prev yukie-home next

     女系一族の誇りとするもの

菅野幸江 

 

 杉本サダ――明治41年5月15日福島県西会津町芹沼の貧農の家に生まれる。子沢山の下から2番目だったという。

 父親を肺病で早くに亡くし、鉛筆一本にも事欠く貧しい少女時代をおくり、21歳の時、近隣の山口部落の農家に嫁いだ。昔の農家の嫁はみんなそうであったようにサダは牛馬の如く働き、舅・姑・小姑に仕え、3人の女の子を生んだ。

 3番目の子を生んだ時、夫は満州の戦場にいた。そして1度もその子を見ることなく彼は戦死した。昭和12年、サダ29歳のことだった。

 幼い女の子3人をかかえ、若干29歳で戦争未亡人になってしまったサダは、悲嘆にくれている暇もなく生活のため歯を食いしばって過酷な農作業や山仕事に追われることになった。

「女所帯だからとバカにされたくねェ。おとっつぁんいねえからこのザマだと言われたくねェ」

 山を売れ、畑を売れ、杉の木を売れ――みじめな「五反百姓」の困窮に目をつけた山師たちが二束三文の値で群がってくるのをサダは女ひとり、丁丁発止と果敢に戦って追い払ったという武勇伝まで残っている。

 戦後の民主教育・男女平等の理念を真っ先に理解したのもサダであった。

「これからは女もちゃんと教育を受けていないと世の中から置いていかれる」と、苦しい家計の中から爪に火を灯すように貯めた金で、3番目の娘を高等学校に進学させた。

 女が高等学校に行くなんてこの村では初めてのことで、「サダさんは気が狂ったらしい」と噂されたいう。

 たったひとりで家田畑を守り 3人の娘を育て上げ呆けた姑を看取りサダは火焔銃のように生きてきた。今年94歳になろうとしている。足腰は弱っても気性の激しさは今も変わらない。

 

 杉本ケイ子――昭和6年8月18日 杉本サダの長女として生まれる。

6歳で父親が戦死してしまい男勝りに働くサダの右腕として、小さい頃から家事全般を担い農作業を手伝い妹たちの面倒までみながら黙々と働いてきた。

 わずか10歳のケイ子が川辺で洗濯しながら、8歳と5歳の妹に「お客さんにはちゃんと挨拶するんだぞぃ、お菓子を欲しがったりお行儀の悪い事をしてはなんねぇぞ」と、こんこんと言い聞かせていたという話は、当時の村では「サダさんちのしっかり娘」と有名だったという。

 21歳の時、寡黙で真面目な婿をむかえやはり女の子ばかり3人生んだ。

 貧乏で尋常小学校しか出してもらえなかったコンプレックスを常に感じていたケイ子は娘の教育には出来るだけのことをしてあげようと決意していたようだ。

「これからの時代は男も女もない。一生懸命勉強すれば女だって何でもできるんだ」と、娘を励まし、自分は10円のバス代も節約して娘達に本や雑誌を買い与えた。当時、村では珍しかった「テープレコーダー」「百科事典」も、東京に出稼ぎに行っていた夫に頼んで手に入れたケイ子であった。

 こうして、「ケイ子さんの娘はたいしたもんだ!! 国立大学に入ったのは村で初めてだ」などと言われながら 娘2人を福島大学・山形大学に進学させた。

 ところが3人の娘を育て上げ実母であるサダも元気で、これからは好きなカラオケでも楽しみながらのんびりと…と思っていた矢先に、夫のガン発病を宣告された。

 入退院や手術の繰り返し――光のみえない看病の日々は10年続いた…

 そしておとずれた夫の死――平成9年春 ケイ子 63歳のことであった。

 子どもらしい子ども時代も知らず貧困に耐え 働くだけ働き、期待の娘に裏切られるという失意をも味わい、今度は頼りの夫にも先立たれてしまい、一時は呆けたようになってしまったケイ子であった。が、彼女はサダの励ましと持ち前の楽天性とでみごと立ち直った。

スイミングスクールに通い、大好きなカラオケを始め、老母の世話という使命にも燃え、家も新築し、膝が悪いながらも今、忙しい71歳を送っている。

 

菅沼ユキエ――昭和28年8月20日、杉本ケイ子の娘3人の長女として生まれる。

 家は豊かではなかったが、祖母サダに溺愛され父母に期待され常に「頭の良い子」「男なんかに負けない子」のレッテルを貼られ、小学校6年生の頃から「自分はこんな田舎にいるべき人間ではない」と傲慢にも思い込み、作家・ジャーナリスト・考古学者等 なんとか田舎から抜け出す方策を密かに考えていたという、なかなか策略家の女の子であったようだ。

 せっかく「国立福島大学教育学部」に進学するも、狭い大学体質や「教師になって戻って来い」という田舎の期待に反発し、左翼運動にのめり込み、地方労働組合の委員長をしていた9歳も年上の男と結婚して、大学を中退してしまった。

ユキエ21歳の時である。

 訪中、デモ、田舎からの勘当宣告、夫の逮捕、青森や東京への逃避行……

 そんな嵐のような環境のなかでユキエは女の子を2人生んだ。電話もない四畳半一間のアパートでの親子4人の生活は、食べ物やミルクさえろくに買えない貧乏暮らしだったが「人間はいつも自分を磨く姿勢が大事よ」と、娘たちに本の読み聞かせを欠かさず、子どもには難しいと思われる「ミュージカル」や「コンサート」「映画」にも連れ歩いたユキエであった。

 後に長女は「お母さんのハードルは高かったわ」と話したことがある。

 その長女は短大を卒業後福祉施設に勤め親の反対を押し切って9歳も年上の障害者とさっさと結婚してしまった。周囲の者達は驚き呆れたあげく「あの母親にしてこの娘あり」と妙に納得したという。

 ユキエ(49歳)好奇心今だ枯れず、仕事に趣味にバリバリ頑張る地方公務員である。 

 

――――――― ☆ ―――――――

 

 例えばここに美しい指輪があったとする。かなり高価なものだとする。1番目の女は「一生私には縁のないものだわ」と思い、二番目の女は「これを買ってくれる男を絶対GETしよう」と思い、三番目の女は「いつかきっと自分の力で買おう」と思う――女にはこの三つのタイプがあるという。

 この女系一族は まちがいなく「三番目の女」タイプである。心の深いところで人に頼らない、上昇思考、負けず嫌い、自立心の高さ――好むと好まざるとに関らず、彼女達はこの誇り高き「DNA」を着実にそして脈々と受け継ぎ受け渡してきたのだ。時には「頑固ばばぁ」「かわいくない女」と陰口をたたかれても、猛吹雪の世間をあたかもつんのめるように辿って進まなければ今日まで生きてこられなかったのだろう。結果、「高価な指輪」は買えなかったとしても彼女達の累々とした足跡は宝石のように輝いて見えるではないだろうか。

 最新の情報によると、ユキエの娘達が生んだ子は二人共男の子であったそうでDNAの継承は「これにて打ち止め」になりそうで残念な思いの筆者である。

prev yukie-home next