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滲むまえには

○ 待つことをさまざまな仕ぐさが満たしている。向きの打ち消し。

○ 揺れなければ影とは見えず。

○ リズムに到達はない。境地はない。

○ 聴くことはただ受け身の姿勢か。inner voice。和することは受け身なだけではない。静寂に和することさえ。

○ 私が一個の他者であるまえに、此処(ここ)があわや数知れぬ他処(よそ)なのだ。他処が幾重にも鬩ぎあっている。

○ 隠すことで現れる。隠しきれずにではなく、隠すほうへ動いたぶんだけ痕跡は露わなのだ。かすかであるほど露わなのだ。そして痕跡を距った遠く、何の痕跡も見当らないところまで、現れたものが現れなかったところまで、この眼差しが消えかかるまで、立ち尽したまま動いてゆく。そちらへ剥れてゆく。触らぬ手触りに引きとめられながら、食い止められながら。

○ めぐるということ、幾度となくめぐってくるということに超越が託されている。一度超えれば済む。そんな物事はない。超えたという事実がまためぐってくる。戻ってくるのではない。前の手順を繰返すわけにはいかない。超越はたちまちにして過ぎ去り、そしてめぐってくることで試練にかけられる。めぐることで、際どい反復によって、超越はずたずたにされ、微塵にされ、破産する。それこそが季節である。

○ 耳を聾する騒音のなかにはうかがい知れぬ数々のうたがある。耳を聾することじたいがうたではないのか。

○ 奥行きは蝕からなる。奥行きの果てで、眼は行き止まりである。時の行き止まり。行き止まりが剥離とずれを繰返す。見ることは眼の繰り越しなのだ。

○ 速さの危険は、いのちを賭けることの危険にほかならぬ。いのちは与えられたもの、貸与されたものにすぎず、それを捨てること、失うことは真の危険ではない。速さは速度を蔽い隠し、いのちの危険は危険を隠してしまう。いのちは私に及ぶか。遅さの危険。遅れること、何かに対しての遅さではない遅さの危険を待ち設けること。急ぐことのありえない深度で。

○ 腰椎には空がある。あらゆるものが降ってくる。空に対してどのように傾くか。空をどのように傾けるか。そこに季節のなかの微細な季節、循環のなかの無数の循環がひそんでいる。

○ あなたの困難は道なき道、もはや道ではない荒れ果てた境をなお、どこへとも知れず往かねばならぬ困難なのかも知れない。一方、恵みは坂である。恵みは坂を下りてくるのではない。坂としてそこへ下りてくる。恵まれた者はこの坂を恵みと共に下りてゆけばよいように初めは思うのだが、そこが、自分の居場所が坂の終りであり坂のまっただなかなのだ。下りることはできない。では登るか?どちらへ向って?坂は見えないのだし、明瞭に感じ取ることもできないものとして課されている。与えられている。恵まれている。そこにただとどまることがすでに途方もない困難なのだ。恵みを存えるほど坂は急になる。おいおい恵みの意味に気づかざるをえなくなる。ただいること、ただ存在することが坂なのだ。耐えきれずに、あるいは耐えるために動き出す。逆境は取るべき方向と発条を与えるかも知れない。だが坂は逆境の逆である。逆境は謂わば不動の堅固さを以て忠実に私に逆らう。ところが坂はほかならぬ私なのだ。浮動し転変する私じしんなのだ。坂はその端緒に於て一挙にその総体を寄与する。その途端、私は坂の終りなのだ。坂は始まりに於てぜんぶであり、終りなのだ。私はいきなり坂に立ったまま、われにもなく私を差し引いていくことしかできない。そしていくら差し引いたところで動いたことにはならない。恵みは道なき坂。道は恐らく忘恩のことである。坂は忘恩の防止装置か。

○ 音楽はたぶん音楽の代りなのだ。

○ 控えていることが山ほどある。でも捗らない、ということが、リズムをなさず、季節をかたちづくってゆくようだ。

○ 雪は雪を遅れる。私は雪に遅れる。音に応じたのでは遅すぎる。唄の欠如がそのまま唄となることのあかし、それが雪だ。雪に誘われて、すなわち唄の欠如に耐えきれず、私が唄い出すとき、唄は私のなかにあったのだろうか。唄の欠如は私だ。だから唄うのだ。雪に誘われて、私は遅れはじめる。めぐってくる唄に私を与える。雪は遅れ、欠如を頒けて空白を布(し)く。積もった雪を、降る雪が著しく裏切っている。何という唄、唄を欠いたまま、欠いていることの何という聴き尽せぬ唄。けっして届かず、届いたときには消えている唄。聴くことを、聴き始めることを唆かしてやまぬ欠如の唄。唄が距りにほかならぬことを雪はふる。唄う。雪でなく、私でなく、唄う。唄の始まりに遅れて唄う。雪の始まりに遅れて唄う。欠如の始まりに遅れて唄う。

○ 雪には去ることと来ることの混乱がある。

○ 物音ではない音。

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