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2011年3月11日、僕は瀬戸内の小さな島に居た。(その二)
 
 
 翌朝に再び田ノ浦を訪れると、杭もブイも、夜の強い潮に流されたようだった。また振り出しとなった一日は、例のごとく、見張りの中国電力社員が僕たちにビデオカメラを向けられることから始まった。
連日の消耗戦だった。埋立側はペイされているから、同じ顔ぶれで同じ大量動員をかけてくる。反対する側は手弁当だ。ようやく取れた休暇が切れれば仕事に戻る。だが、新たなボランティアが現れる。山口県民老若男女の郷土愛には圧倒された。
 祝島の漁民も総動員は3日が限界だ。漁に出なくては生活が出来ない。代わりにシーカヤックの若者達のニューウェーブが押し寄せる。2年前の、埋立標識用のブイが本土側の田名埠頭に集積された時にも、その出口を封鎖した祝島漁船が4日目に引き上げせざるを得なかった時、シーカヤックの若者達が現れて封鎖を引き継いだ。その瞬間、海に命を賭ける二世代の男達が固く結ばれた。埠頭にも多くのボランティアが駆けつけ、祝島のおばあさん達と深く結ばれた。
 
 最早数隻だけとなった漁船は、上関大橋のかかる狭い海峡で台船を待ち構え、その引き船に迫り、進路を堂々巡りとさせて田ノ浦に近ずけさせない。これも、海の男達の仁義なのか、衝突ギリギリで互いに避ける絶妙なタイミングだ。それでも、田ノ浦外側の原発取水口辺りには、一部分岩石を投下された。たまに、その台船に立ち向かう漁師が田ノ浦に上陸する。精悍そのものの海の男だ。漁船に乗り込みビデオ撮影係をしているのは、1月に県庁前でハンスト11日した5人の少年の一人だった。たくましくなった。
 田ノ浦内側の海上も毎日カヤック、中部電力や推進派漁民の船に、黒い狼みたいな海上保安庁のゴムボート。浜辺も海も修羅場だ。
 
 攻防戦の最中に、広島高裁は、埋立妨害に1人当たり1日500万円の支払いを命じる判決を下した。アメリカでは禁止された、企業の環境家への訴訟だが、情けないことに、日本の司法は理不尽な行政のパーツと成り果てている。原発予定地買い占めの時には、明らかな違法行為があったのに、沙汰なしでウヤムヤにした。
 たちまち漁民やシーカヤックの若者は、中国電力に2000万から3000万円の支払い訴訟を起こされた。でも彼等は、無い袖は振れない、と意に介さない。名誉なことだ、とさえ思っている。
 双方に疲れと怒りが蓄積して来た頃だった。浜辺の揉み合いで、二人の反対側が負傷した。祝島のおばあさんが踏みつけられ、意識不明なまま入院、愛媛県の若者は打撲傷、だが原発助成金で建てられた病院は、彼の入院を拒否した。
 
 そこで、工事はしばし中断されて、上関の民家に泊まっていた人達も一旦は引き上げた。一人残った僕は、まだ暗い早朝の上関大橋を作業員と警備員を乗せたバスが通過するかを見張るシフトの一員をやるだけだから、身体を休めながら、その家の中の膨大な品々を整理することとなった。前の大家は、原発予定地によくある、夜逃げ同然に出て行ったのか、衝動買いされた安っぽい物がほとんど使われていない状態で残されままだった。
 使い道の全く無い物をゴミに出し、有用な物は押し入れに収納。日本の典型的な家庭生活の垢にまみれた日々が一段落した頃だったから、その2011年3月11日の昼下がりの散歩は気分爽快だった。
 
 
 レトロな港町の寂れた一角。一軒だけある酒屋のガラス戸を開ける。奥から蒼白な顔の若い店主が現れるや
 「今、東北で大地震が起こりました」と言った。
僕は咄嗟に
 「女川原発は大丈夫ですか?」と聞いた。
 「それは大丈夫のようですが」と彼は答えた。
奥のテレビを気にして振り返っている。とんでもない物を見てしまったようだ。
 焼酎の小瓶を買ってポケットに突っ込む。そうだつまみも、と民家の軒先雑貨店に立ち寄る。いつもなら何も言わずに優しいだけの無垢なおばあさんが
 「人が大勢消えて行き来ますよ」あの世から届いたような静かな声だった。
 そうだ、車道に面した物産センターの奥には、テレビの見れる休息場がある。
 「やっぱり来たね」と不安そうな店員のおばさん。いつもの空々しい目付きではない。この店は原発助成金で作られたのだ。
 
 誰もいないテーブル。テレビは点いたままだった。モニターには、とんでもない津波が陸上に押し寄せ、何もかもを呑みこんでいるところが写っていた。「海が怒り狂って復讐をしている」僕は食い入るように見続けた。顎がひきつって来るほどの衝撃だった。
 9.11の映像はハリウッドムービーのような作為を感じたが、津波は自然の生々しさだけの恐ろしさだ。しかも、車道の向こうは海、と言うロケーションなのだ。
 瀬戸内海でも、かって10メートルの津波が押し寄せた記録が残されている。東海+東南海+南海の同時地震が起こったときには、瀬戸内海全域に2から3メートルの津波が60分ほどで押し寄せると、内閣府中央防災会議が2003年代に発表した。リアス式海岸と島の多い瀬戸内海では、複雑な岸辺に当たっては戻る津波は、その過程で高さを増幅させる。この物産店前の車道を海から守る2メートル余の防波堤を、このすぐ目の先に狭まる海峡に止められた津波は簡単にぶち壊すだろう。ならば、埋立地に立てられる上関原発は、瀬戸内海全域を汚染する核爆弾となる。
 我に返ると、普段は滅多に客の姿のない物産店に、田ノ浦でも見かけたような中国電力社員や、ゴツイ推進派の漁師が次ぎつぎと入店し、狭い店内を一周すると何も買わずに出て行った。今日は、その場に釘付けとなった僕を、町に住む他所から来た原発反対派、と睨み付けはしない。お互いに瞬間の現実を共有している。
 家に帰り、押し入れのテレビを繋いだ。このままで済むとは思えなかった。
 
 翌日の午後、福島1号機が爆発した。最初の原子力潜水艦ノーチラス号の原子炉を使った、40年ほどの古い原発だ。反原発の民間団体、たんぽぽ舎の無料メールマガジンの存在を、関東以北の知人に知らせた。その夜から、上関原発反対運動に関わっていた仲間が、次々と避難してきた。子連れの母が多かった。僕が家でも、旅でも備えているヨウ素剤の配布や、中国、九州、四国地方で避難民受け入れのできる知人との連絡、と田ノ浦だけの関わりから一気に全国区に関係が広がった。
 そして海外の知人にも、僕が無事なことをメールした。僕のブログにメールアドレスを公表し、特に福島の人達に避難を呼びかけた。とたんに、迷惑メールのラッシュに襲われた。もしかしたらだが、福島県民を避難させないように、システマティックな監視体制を敷いている組織の存在を感じた。
 ともかく、せっかくだから、上関の町を楽しんで貰いたい、と僕は子供達と不思議な国のアリスみたいな散歩を繰り返した。老人だらけの町に、子供の笑い声が立った。
 
 3号機3月14日爆発、2号機15日爆発、4号機15日火災と、15日から16日にかけて危機はピークに達した。ヨーロッパの気象観測機関の発表する放射能汚染予測オンタイム動画地図では、日本列島が、まるで断末魔の龍が破れた腹から、毒の限りを吐き、撒き散らしているかのように見えた。
 その頃には、東京、千葉、神奈川から避難する人達が一気に増えた。食卓は賑やかとなった。ある母親は、
 「事故の1週間前当たりから、この幼稚園児の女の子二人がコンブ、コンブってせがんでばかりだった。とろろ昆布や、振り掛け昆布や、海苔や昆布の佃煮ばっかり食べていたんですよ」と言った。
 深い人間と社会と文明の闇に少し光が当たって来たような出逢いだった。それが4月下旬頃まで続いた。結局僕は、ほとんどの住民が原発推進派である町に3ケ月ほど住んだこととなった。
 
 4月10日、上関から30キロ圏内にある光市で県議選があった。告知3日前に、原発容認派2人無投票当選の予想を覆し、上関原発白紙撤回を主張する、国弘秀人、が立候補した。惜しくも197票差で当選できなかったが、歴代7人の首相を出した保守の牙城山口県の政治風土は変わりつつある。
 僕は、上関町から九州や四国に避難した人達を訪れる旅に出た後でも、町の大掃除の日には大家や祝島に住み着いた若い仲間達と手伝いに行った。近所の老人達が大喜びで迎えてくれ、僕達は仲良く一緒に作業した。
 
 旅の途中で北九州のデモに参加したりしてから、古巣の千葉の我が家に戻ると、3.11以来60, 70歳代の旧友が何人も亡くなっていた。ほとんどは心臓を一瞬にしてやられている。遺族に会うと、口々に「焼き場が老人でいっぱい、1週間から10日間待たなければならなかった、」と言った。
 その内、僕が長らく習慣としている、夜中に起きてただ座ることをしていた時だった。僕の鼓動におかしなリズムが紛れている。放射能は電磁波を出す。それが呼吸で取り込まれると、内臓の細胞に直接食い込み、継続して刺激することを実感した。そして原発から出される放射能は、これまで自然界に存在しなかった新種の上に、毒性も桁違いに強い。
 
 首都圏の運動が盛り上がっている。僕も、これまで過疎地に原発を押し付けてきたツケを払いたかった。チェルノブイリ以来の総決算だ。しかし今回の千葉で体感したように、残された生命力は限られている。ならば、激しく大きく集中した運動よりも、緩やかに小さく色々と、維持可能な運動を、半ば飄々としてやるのが、これからの僕に相応しいのではないだろうか? と、夜中に目覚めて座り結論に達した。
 その朝早くから、西日本地方都市に住む友達に電話した。空き部屋があるアパートについて聞きまくった。山口市に、丁度4畳半が空いたところだ、と友達の大家が言った。前が田んぼで内装は自然木、店屋も天然温泉もすぐ近くで、家賃も安く権利敷金も免除してくれるということで、物件も見ずに即決した。ただちに引越しの準備にかかる。
 
 直感したように、山口市のアパートは、これからの僕の人生にふさわしい。山口県の人口147万人、山口市17万人。県庁所在地としては全国で一番人口が少なく、新幹線も通っていないし、工業団地もほとんど無い。こんな小都市の郊外でも、ホタルの湧く小川が流れ、歩いて行ける湯田温泉には、無料の足湯が6ケ所ある。そこでは井戸端会議が花盛り。安い温泉は100円だ。老人達が将棋を指している。
 郷土愛の強い県民は良く話し合う。だから幕末の長州征伐の時、4方向から攻撃してきた幕府連合軍に農民も商人も武器を手にとり撃退出来たのだろう。探りあったままにらみ合うことの多い日本列島の地方風土もあるが、進んで開くこともする山口は維新の原動力となった。また日本海と内陸と瀬戸内海で、全くと言って良いほど住民の性格が違うのも面白い。僕の敬愛する現場主義の民俗学者、宮本常一の故郷でもある。
 田ノ浦には、あの時以来、毎月浜辺で開かれたライブミュージックのギャザリングに、真冬まで通った。工事は知事の要請で止まったままだが、予断は許されない。
 
 今僕は、7月12日告示、7月29日投開票の山口県知事選挙に立候補した、飯田哲也、を応援する勝手連に入り、ビラ配り、ポスター貼り、自転車メガホン部隊の行動に参加しようと思っている。ホームページ<飯田てつなり> を検索して貰えば解って貰えると思うが、大阪市と大阪府の顧問をしているNPO環境エネルギー政策研究所の代表だ。維新の会には直接関わっていないし、維新塾で教えたこともない。在野きっての地産地消エネルギーの一人者。かって原子力ムラの一員だったから、両方の事情を知っている。
 僕も、直に会って人物を確認した。苦労人だ。子供時代は父子家庭。父親が宿直をしていたホームレスのホームで育った。奨学金で京都大学工学部に学ぶ。誠実でしっかりとしたビジョンと行動力がある。
 
 一年近く山口に住み、気候も地形も県民性の多様なことも感じて来た。ちいさく、あちこち、いろいろと、バラダイムシフトは辺境から起こる。最初は全くささやかだけれど、ある時点で加速度を増して時代を席巻する。山口県が、その辺境のホットスポットのひとつであることを感じている。

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