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身辺

● 祝うのは、最も切実な感情からだ。それは激しく、狂おしい、計測できない射程距離をもつ感情、生の理不尽から世界の理不尽へ懸け渡す、ほとんど慟哭にひとしい感情からである。何らかの余裕を得ての振舞いではない。余儀ない、もうそこへ縋るほかない必死の、形相を違えた形相なのだ。その消息にふれて、そして措く。措き捨てにする。それが祝うということだ。

● 遮るもののない広大な空間を、万物が犇き立って一条へ狭める。それが道。立ちふさがった万物に一条の道がひらけるのではなく。その空間に息が通うためにはからだが、そして顔が、その空間をふさぐ必要があったのだ。

● 息を近づける。息に近づけるように。

● 息を包むことはできなくとも、息の通いを筒状に包む。それとも袋状に。包みながらひらいている。ひらきながら包んでいる。

● 両側から著しく狭まったところが動いている。静かで激しい。動いているように見えるがそうじゃない。その蔭でさらに動いているものがあるのだ。そいつがわずかでも激しいからこそ、見える限りが静かなのだろう。動静は見まもるものでもなし。両側というところに気をつける。それぞれの側は著しく異る。それがほとんど食っつかんばかりに狭まっているのだから危うい。危ういからこそ初めて向きが切実な意味をもつ。両側それぞれに見失いそうなものが多々ある。

● 自らの時間でひとの息にふれる。岸を離れたら私を岸とするほかない。

● 後ろ姿の鬼が近づいてきて、後ろ姿のまま遠ざかる。走っているようでも、沈み込んでゆくようでもある。だが反対側にはもはや目も見えず、耳もほとんど聴えず、足腰立たず横たわるだけの毎日がある。舳先を旋(めぐ)らせば何かが入れ換るだろうか。

● 助かるとは間に合うということだろう。「間に合ってますから」。つくづく助かりたくはないものだ。間に合わないところから一切は動き出す。

● 見上げ、見下ろす。あるいは仰ぎ、あるいは伏せる。からだは圧縮された大空。幾重にも折り畳まれ、節をつけられた大空。四肢の関節だけでなく、各細胞の内容、一つ一つの呼吸にまで節は生じる。節は微に入り細を穿ち、一切を節にしてやまない。ゆえに一身はそれじたいが唄となり、辞儀となる。日夜大空は出入りし、無数に及んで節は微風を無風、無風すなわち大風、たたずまいのうちに自づから運動きわまりない。唄も辞儀も出入りする大空の運。

● 残ったのは表面だろうか、内面だろうか。同じことだ。残余から何が生じようとも、残余を何が訪れようとも、残らなかったものは季節となってめぐってくる。表裏でも内外でもない。どのように褶曲し、自らを、その余を、摩擦において捲き込むかがすべてである。

● 魂に轢かれる。

● 「からだは借りものですよ。最後には返さなきゃいけない。生きるということは返しかたなのかもしれない。」波は寄せてくるのに潮が引いているという。

● 与える、ということは受け身。

● 風を通せば埃が舞い込む。

● 私は空気を呼吸する。大気を、空を、大空を呼吸する。すると私を横切るものがある。私が空を呼吸しているのか、空が私を呼吸しているのか判らなくなる手前で、私はここを見出す。踏みとどまってるように見えてもそうではない。だがここを見出す。

● 煮炊きの匂いはただ燃え尽きてゆく匂いではなくて、食いつなぐことで終わらせないための、燃えてもそこで尽きてしまわぬための、匂いなのだ。

● 風は風への抵抗でもある。空を頭上に探すよりも、私じたいが生い繁らねばならない。私が音たてて張りめぐらねばならない。

● 灰までの時間は短い。灰からの時間は、きっと違うだろう。

● 終っているものを続けるほかない分際。終りつづける、余韻が余韻に耳を澄ます(あるいは耳をふさぐ)時間。

● 自分で薄めたのなら構わないのか。

● 呼吸は満たすのではなく通す。通してのべさせる。

● 見ることはふせぐこと。息を通れ。

● 声のむこうで、無数の声が消えてゆく。声ではないかもしれない。聞えているのでよく聞き取れないが、かすかに立って、消えてゆく。消えてゆく途方もない奥行を仄めかすためだけのように、消滅を生じる無数の声の如きもの。

● 枝に名付かぬ葉の群がり。

● 手を翳(かざ)したところが火。楽器がなければ、音がなければ、演奏ではないと思っているか。

● 繰返すことは季節だということ。季節は呼吸。もう一度、の反復。もう一度のために消えかかる。

● からだには無数の水面がひそむ。いちまいではない。水平などありえない無数をひそめ、からだは垂直に立つ。無数の面が交錯して昏(くら)んだ箇処がからだ。面の交差点。一つ一つの面は通過してしまうから仕切りではない。

● めぐってくるところに、繰返すところに、意味は生じる。憶い出す。過ぎたものが蘇るようにしてやってくる。初めてではないものが初めて意味を帯びる。一度だけなら季節ではない。

● 明かりがくずれる。

● 地を俟たずに地つづきになる。

● 私が関係に住みつくのか、私に関係が住みつくのか。離れないのではない。融け合わぬまま、そこへ何度も戻ってくる。家と呼ぶが、それは音楽であり、そこを出て、そして戻ってくる日々の営みは演奏である。一挙手一投足が満ち引きを伴う。それじたいの満ち引きと、そこへの満ち引き。

● 目をとじて窓に近づく。 

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