精霊しょうりょう
八木雅弘
○ 無数は無であると言うとき、無であるのは数えきれぬ物のほうではなく、数えきることのできない私のほうがなのだ。
○ 命数には存分に逆らってこそ生きる。
○ すあしは青空へ。
○ 高い所からバランスをくずして落ちる。走馬燈など回らない。何の記憶も蘇らない。ただくずれたバランスを落ちながら立て直そうともがく。バランスはくずれたままだ。そこで、すさむ。そもそものいのちが一挙に噴き上げてくる。生きることは落ちることであり(堕落ではない)、いのちはバランスのくずれたところに萌す。
○ まっすぐに休むことはできない。
○ はるかに仰ぎ見て、傷口のある高さにもし傷口がなかったとしたら、その高さへ向けて私が 裂けることはない。私がひらけることはない。
○ 傷の痕ではない、傷の影が、痛むのではなく、憶い出す。
○ 眺めにひきかえ、いのちは、わずかな水が豊かなのだ。
○ 味とは出くわすことであり、出くわすまでに何を知ったかである。繰返そうとも味はそのつど変えるちからにほかならない。味わったなら変ったのだ。
○ そよいでいるところが、最も時間が激しくなっている。
○ 肚へ、肚にある異物へ、集中してゆく。
○ 近くから来て、遠くへ帰るもの。
○ 中心を消す動き。あるいは中心がぶれる動き。動けば動くほど中心が明らかになるのとは反対に。
○ ここでおれの息がふるえていると、はるかな木立のひと叢がりの梢がふるえ始める。ふるえは止まないが、ふるえることの意味が変る。
○ 受け容れる。互いに器でも水でもある。おまえは器を満たすために水を容れたか。おれは器をひらくために水を容れたか。満たして器は、ひらいて器は変ったか。水でできた器が器でできた水を見出す。器であることが孤独であり、水であることが孤独であるなら、器が水であることをやめたり水が器であることをやめたりすることをやめてみる。器が水であることを見出したり水が器であることを見出したりするのはわずかに遅れてのことだが、このわずかさが決定的に手遅れだと思い込んだか。器はじつは水だった。水はじつは器だった。この器とその器は異なり、この水とその水はたぶん同じい。満たした水はひらかなかった。ひらいた水は満たさなかった。水は器だから鳴り響いたが、べつの器のなかで散ってしまった。ゆえにあらたに流れを求める。流れて水を取り戻す。流れも器。さらに異なる。器が水に流れて行くのは、流れが水を別れたからと思い知る。
○ 立っていることが他者である。私は他者で立っている。
○ 与える身振りと奪う身振りはほぼ同じい。
○ 関節は旅。
○ 自然には判断がない。評価がない。肯定も否定も自然に背いていることに変りはない。
○ 各自その日の炉を有(も)つこと。
○ 耳は気配に取っておけ。音に全幅を寄せてはならない。総身の皮膚で音を聴き、耳は以外の気配に澄ます。なぜなら耳は皮膚を導くからだ。
○ 踵はおのづから帰っている。いかに悟り澄まそうと踵が引掛かって自然を遮断できず、赴くことを風流と呼ぶ。
○ 揺れるものに揺れるものが映る。揺れかたが一致すると見えなくなる。
○ 届くものが届かないそのとき、届かないものが届いていたことに気づいてもよい。そこからじぶんが生まれてきたことを、郵便受けをあらためるより先ず感謝してもよいだろう。
○ 物語はいずれ風景に還元する、ひとつか、せいぜい幾つかの風景に。風景を物語に捧げるのは無駄である。風景とは、光と影と風とが互いにこすれあいながら、つづくこと、ないし残ることだ。
○ 私か私でないか定かではないまま、私以前の何かとして私が私に与えられている以上、風景はその延長である。むしろ私が風景の延長である。
○ 風景はおまえを名づけない。
○ 風景は私から風景を抽き出し、そして私を風景に収めない。それが風景の収めかただ。風景が収まって見える根拠だ。
○ 風景を通過することと風景が通過することとは私に於て完全にひとしい。
○ 凝視が放心のよすがとなる。
○ 見はるかすことが送りかたでも迎えかたでもある。
○ 雪ふれば私がふりやむ。
○ 歯の後でどう響くか。
○ 拳がふるえながら花のようにひらいてくる。