族組、お登りさん組が多く、一人歩きはまず見かけない。適度の距離をおいて一人立たずむのは私服姿の公安のようだった。その数人が僕の方向に輪を縮めてきた。(いけねえ。格好が悪すぎた)ガイドブックを持たないから安宿がどこにあるのか判らない。列車で到着したのなら駅前を探せばどこかに泊まれる。だが新設されたばかりのようだった郊外のバスターミナルの廻りには、人家の灯さえも見当たらなかった。そこで(天安門へ行けば何か判るだろう)と、スピードとスモッグにしびれた頭で考えたのだが、僕の旅姿はバックパックを乳母車に載せた異様なものである。それを左手で押しながら右手は銀色のアルミ製歩行杖のクラッチを使って歩いている。そのように歩こうとするともう5、6人の私服に取り囲まれていた。全員大柄の上、武術の心得のある身体つきをしている。
 
 (こうなったら風変わりな外人旅行者を印象づけるしかない)僕は彼等に
「ホテル?」
と首を傾げると手の平を下の頬に当てて、寝るジェスチャーをした。一人が(あっち)手を上げた。自分たちの受け持ち地区の外に出て貰いたいだけらしい。だから僕は、天安門広場は明日身軽となって訪れることとして、ともかく安宿を求めて歩いた。
 すぐ先の歩道のへりに数人の若い白人の若者たちが坐り、カンビールを飲んでいた。
「日本人の旅行者だけどどこか安宿を知らないか?」
と英語で尋ねらその一人が
「僕達はこのすぐ近くのユースホステルに泊まっているけどゴールデンウィーク直前だろう、満室だったよ」
との笑顔が返った。
 
 彼等はノルウェーから来た学生だと言う。冬寒く暗い国から来たというのに皆やけに明るい。北海油田からの原油輸出で北ヨーロッパ唯一の財政黒字国家になったという幸運な事情あるだろうし、世界の北の果てから、イスラエルとパレスチナ平和交渉やタミル・タイガーとスリランカ政府の停戦交渉を続けてきたという誇りもあるだろう。北欧諸国もかっては中国に利権を持った植民地帝国でもあったという歴史も自信の底にあるのだろう。その内僕らは親切にもガイドブックを取り出して、天安門近くのユースホステルの住所と電話番号を僕に控えさせてくれた。勿論すぐ近くの公衆電話の箱に入り片っ端から電話したが結果はすべて満室。ようやく最後の電話の受け手が僕の断れっぱなしを察したらしく
「一寸離れた中国人用のユースホステルなら空いているでしょう。でも深夜は受け付けていません」
といって住所と電話番号を伝えてくれた。

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3 首都の出逢い
 
 真夜中近かった。歩行者は広い歩道に延々と続いていた。居並ぶ店屋の看板も明るかったから、安宿の看板「招待所」(ザイタイミュオ)を探しながら歩いた。だが目に付くのは土産店、スナックや飯店(高級ホテル)のネオンばかりである。そこで(これも天安門の夜を眺めろいうことだろう)とショッピングモールの入口広場に登る階段の途中に坐り込み、行き交う人や、はるか向こうの広場を縁取る厳めしい共産党ゆかりの巨大なビル群れと、取り残された王宮の一部がライトに浮かぶ様を眺めていた。
 隣に僕みたいに重いバックを運んでいる中国人の同類が坐った。この生ぬるい温度では不自然な分厚いコートを着たままの40歳代半ばのヒゲモジャ男とその息子らしい中学生当たりの男児である。息子のほうは新品の服を着ている。父親はしきりと
「どうじゃ、中国の首都北京は立派だろう」
というように誇らしげに話しかけているが、息子は単に都市の絶体量の人工物と人口に圧倒されているのか、またはその場の華やかさと対照的に貧しい父と自分が恥ずかしくてたまらないのか、ただ縮こまっている。父親は揚げ物を取り出し息子に与え、そのついでみたいに僕にも分けた。そこで僕も、旅の非常食ドライフルーツをお返しする。それからは、三人して口をモゴモゴさせながら、下を行く歩行者の流れを眺めるだけだった。
 道行く男達は目新しいシャツとズボン姿が多い。大柄な体格だから威風堂々として見える。女達のファッションも知的で野性的なセンスで夜の照明に際立っている。
 八百年間、北京を首都と定めたのはほとんど北方からの侵入者だった。過酷な大地に鍛えられた武闘派で、政治的にもやり手の民族である。当然ここの住民には遊牧系の血が濃く流れている。三世紀、戦国時代の北東の雄「燕」に始まり、10世紀、唐の後に進出した契丹人の「遼」。そして13世紀、ジンギスカンに率いられたモンゴル帝国。その中国領を継いだフビライカンの「元」。遊牧民族の中国支配は北京を首都とした。
 例外は、拡大路線の泊まった元が、色目人(ペルシャ、アラブ系ムスリム)を重用し、漢民族の反感を買い、また度重なった凶作と災害、紙幣増刷によるインフレもあって、亡びた後に興った漢民族の「明」が例外的に15世紀、三代永楽帝となって南方諸国との関係を鄭和の南海大遠征により安定させたが、北のタタール族との抗争を継続せざるを得ず、戦線に近い北京へ遷都した。現存の万里の長城も、天安門を入口とする宮廷「紫禁城」も当時の明によって建設された。明は歴代の漢民族系王朝の典型の宦官と外戚の横暴と内紛により自壊した。
 その後に進出した満洲女真族の「清」は、17世紀初頭より286年間、元と同様に北京から中国史上最大規模となった領土を支配した。清の人口600万人と、たった15万人の軍隊が、明に不満の漢人と協力して当時一億人の人口を持つ国土を得、少なくとも18世紀末までは軍事と文事を行使して、平和に栄えたのである。その見事な統治と、スペイン人の持ち込んだサツマイモにトウモロコシの普及の結果、人口は四億人を超え、その人口の圧力とイギリスから阿片流入と銀の流出による不況、帝室の堕落により清も滅びた。
 現在の中華人民共和国は1948年、北京を首都とした、清帝国から外モンゴルと台湾を除いた「東アジア共同体」を引き継いだ漢民族系の復活である。
 中国の国土は満州と新彊地方を両翼として羽ばたいている巨大な鳥の姿に例えられる。その頭の部分に北京がある。随の時代より1800キロメートルの運河が南の揚子江河岸の都市杭州より届き、すぐ東の海岸には天津港がある。元は港を北京城内にまで建設した。北京には全方向からの人材と物資が集積した。
 そして、この地点だからこそ、遊牧民族と農耕民族の双方を治めることができた。清の時代、北京は北は満州とモンゴル、西は新彊とチベット、南は海南島、広西、貴州、雲南、東は台湾に至るまでの領土と、インドシナ、ビルマ、朝鮮、琉球の王朝を朝貢国として支配したのである。
「一寸お話したいのですが。」
目の前に壮年の紳士が立っていた。40代半ばの管理職風、ネクタイを外した上質の背広姿、英語はたどたどしくとも正確な上に、態度がやけに丁重である。
「先ほど貴方が白人から聞いた宿に電話をかけているのを見ました。まだ貴方がここに居るのはみんな満室だったからでしょう。私はこの近くのホテルをチェックアウトしたばかりです。そこは何部屋か空いているはずです。」
と言いながら階段の横に坐るおのぼりさん風の父と息子を睨み付けている。父と息子は紳士が現れたとき以来、静まり返ったままである。
 紳士は
「念のため電話で確認してみましょう。」
とケイタイを取り出し電話した。
「OKです。案内しましょう。」
「でも幾らなんですか?」
「一室200元、このあたりでは格安です。」
日本円にして二千六百円。大都市で泊まるユースホステル合い部屋ベットの五倍、地方で泊まる個室の10倍の値である。だが、もう真夜中に近いから、安宿を駅周辺で見つけるにもタクシー代がかかる。そして久しぶりの高速道路の疲れも溜まっている。大都市中心部の観光ホテルを一度ぐらい試してみようとの好奇心も手伝ったのか、僕は紳士と並んで歩いていた。途中で彼は
「全国の支店会議に来て、丁度夜中過ぎの列車で杭州に返るところだったのですが、まだ時間があったので天安門を散歩していたのです。外国人と友達になりたかったので話しかけました。」
と言った。どうやら中国沿岸部の中流以上の人達は、内陸部の貧困層の中国人より外国人に親しみを持っているらしい。そう言えば内陸部の人は滅多に気楽に話しかけてこなかった。たぶん僕は沿岸の中流階級派と見なされているのだろう。
 ホテルは招待所より一ランク上の「賓館」(ビングアン)だった。細い道に入ると細い入口があり、同行した紳士の出た部屋がまだ空いていた。別れ際に彼は電話番号をメモして渡し
「杭州ではもっとゆっくり話しましょう。」
と消えた。杭州市は、南部海岸地帯で上海、香港、広東とならぶ経済都市である。かっては中国史上最も文化の栄えた南宋の首都でもあった。
 二階部屋は静まり返っていた。その上白いシーツにバスタブに熱湯。二月に下関より青島(チンタオ)に上陸して以来初めて、練炭と食用油と汗やアカや排泄物の臭いのこもっていない部屋だったから、突然にSF小説の王様になったみたいで落ち着かない。そして豊富な水も電力も地方を犠牲にして送られてきているのは明らかだった。

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4 中国人向けユースホステル
 
 朝飯はホテル前のテラスで食べた。ヨーロッパ風の気の利いた街のオープンカフェ並みの白い椅子にテーブル、メニューは中華風ブリオシとカプチーノだった。それから北京北駅へバス、そこで西駅行きに乗り換えた。その度に汗とホコリと排気ガスを押し分けた。そしてようやく緑もそこそこある中国人向けユースホステルに入居した。二階建、大部屋30室ほどの規模で、意外にも外人専用の合い部屋がふたつだけある。その二段ベッド四組とテーブル椅子だけの部屋はガランとしていた。名所から離れて過ぎているからか、他の中国人の部屋はメーデーの連休が近いから満室なのに、その外人部屋は僕一人という寂しさだ。それでも中国のユースホステルは、中国人と外人を分けて泊まらせる。受付のある多目的ホールには中国人の団体があちこちのテーブルを占領して、例のごとくワイワイガヤガヤと話したり食べていたが、ユースホステルとは名ばかりで、ほとんどは社会人らしく、学生臭い若者も見かけない。マージャンとトランプは禁止されているらしく少し寂し気である。(もしかしたらこの中の団体にはメーデーの天安門抗日デモ参加予定のものがいる)と一応の注意を払ったが、同じ屋根の下で毎日顔を突き合わせるのだから、互いの心は見えてくる。つまるところ僕達は同じ空気、水、施設をシェアーしている仲間同志なのである。
 シェアーするしかない典型はトイレである。この二百人ほどの宿泊者に男性用大便トイレは一階二階にひとつづつしかない。だからラッシュ時には列に並ぶか意図的に時間をずらす。それでも他の内陸地帯のように、ドアなしで横並びにしゃがみこんでいる便所よりもシェアー度は低い。たぶん伝統的に排泄物は農耕用の肥料として使われてきたからか、あるいは隠れようもない平原での野糞が普通だったからか、中国人は開放的な公衆便所で幼児のように堂々と排泄する。ただ加速度をつけて進行する中産階級化、つまり水洗トイレ付きアパート居住が普及するにつれて、羞恥心が芽生え始めてもいる。特に外人と鉢合わせた時には。
 そしてここは、定められた縄張りから解き放たれて(または逃避をして)しばしの間でもささやかながら意外で独創的な発見をする、今の時代のキャラバンサライ(旅人の宿)なのである。おぼろ気ながら僕達には(人種が違うから、国籍が違うからと言うだけで相手を非難したくない)という遊牧民特有のコンセンサスがある。
 かって社会主義全盛時代の中国では、食糧まで住所登録をした地区からのみ配給された。だから旅に出たら飢えてしまう。そのような定住政策によって、農村人口が都市に流入しないように、はては共産党以外の全国組織が出現しないようにした。その制度が、経済開放政策に乗って都市へ出稼ぎに出た農民工の給料が低い上に、仕事先で仕事先で教育や医療などの社会サービスを受けない元凶となってきた。だが上からのたがが緩み始めた。1997年より金や不動産や職業次第では農民の一部が都市に住所変更ができるようになった。
 出稼ぎ人は国のなりわいを身を持って知った。各地域の人間が仕事場で出逢った。四億人が持つケイタイや今年一億人を超えたインターネットも「全国的ネットワーク」を出現させた。
 会員数100万人を誇り、その二割は共産党員であった気功集団「法輪巧」はその先がけだった。彼等はインターネットを使って巨大となった。中国歴代の王朝が滅びるとき、狂信的な宗教団体の反乱が起こった。だから政府は法輪巧を徹底的に弾圧した。その教祖はアメリカに亡命した。
 そして今や観光客は国内ばかりか東南アジアまで溢れている。「年中春」と観光客を魅きつける西南の雲南省大理市中心の、昔そのままに復元された大通りはかって若い外人バックパッカーのメッカだった。今は農協や職場から中国人の団体客が大河のごとく歩き話し記念撮影をしている。バックパッカーはその道の隅を細々と歩くだけとなった。
 移動性を増した中国人が、(社会なんて上から指示されて出来上がったり壊れたりするものではなく、人間が生活を共にする所には何となく既に存在している)と言う意識を持ったとしてもおかしくはない。この中国人向けユースホステルでも、人はごく自然に訪れ泊まり旅立って行く。

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5 北京史考
 
 三日間、その中国人用ユースホステルの外人部屋に一人で泊まった。朝はすぐ裏の大きな池のある公園に行く。ありとあらゆる健康法のオンパレードを見ながら王朝風庭園と湖を一周する。それから中国西北辺境のムスリム新彊人の街で朝食をとる。彼等はチベット人と共に漢人支配を嫌っているから、日本人には友好的である。つまり、我々は過去に中国人をやっつけた、でも今はやっつけられている。その中で、日本人は突っ張っているんじゃないか、と言う辺境民どうしの共感がある。遊牧民の肉マンジューとスープで腹ごしらえしたら天安門に向かって歩き始める。途中で出くわすことが次々と繋がっていくランダム、ウォークの旅をする。
 郊外一帯はオリンピック用道路や施設の建設で荒れている。1964年の東京もそうだった。運動競技大会は個人のスピードや能力、そして団体のチームプレイを競うことである。オリンピックは国家単位で自由な競走社会へと大きく羽ばたく号砲となる。それまでのゆったりと相互依存していた伝統社会から脱皮して、まず肉体的、そして精神的に国際競走の荒波に身を投じるきっかけとなる。
 戦争よりスポーツや経済や文化で競走したほうが良いことは勿論だ。僕は東京オリンピックの時に、海外からの報道班付きの運転手として働いたことがある。その騒ぎの渦の中で失ったものを見た者として、オリンピックを単純に喜べない。僕がその翌年アフリカに飛び出し中東そして遂には長年インドに沈没したというのは、東京オリンピック以降の日本の方向性に幻滅したこともあった。
 日本のマイカー、テレビ、マイホーム、ミーイズムのブームはオリンピックを機に始まったし、韓国も似たよなコースを辿った。ソ連もモスクワオリンピックの後に崩壊した。中国は、東アジア共同体は、北京オリンピック後どう変わるのだろうか。
 
 北京市郊外には僕の関心を持っている三つの歴史的な遺跡がある。
 まず南西の周口店。今の人類の先祖ではないが、類人猿より最初に分化して「火と石器」を使用し「言語能力」をもち右手ききであった。「北京原人」の人骨が発見された場所である。今から100万年前アフリカを出た北京原人は、今から55万年前に始まった四回に渡る北半球の氷河時代「洪積期」には火と道具と言語を使っていた。自然や他の生物種をしのいだ業の深い根っ子がそこにある。考古学者は「火と石器を持った原人は、最初にそれを隣の同族の破壊に使っただろう。」と推測している。つまり首狩り族。動物の中で、人類だけが種の保全の本能がきかずに、同族を殺してアイデンティティーを得る。
 次に「万里の長城」。中国皇帝独裁制二千年の祖「始皇帝」が北の遊牧民「匈奴」を撃破した後に、それまで部分的に戦国時代諸侯が造営していた城壁を結び完成させた。「中華思想」とは元来都市国家の城壁の内側に住むものが、外側に住むものを夷狄と蔑んだことから始まった。つまり都市生活者の優越感に根ざしている。それが長城まで拡大され、遊牧民対農耕民の抗争の象徴となった。黄河流域を起源とする中華文明五千年の象徴でもある。
 もう一つは「蘆溝橋」(ろこうきょう)。古代からの橋。別名マルコポーロ・ブリッジ。1937年7月、宣戦布告なき「日中戦争8年間」の始まった場所。日中戦争は満州事件成功に味をしめた日本陸軍が仕掛けたのだが、満州経営の成功をも無とした愚挙であった。中国の民族主義の高まりを無視した結果、血を血で洗う泥沼に突っ込んだ。
 
 だが僕は街頭で見かけるそんな名所行き格安バスツアーにも参加しなかった。ただ天安門に向かって歩くだけで何かが起こる。例えば今朝公園を一周する途中で、白シャツ姿のビジネスマン風が、明らかにチベット密教のマントラを大声で唱えながら歩いているのに出逢った。公園を散歩する人も(中には健康法なのか後ろ向きで歩いている人も)そのマントラを気にもかけていない。街を歩けば、サイドカーにハードロック奏でるアンプをフルボリュームにしてヘビメタルックの若者が突っ走って行く。マーケットを通れば、広東からだという若者が、違法コピーした一枚数十円のDVDを売り付けに来る。モヒカン刈りの学生らしきにも会った。ただ北京市内の道をランダムに歩くだけで面白く、とても意図して観光に行けないのである。

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(その二)
6 毛沢東の銅像
 
 早朝歩き初めて毎日コースを変えながら昼頃天安門に着く。広場正面に立つ毛沢東の銅像をしばらく眺める。それから広場に群がる中国人観光客の間を泳ぐように一周してから近くの繁華街に戻り、食事かお茶を取る。広場に長居すると、どこかで見張られている感じで落ち着かなくなるからである。事実、突然数人の青い制服に銀のモール姿の警官が広場を直進するや問答無用、一人の壮年の男の両脇を取り連れ去ったのを見た。その手際の良さは、広場の各所に私服の公安が配置されているからに違いない。
 僕は若かりし頃、タイとラオスの国境地帯では、越境した共産ゲリラ、インド中部の高原都市では、ムスリム・ヒンドゥーの宗教紛争の助っ人に間違えられて留置されたことを思い出した。当時は世界中で若者が反乱を起こしていた。第二次世界大戦終了後生まれた大量のベビーブーマーが怒れる若者のマスとなった。旧態以前の慣れあいや偽善に満ちた体制に立ち向かった。反戦運動、カウンター・カルチャー。僕もその勢いに乗って旅をしていたのに違いない。ひとりではあっても彼等のムーブメントの突出した部分に見られてもおかしくなかった。
 若者が怒るのも当然だった。世界大戦であれほどの犠牲者を出したというのに、48年には第一次中東戦争、50年には朝鮮戦争、56年にはスエズ動乱、ハンガリー暴動、60年アルジェ暴動、日米新安保条約反対の一大デモ、そして62年にはキューバ封鎖したアメリカとそこに核ミサイルを設置したソ連との間に、あわや核戦争かと全世界がかたずを飲んだキューバ危機。その後も冷戦の代理戦争が各地で起こされ、その極め付きがベトナム戦争であり、65年開始されたアメリカ軍の北爆だった。それなのに親の世代は中産階級の見せかけごっこをしている。公害も益々ひどくなる。若ければ当然反抗した。
 その目で見ると、今の北京にはデモや反抗の気配がまったくない。北京に来てから確信したが、中国政府は首都中心部で全国から多くの人間の集まるデモは決して許さない。そのパターンが一度でも実現されれば、1989年のような、ゴルバチョフ訪中の取材に訪れた各国のジャーナリストの目の前で、しかも衛星放送の開幕時に合わせたように勃発した、百万人単位の民主化要求デモに転換する恐れがある。あれは役人の腐敗に抗議したものだった。そして、今や腐敗は当時よりもひどくなっている。政府が認めただけでも昨年8万件の抗議デモが起こり、死傷者も出ている。デモの理由は主に、政府による道路やダムや工場建設のための強制的用地収用や家屋立ち退きと保証金問題。そして余りにもひどい公害への抗議デモである。中国では土地が国家と地元共同体にのみ所有されているので、一方的に用地を収用し住民を立ち退かせることが出来る。都市といえども例外ではない。北京の誇った中庭付きの大家族用伝統住宅街胡同(フートン)は情け容赦もなくブルトーザーで壊されそこの住民は高層団地に移住させられた。僕のような一介のバックパッカーにとっても「要注意地帯」。下手に動けば強健が及ぶ。
 ところで今年の二月から三ヶ月間、僕が南中国から内陸を経て北上した旅のコースが奇しくも中国現代史の巨人「毛沢東」が生まれ、学習し、立てこもり、そして逃避をし、基地を建設し、そこから全国制覇したコースとかなりの部分で重複していた。その長い距離の間で毛沢東の銅像は彼の生まれた家のある湖南省「韶山」(シャオミャン)と天安門広場にしか立っていなかった。(後に成都にもあることを知ったが僕は見かけなかった。)
 幾多の苦難の後、世界最大の人口を誇る共産主義国を立てた主役毛沢東。1976年に死亡するまで、全国津々浦々には銅像、各家庭には肖像が溢れていたというのに、今じゃ彼のキャリアの出発点と到着点にしか銅像は立っていない。時折タクシーやトラックの運転手が車内に飾っている彼の肖像画は、交通安全のお守りだそうである。( 翌年三月に訪れた旧満洲に南接する山東省の内陸部、始皇帝以来各王朝の皇帝が登頂して祈ったといわれる聖山「泰山」(タイシャン)楚の広場にも珍しく銅像が立っていた。聖地の人たちは、毛沢東の死後に爆進した経済開放政策の渦中でも、一度は泰山まで登り詰めた皇帝と認めた者を引き摺り下ろしたりしなかった。)
 「毛沢東の時代のほうが良かった。」
という人と何人か出逢った。特にいまだに人民服を着ている老人層は、
 「皆が一様に貧しかったから誰も貧しくは感じなかった。」
と言った。その上に衣食住から教育医療年金まで保障され、大学卒業をしても政府の指定した職に就く、いうように職業も決められていた。自由ではなくとも平等だった。自分自身の栄達や富よりも
 「人民のために奉仕すると言う崇高な情熱があった」
と誇る人もいた。
 僕は1942年生まれだから、毛沢東とは34年間同じ時代に生きたこととなる。物心ついてくると、海を隔てた向こう側の大国が一丸となって理想郷を作ろうとしている気配をヒシヒシと感じていたという、紅衛兵より少し年長の世代である。
 巨大な国土と人口をひとつにまとめ外の世界と対決している毛沢東の存在、は何もかもが大き過ぎて手に余った。僕は、彼を恐れ、敬い、そして反発し、理解しようとした。そして解かったことがある。
 生きるか死ぬかに直面した民族には、全身全霊を投じて理想主義を実現しようとするカリスマだけが人民を奮い立たせることが出来る、という歴史上の真実である。毛沢東の率いた中国の共産主義革命は、まさにそのスケールにしても物語性にしても人類の民族史上有数の輝きを放っている、と認めざるを得ない。

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7 中国革命と日本
 
 毛沢東の故郷は揚子江上流の豊かな米作地帯にあった。生家は中流の上にあたる農業経営者で、家の造りも大きかった。制服姿の公安一行や団体観光客の目立つ中で、高校生らしい女の子がひとり、文化大革命時の紅衛兵の写真を思いを込めて見続けている姿が印象的に残った。
 僕は近くの韶山のバスターミナルで、かっては国営であったが経済自由化以来民営、人に委託された安宿の二階のひと部屋に一週間泊まった。ちっぽけな町の歩道では、老いた盲目の占い師が女性客を集め、水墨画の仙人そっくりの白衣長髪の若者が飄々として歩いていた。小さい商店には各々2~3人の若い女性店員が詰めていたが、客はほとんどいない。中心部の高台公園に立つ、普通の銅像の五倍の大きさのある毛沢東の銅像は、彼の青年時代の姿だった。時折、街の中年のおばさんたちが太い線香の束を捧げ、その足元に平伏していた。宿のおやじは宿代を安くしてくれたが、食事代は中国人の数倍にふっかけていた。支払いをする時に、気を散らせる演技をし続けたので、そこを出る寸前まで僕は気付づかなかった。
 毛沢東が、いまだに中国色の濃いその田舎から湖南省の都「長沙」の大学に入ったのは1911年、18歳の時だった。そこで農民暴動を起こした者たちが残酷に処刑されるのを見た彼は「どうしてこんな良い人達がこんな仕打ちを受けるだろうのか」と考えた。それが終生を革命に捧げた原点だったと自分で言っている。その年に長沙の北「武昌」で、長らく海外で活動してきた中国革命の父、「孫文」が「辛亥(シンガイ)革命」を起こし、それは各地に波及して、清帝国は終わった。だが革命軍はまだ力がなく、孫文は、領土保全のため内乱を避けることとして、北京の軍閥の袁世凱に大統領職を譲った。そしてようやくその16年後に、三国志なみに割拠していた各地の軍閥を「蒋介石」の「国民党軍」が、南の商業中心地広州より北伐し北京入城を果たし、孫文の墓に報告したのだった。
 その国民党支配の始まった1927年以来、農村地帯を基盤とする共産党軍は国民党軍による激しい攻撃に晒された。南の広西省「瑞金」に樹立した中国ソヴィト共和国は、ナチス・ドイツに支援された国民党軍の、トーチカとその間を結ぶトロッコに積んだ砲弾の包囲攻撃に晒され、塩まで断たれた1934年、「延安」へと一万二千キロメートル以上の大移動「長征」を敢行したのである。国民党の攻撃を受けながら、日に30キロの夜行軍をして、内陸の荒地や雪山や湿原のような僻地を一年間歩いて移動した。その間、農民から奪わず、土地を貧農に開放して行ったことが、結局全国的に農民の支持を得ることとなった。だが、出発時に8万人であった一行は、延安に着いた時には二万人に減っていた。その途中もっとも困窮した、貴州省「遵義」の会議で毛沢東は「農村が都市を包囲する」という中国独得の革命論を唱え、共産党の主導権を握ったのである。
 共産党にとって、日本軍が1937年の盧溝橋事件以来国民党軍を追って南へ進軍したため、そのまま国民党に殲滅されずに済んだという幸運が転がり込んだ。しかも手薄となった北部の一億人の人口を勢力下に収めることが出来た。同じ共産主義国ソ連の国境も近かったから、細々ながら援助も受けられた。そして日本が敗戦した1945年には、旧満洲国全域と旧日本軍の武器も手に入れたのである。
 片や国民党軍は、それまで日本軍に爆撃され続けた基地重慶での七年間に渡る耐乏生活から沿岸都市に帰還するや、堕落して国民の支持を失った。元来、国民党は浙江財閥と米、英が支援していたのである。
 国共内戦に勝利した共産党主席毛沢東は、1949年北京の天安門広場で「中華人民共和国」の成立を宣言した。この時までの彼の写真の表情はすべて素晴らしい。革命への純粋な情熱と忍耐強さ、そして賢明さに満ちている。それが中国を統一し、皇帝のような独裁権力を手に入れてからは、それまで農民に分け与えていた農地を取り上げ、人民公社という集団農場に農民を収容、そして、1958年よりの「大躍進計画」の食糧と鉄鉱生産を倍増させる国家事業に農民を従事させた。労働意欲を失い自分たちの食べる分や種までノルマ達成のために供出させられた農民を、人為的な飢餓が襲い2000万人(一説には4000万人)が餓死する結果となった。各村に作られた手製の溶鉱炉の生産した鉄鉱の質も粗悪で、農民はこのノルマ達成のために自らの料理道具や農具まで炉に投ずる有様だった。この惨状を、苦難を共にした革命同志が報告しても、毛沢東は彼等を追放するだけだった。もはや取り巻きの賛辞だけを信じる、裸の王様となっていたのである。
 毛沢東は内戦に勝利した要因に、日本軍の侵略もあったことを正直に認めている。1972年田中首相が「日中国交正常化」のために訪中した所、毛沢東に「中国を侵略して申し訳ありませんでした。」と言った。彼は「お陰で中国人民は団結できました。ありがとうと言いたい。」と答えた。
 日本は中国革命の一つの「ゆりかご」でもあった。中国革命の父「孫文」は、海外華僑を説得して資金を得ることを長年続けたが、日本にも頻繁に訪れ滞在し、日本の文化人や民間人にも支援されてもいた。また中国近代文学を革新した、中国革命の精神的なバックボーン「魯迅」。彼が日本で医学を勉強しているとき、北中国で日本軍が中国人の愛国者を処刑しているのを、まったくの無感動で眺めている中国人の群集を記録映画で見た。それは彼が「医学より中国人の意識を変えなければいけない。」と作家に転じた瞬間であった。「周恩来」も京都に留学しているし、「蒋介石」は佐渡で日本軍に入隊し訓練を受けたり、国民党の内紛を避けて日本に滞在している。その他にも当時のアジアでは最も先進的であった日本から学んだ中国人は多かった。
 遣唐使以前より、中国と日本は時代の要請に従って、互いに啓発したり反発したりしてきた。無関心でも無関係でもいられない隣国の民どうしとして公的にも私的に交流してきた。それでも理解しあっているとは思えない。今回の抗日暴動も起こったのは、そんな無理解と誤解が積み重なった結果である。歴史を公平に冷静に検証することが今必要だ、と僕は思っている。他の民族や国家や文化の関わりも重視しながら、交流し続けるしかない、と。
 僕自身も、個人的にまだ気を許して付き合える中国人の友人は、在日や海外の華僑の他には持っていないのである。見かけは似ているが、中国人と日本人の中身はかなり違う。中国人は個人的で赤裸々な現世御利益と、血縁地縁を主に信じている。皇帝は易姓革命(命運の尽きるまでの)の存在である。独裁制の元では忍耐強く従順ではあるが、その裏で秘密結社が営まれている。日本人は素朴でデリケートだが、火山の爆発や地震、台風、火事、オヤジ(熊のこと)のごとく、暴走する。日常的に風流な食べ物へのこだわりとあの世に託す無欲なロマン。幽幻なるやワビ、サビの人生を尊びながら、万世一系の天皇の下では一丸となる。権威に弱く、お上の命令には鼻血の出るまで突き進む。そんな互いの差がこれまでの歴史や、今の出来事に現れているのに違いない。

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8 現代の遊牧民
 
 五月初旬の連休に入る前に、カザフスタンのビザを取得することとした。北京の後は西の新彊ウイグル地区を訪れるつもりである。更には、その北西にあるカザフスタンやキルギスタンなどの「草原の回廊」を通りたかった。日本の支配層のルーツのひとつ「騎馬民族」の世界を体験したかった。
 中国は地理的に外部と遮断されているように見える。北はシベリア、西はゴビ、タクラマカン砂漠からチベット高原にヒマラヤ山脈、南は密林に山に湿原、東は大海原の太平洋に囲まれて、外からの影響なしに自己完結している文明圏のように見える。その地理的条件が自身を世界の中心と見なし外部の人間は皆、中国の辺境の野蛮人に過ぎない、と思い込ませたのだった。だが西の砂漠の向こうの中央アジア草原は、中国より先に大帝国を成立させていたペルシャに直結しているのである。この「シルクロード」を通してイラン人の血の濃い秦はペルシャ帝国と、漢民族の漢はローマ帝国と、やはりイラン系の唐はサラセン帝国と交易し影響しあった。
 古代の青銅器文明もこの道を通って中国に至り、中国を最初に統一した秦の始皇帝の実施した、「郡県制」「文字、度量衡、貨幣の統一」「全国を結ぶ道路網と飛脚制度」「石碑による政令の展示」などは、それより三百年前に起こったアケメネス・ペルシャ帝国のコピーである。ローマ帝国の貴族の女性たちがその肉体をスケスケに見せつけられる絹のファッションの虜となりローマの財政を干上がらせ、中央アジアのタラス河畔で唐とサラセン帝国が戦った時の中国人捕虜が、西方に紙の大量生産の方法を伝え、その後のイスラムとヨーロッパ文明興隆に寄与した。元の時代には、馬とラクダのユーラシア・ハイウェーが開通した。ペルシャ・中央アジア・中近東・ロシアまで拡大したモンゴル帝国に通用するパスポートを使って、マルコ・ポーロを含む多くの人間と物資が行き来した。
 北京の大使館街に居並ぶ一個建ての各大使館の入口には、胸を異常に突き出した中国人民軍の衛兵が必ず直立していた。(ずいぶん無理をしているなー)という印象をいつも受ける。カザフスタンの大使館前には、出稼ぎ労働者たち40名ほどが、ビザの支給を延々と待っていた。その手配師らしい40代の男は英語を話し、カザフスタンの首都を案内してくれる、と言ったが、僕がケイタイ電話を持たないと判ったらソッポを向いた。観光ビザの申請は僕一人だったので、出稼ぎ労働者の列を越えて優先的に入館できた。館内のカザフスタンの男たちは、皆肩と胸と腰が分厚く、目玉がクリクリと動き動作も会話も敏捷だった。容貌は「ユーラシア人」と呼ぶに相応しい東西南北全方向に混合の、トルコ・モンゴル・アーリアン・スラブにアラブ系。遺伝子からしてコスモポリタンである。
 カザフ人は中国人と違って既成概念にこだわらずに、ストレートに判断する。肉と乳製品を食べ、馬に乗って牧草地を移住するプロの旅人「遊牧民」には、単なるバックパッカーに過ぎない僕は完全に降参した。係員に言われるままに近くのエージェントで証書を買ってきて張り付け申請し、呼ばれるままにパスポートを受け取った。ガッチリとした館員の指示はやけに勢いが良く、まるで戦場の上官の命令みたいにテキパキとしていた。有能なものだけが上に立つ、遊牧民のサバイバルの厳しさが、ビザ手続きの単純な流れからも察しられた。
 大使館の帰り道、建築前の広大な空き地に、束の間に出現した出稼ぎ人用飲食街に立ち寄った。日本でも終戦直後あったという、焼け跡マーケットもこんな活力と寂しさに満ちたものだっただろう。現代の遊牧民である出稼ぎ人が飯に食らいつく迫力には脱帽した。
 ユースホステルに戻ったのは、夜となっていた。ウトウトしているとドアーが開き電気がつくと、雪が吹き込んだみたいに肌の白い二十代半ばあたりの若者が入室して来た。
 「空港からタクシーで来たんだけど途中でまっ暗になったんで心細かったよ。」
と言うとホッとしたみたいに顔を赤らめ
 「北京の体験談をホームページで調べて、中国人的なところに泊まりたかったからここを選んだんだ。」
 と言った若者はスエーデン人。軍隊を終えて旅に出たという。僕達は夜遅くまで話した。なぜか、彼が自然豊かな田舎で育った少年期の話しが多かった。特に雪山での狩猟、氷の張った湖での釣りプラス軍隊での訓練。そんなサバイバルの体験が見知らぬ土地で甦ったのだろう。それにしても現代国だと言うのになんと運の良い育ち方をしたのだろう。
 話しが一巡すると眠くなった。横になってもトロトロ話し続けた。たぶん二人は寂しかったのだ。彼は大都会が苦手で、ヨーロッパ以外の土地を旅するのも初めてだ、と本音を吐いた。
 「それに明日から連休だろう。すさまじく込みそうだし」
と不安がった。僕が
 「ただ普通の散歩でかまわなかったら一緒にしないか。」
と誘うと彼は喜んだ。

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9 首都のメーデー
 
 翌日は5月1日だった。北半球は一斉に、緑なすゴールデンウィークに入る。この千二百万人の住む都市も仕事を止めた。英字新聞の調査では「ほとんどの北京市民はただブラブラとして過ごす。図書館に通って仕事や研究の資料を閲覧する者も多い。」とあった。一部は今流行の、ディスカバー・チャイナ、あるいは中産階級なら東南アジア・ネパール・インド、上流にとってダントツ人気のフランス・イタリアの旅に出る。それも団体が多いようだ。
 その朝、僕とスエーデン人の青年は、ゆっくりと起床してゆっくりと歩き始めた。ユースホステルの中国人たちは、ロビーで団体の組み合わせを大声でやっている。駐車場には大型バスが数台並びエンジンをふかしている。外に出ると、北京名物の自転車専用道路には通勤自転車の流れは細かったが、自家用車はいつものようにひしめいていた。近い将来北京市民の五人に一人は自家用車を持つという。もう群れなす自転車が車を押し切って交差点を横切る風景は過去のものとなっている。
 スエーデン人にとっては、初めてのアジアの大都市である。人間と建物の絶体量と、現代化の過程でツギハギされた街の構造に戸惑っているようだ。
「どうして中国に来たの?」
と問うと
「陸伝えにヒシヒシと感じたんだよ。中国のことは知らんぷりできないって。すごい影響力を持っている。今じゃヨーロッパ中に中国商品と中国人も目立つようになった。気温の差が余りないから、南アジアの暑さに覚悟を決めなくとも済むし、それにロシアは身近なトラブルであり続けるだろうから、その向こう側の中国を知るべきだと思うのさ。」
と言った。以前の東洋の神秘に憧れて訪れたのとは違う、よりシヴィアーな、現在進行形の国のなりわいを見ようとする現実派のバックパッカーが増えている。経済自由化以来、リピーターを含めてだが、全人類の五人に一人は中国を訪れている。全人類の五人に一人は中国人であるという事実と見事にバランスをとっている。
 
 確かに、中国経済が好調のために、中国は世界的な影響力を発揮している。現代国は機械や技術を、途上国は資源を中国に売って潤った。中国からは安い商品が入ってくる。アメリカは中国に大量の国債を買ってもらって支えられている。
 それでも単位として巨大だから、中国がコケると、関係国も大怪我をしかねない。政治経済ばかりではなく、資源、公害、食糧問題にしても、中国が世界的な危機のきっかけとなるかも知れないのだ。豊かさと共に近代化する中国人民軍の存在もある。今年(05)1月には有人衛星を打ち上げている。だから生き残りに賭ける気のある現代国の若者が「自分たちの未来を見るためには、中国の今を見なければ」という動機を持って中国に来るのは自然の成り行きである。
 彼らの典型的コースは、北京・西安・上海あたりの歴史的な遺産を見て廻るものだが、それを圧っして見せつけられるのが、資本主義経済と社会主義政権と言うどぎつい陰陽の組み合わせである。沿岸部や都市の豊かさと、内陸部や農村の貧しさである。その間を渡り歩く、厖大な数の出稼ぎ人の姿である。空気と水の悪さと砂漠化である。旅人は、離れ小島のような観光地を渡る途中で、広大な大地にひしめくこれらの問題の海を渡ることとなる。それは正直言ってかなりしんどい。だから自由な身であるはずのバックパッカーの表情もたのし気ではない。この僕もそうだ。
 
 僕達二人は昼頃、天安門広場に着いた。メーデーの抗日デモがないことは何人かの知人に電話で確認している。インターネット上の抗日のサイトが一斉に削除され、上海では、全市民のケイタイに、抗日デモに参加しないようにと、政府筋からメールがあったという。一説によると二百万人の「電視公安」監視員を持つ当局は全市民のメールアドレスを掌握しているのである。日本の対中投資が、抗日デモ以来30%減少したのが主な抗日キャンペーン停止の理由らしい。裏では政治的な取り引きもあっただろう。アメリカも、このあたりで良いだろう、と介在したかも知れない。日本の外交はアメリカに丸投げしているのである。今回の騒ぎでは、日本企業の進出によって商売不振となった中国の中小企業や、大学を出ても三割は就職できないと言われる若いインテリ層のストレス発散もあって過熱化したらしい。ともかく波は下り始めた。
 メーデーの日の天安門広場は、遂に中国の中心に来たという喜びに湧くお登りさんの群れにクラクラとさせられるほどだった。毛沢東の遺体の安置されている建物に並ぶ人の列も異常に長い。人並みに押されながら歩いている内に、僕とスエーデン人は呪術にかかったように互いに密着しながら前へ前へと押して行く中国人民の列に並ぶはめとなった。スエーデン人は人に酔ったみたいだったが、僕達は一時間ほど耐え、ようやく狭い門から入城しても、疲れたし人も多過ぎた。
 かっては平民には入城を禁じられていた紫禁城の宮殿の雰囲気を味わうどころではない。ただ、皇帝だけが着たり使うことを許されたという鮮やかな黄色に飾られた建物をあおぎ見ているだけだった。まわりの中国人も同様で、ただワイワイ進むだけである。中には顔をしかめて床の隅に座り込んでいる田舎っぽい一団もいる。映画「ラストエンペラー」で見たのとは雲泥の差の紫禁城詣でとなった。ただその途中で見た、清王朝の最盛期、乾隆帝(けんりゅうてい)が自分の時間を過ごしたという小部屋には、彼が一番気に入っていた宝物も飾られていた。そのいずれも質素でいながら職人の技術と誠意のこもった品々で、日本のワビ、サビとも通じる美意識があった。満州という、人も少なく自然の厳しい土地出身の部族の魂を見る思いがした。
 
 数々迷った末に観光コースから外れた近くの、昔は港だった池にかかる橋を渡って王宮公園に抜け、水流れる運河を見晴らす大理石のお休み所に腰を下ろした。対岸の岸に沿った道には観光用に着飾った中国人の群集が、途切れることのない極彩色の蛇の胴体みたいにうねりながら進み続けていた。
「これって集団催眠じゃないの」
とスエーデン人が呟いた。
 
 夕方近く、やはりお登りさんひしめく電気街や衣料雑貨街を廻ってから途中で夕食を共にした時だった。
「やっぱり中国人に個人として会いたいよ。この状況ではアーティストしかいないんじゃない。」
とスエーデン人は今話題の芸術家村に行くこととなった。たった一日ですっかりアジアの大都市にはまっている。この都市に中国で最も感覚的に鋭い個人が集まっているのは芸術家村しかないと直感している。僕も関心が会ったが、63歳の身である。長い旅を続けるには、夜更かしをしないことだと決めている。そして夜遊びは金がかかる。彼はタクシーで芸術家村へ向かった。僕は疲れていたから初めてバスに乗りユースホステルに戻った。そしてすぐ寝た。
 
 翌朝彼から話を聞くと、芸術家村にはユニークな若者たちが集まり冒険的な、洒落たバーやクラブも花盛りだという。知的にもハイレベルな会話を交わせる英語圏でもあると。彼は芸術家村の街を中心として北京だけを見るつもりとなったようだ。軍隊で通信兵として二年間勤めたばかりの若者である。解放された喜びを、そのように発散させたいのだろう。それに、夜遊びする金も軍隊で貯め込んでいる。中国人の若い女は、日本人のそれと同じに欧人の男に憧れ、結婚願望も強いと言うし。彼は夜でもその芸術家村に通い易い宿に移ることとなった。僕も西のシルクロード、西域の大地と人と文化を見たくなった。
 二人してパッキングした。二人してチェックアウトした。そしてユースホステルの前で「グッドラック」の声を交わすと、二人は反対方向へと別れた。
 
(完)

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