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遅れる

◇密室に水面を用いる。

◇声のほとりで、声を通じて声を去る。声を通ぜよ、去ると知りつつ声に響き、我を忘れよ。忘れつつ、鬼気に至るまで忘れよ。鬼気ほそく声に託すを、声ほそく鬼気を聞き継げ。狂気より鬼気と知る。

◇影を限りに。そよぎを踏む。

◇不意の響きが、いちいち弔鐘のように聞えてならぬ日がある。たった一つの響きに万感が託される。響きを惜しむとき、それは既に去っている。響きのさなかにあっても響きに伴うことはできない以上、響きとはそもそも訪れると去るとを同じくする。去来を問わず、ただその不意に打たれうるばかりだ。去って後、響きの余白ならざるはない。そしてそこへさらに響いてくる音がある。余白は幾重にも重なって、同一の余白は決してない。響いてくるとき、そこはすでに余白であった。響きが響きを掻き消すように、新たな余白は前の余白を掻き消すのだろうか。余白は私をさらに引き退がり、私の内も外も兼ねて広がりをなしてゆく。広がりは私という一点とその内外が薄れゆくような遠ざかる距離として満ちわたる。音はこの距離に生じる。響きは薄れゆく内外を響いてくる。余白が響きを生むのだ。

 このような一日が、数ええてめぐり来る記念の日でなければならぬいわれはない。何も知らぬ、このうえない日常の一日であればよい。私はそのようにして誰とも知らぬ魂にふれ、鎮まり、浄(きよ)まる。一日が、たった一つの音のように響くことが、せめてもの祈りの限り。

◇風がどの方(え)へ吹きぬけようとも、一歩が一歩の限りを傾け、一歩が瀕するならば、一歩ごとに木もれ陽は鳴り渡る。応え手のない響きがこともなく逆捲き騰のぼる。風に、この身はなかったものとして、今この一歩をありえて吹かれる。寄り添うもの、看取るものも必ず続く。

◇傾けることのうちに、手向けを賭けているとも知らず。うべなって、知らず。

◇生き残ったものがそよいでいる。過ぎた者にそよいでいる。

◇伴奏を誘う身ぶり。居場所を引き裂く身ぶりで居場所が占められる。

◇水を引き抜いて渦を立てる。

◇群れる者には群れであることがつけ加わるだけであって、決してその孤独が解消するわけではない。失踪者は見えないことでその孤独が際立つが、失踪せぬ者の孤独は群れたまま犇(ひしめ)きあってやまない。失踪によってまなざしは喚起され、不明は不明なまま明と入れ替わる。

◇座る。畳の目がある。向きを定める。目に沿う。目に逆らう。目は流れ。縁へりを跨いで手を浸せば、流れのなかで手は手の流れ。身は身の流れ。涙の流れ。香(か)の如きを以てふせぐ。一畳に至らぬ身を一畳に、座をただしては目をひらかずともよい。

◇空しさの極みを不意に日が差す。差して息づく。

 日は差したまま渝(かわ)る。出入りなく渝る日を出入りの儀とする。

◇生身の声ほど幽けく、はかない。はかないまま、しぶとく纏(まつ)わりあう。このはかなさに依ってのみ今生はある。私ではない者の声が、ほそぼそと私へ垂れる恵み。この恵みなくして私は私を重ねようもなかった。

◇ふさぎようもなくば、匂いへ傾けて耳をふせぐ。

◇音楽には正面がある。揺れには前後(mono)と左右(stereo)がある。音に正面はあるか。

◇私か?私なのか?呼び声は他人なのだ。私を呼んでいるのか?呼び声の正面へ身は躙(にじ)り寄り、呼び声を私のものとすべく求めて立ちはだかる。掻きあつめ、食い止めたこの身は他者からなる。人ならざるを食いあつめて成り立てた身が人でなくて、私が人か?人か否かは不確かでも、身は確かにある。身の裡にほそく立ちのぼる声が他人だということ。他人がどこまでも人である約束はないが、差し当たって人である以上、他人の声が私を生きる。私は呼び声を求め揺れ動く。私は差し出しうるせめてものこの身を用意とするほかない。

◇食った物(食われた者)の声ではない。食った者の声へ、肉へ、そのつど直される消息を、どのように聞く。

◇間(ま)の隅へ声を置く。身の隅へ声が返る。耳は外に瀕する逃げ際へ向ける。隅に背いて坐る。隅の束となって坐る。

◇居を移す。拠を移す。それが、贈答の儀。

◇おまえが歩む限り、どの角(かど)から迷路になるか。日は高く、影は単音。通い慣れた路を、通い慣れたということじたいを、些かも迷えぬすじを、何かが迷っている。何ひとつ見失わぬ。路を見失わず、我を見失わぬ。その、見失わぬ路と我以外を整然と失っているのではないか。迷いがない。ないはずのない迷いが、路と我をよそに蒸れ去る。慣れ残るにあらず。残り慣れてここを曝す。坂を果たし、黄泉を返すは、あの角からか、次の角からか。おぼえのない黄泉を終え、というより消し、迷いへ追いつき、始めることができるのは、どの角からか。

◇価値は終わる。価値が終わっておまえは何を見失うか。

◇出入りの動きが腑甲斐なのだ。出るか入るかではない。

◇自分の時間と他人の時間は比較できない。

◇食いながら、食うことに辿り着けない。糧にどう追いすがる。どう手繰り寄せる。腹いっぱいの酷たらしさに居直られて、この期に及ぶ。及ばずながらこの時期に及んでしまっている。それを忝(かたじけな)いと言う。
空位の久しさ。空席たちまち嵩かさむ。

◇聞くことで澄むなら聞かぬことでなお澄む。

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