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  予後

八木雅弘

 

○ ここ以外では、遠方に於て生者と死者は立ち混じって日常を営む。ここ、取りも直さず私のいるここ、私のまなざしに限られたここからの眺めまでがここなのだ。ここからは死は取り上げられつづける。世界は取り上げられた死までの距離だろうか。

○ 耳を澄ますのは、かすかなものへ、遠いものへである。とどきようもない遠さへ耳をやる。とどこうとして耳は、まるで天へ連なる。

○ 死者はとどいた。

○ 耳を澄ますことは、それじたいひとつの声にひとしくはないか。耳を澄ますのは、けっきょく耳を澄ましているものに耳を澄ますのだ。こうして「耳を澄ます」が無数に響きあう。音の手前で、というより音の後で、耳を澄ますことは声となる。声のゆくえとなる。

○ 死者は耳を澄ましている。耳を澄ませば何がしか死者に通うものだ。世界は「耳を澄ます」に満ちている。

○ 風景とは死者の遠ざかった跡なのだ。いや、生者が死者へ退いた跡と言うべきか。遠ざかったから近い。

○ 私の無意識のほうがこの風景よりも遠い。風景は遠くへゆくほど死者のものであり、遠くでは死者は生者にひとしい。死は私の無意識から齎される。無意識はまたべつの風景。遠さの起点は他ならぬ私。私からの遠さでしかありえない死。

○ 「電話というのは結局じぶんにかけてるんだな」「それはおまえが死んでるからだ」

○ 褪せることと蘇ることはひとしい。

○ 火は価値を燃やすが、価値で燃えるのではない。

○ 器のなかで水面が揺れる。次に揺れるとき、そこに私はいない。

○ 季節は、たぶん音楽と同じく、関節から来る。あるいは関節を越して来る。関節が関節を越す。それが季節か。そこに季節が。季節は「ある」のではないだろう。関節の不断の繰り越し。何と何の関節かを、軋むのでなければ。痛みを引き取られるにせよ、引き取るにせよ。結びめのように体することに渝りはない。

○ 「主」を体する。「客」を体する。同じことではないか。言いかえれば、そこにはない。

○ 傷はじっと押えて待つ。止まるのと過ぎるのとが重なりあう時を。

○ 人間の大きさで人間は人間と関わる。世界のなかで、大きさとは神秘だ。

○ 音を聴くことは私の始まりの欠落を聴くことである。欠落か、あるいは忘却。それは根が地へ挿し込まれていることにひとしいだろう。私の聴くすべては欠落した始まりへの供給にほかならない。

○ いろんなことが、わずかに、わかりかけている。わかっているのではないし、わかりつつあるのでも、いつかわかるというのでもない。わかりかけているという事態が、ただわずかに生じ、過ぎていく。私はじぶんをだめにすることしかできないのかもしれない。

○ 私のからだは、私のからだを(内側へ)押しひらく花なのだ。

○ 草木も眠れば身の毛はよだつ、そうとも知らずに眠るおまえのおかしさよ。おまえがよだつ。おまえの身の毛が皆よだつ。

○ 誰もがセックスに深く傷ついている。特定の相手や行為ではなく、自分のからだがセックスすることができるということじたいに一度は劇しいダメージを受けている。おまえがセックスするのは、そこで、おまえに、おまえを取りまく世界がつぐなってほしいからではないのか。

○ 穴があいていることと、穴があいていることに(自分で)気づくこととは全くちがう。

○ このひとの顔。盲目で、私の顔を見ることのない顔。私と話し、誰よりも紛うかたなく私と話し、私に笑いかける。このひとのこの顔ほど、純粋に差し出された顔を私は知らない。

○ 見ることの何という無残。そこでいのちに関わる必死の行為が行われているのを、ただ見ているこの目の無残。目は目の前の行為に取り残される。目は目の属するからだから取り残される。目は、現在に対して何かが遅れようとする器官なのだ。

○ むしろ歳月そのものに住む。メロディはメロディのままに措く。鳥は巣よりも自らの鳴き声に住む。

○ 私が意識をもっていると考えるのは見当違いではないのか。私の意識が世界を認(み)ているのではなくて、世界の意識が私を認ている。私に意識が発するのではなく、私に意識が達(とど)いているのだ。私が意識を向けているのではなく、私に意識が向けられているのだ。私は向きではなく向うである。

○ 緑から緑へ、際限から際限へ逸れてゆく。体現の緑、際限を体現するのに、緑そのものに緑はなく、際限そのものに際限はない。際限のない緑がそのまま緑のない際限であるこの身のひたすらを、なんどでも、緑へと逸れ、際限へと逸れ、度を失うことと度を保つことが、名を失うことと名を託(かこ)つことが、木立のようにかさなって峙つ。緑が緑をすてて鳴るとき。

○ 乱れつくした静けさ。手もとに風が添う。おまえと、おまえの糧とのほとりで、静かに過ぎる。

○ 揺れているあいだ、水は光であり、音である。薄暗がりの奥で、無明の光、無音の音。揺れやめば私が現れる。

○ 歩くことは汲むこと。

○ 水音へからだの真芯を合わせる。

○ 衣服もまた呼吸している。それはおそらくからだの呼吸と正反対なのだ。

○ 腰が遠くなる。自分の腰に近づくための長い長い道のり。

○ 現実には終りなどない。結果などない。勝ち敗けなどない。強いて言えば現実にはつねに凌がれて敗れ去るしかない。生ある者の勝負は、いきおい「部分」にある。部分を選別し否定する意識はそのつど敗北である。部分の激しい喜びがはるかに全体を凌ぐ一瞬がある。生の素晴しさが現実に打ち克つのはこの一点を措いてない。喜びは(繰返されるとしても)一瞬だから、自分の喜びでない限り、他人の喜びには決して追いつけない。願いは後追いとなる。ひとの喜びを否定することには意味がない。部分が全体を凌駕するのは比較を凌駕するということだ。部分とは分けられた全体だとしても、部分が激しく震動するとき、そこには全体がしのび込んでいる。全体は震動を求める。世界とは全体のことではなく、この凌駕を指す。