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ゴルムド・ブルース・デイズ
澤村浩行 


2005年6月19日 中国青海省ゴルムド
 
 昨日の夕方、敦煌からフラリ乗ってしまった寝台バスのサスペンションは、トラックであった時のままの固さだった。道は舗装されてはいたが、昼の灼熱に溶けたモルタルが夜の冷え込みに縮みあがってギザギザとなり、時には坂の下方にネットリと流れたまま大きな凹凸を形造っている。そんな道路をバスは遠慮えしゃくもなく突進する。交通量はゼロに等しい。夕陽が砂丘に影を落とし、半弦の月がそれを薄く赤く浮き上がらせるのを、ベットの支柱にしがみつきながら眺め続けて振動をこらえていたが、睡魔は僕を倒した。なにせ、カザフスタンより新彊しんきょうウイグル族自治区へと連なる3000キロメートルほどの草原と砂漠の回廊を、移動し続けてきた63年目の肉体だ。しかしその睡りも、バスが大きくバウンドする度に宙に舞うや、次の瞬間、ベットに打ちつけられるのを繰り返されてズタズタだ。僕のベットは運転手に頼み込んで彼のすぐ後ろにして貰ったが、もう一人の東洋系外人K君は3列目の後部だったから時には2段ベットの「上段に届くかと思うほど」飛び上がったそうだ。だから16時間のライドの後にゴルムドに着いたときには、満席だったバスの他の客がタクシーで消え去った後に、2人だけが取り残された。立っているだけで精一杯だ。
 
 あたりは無情に白々しい朝。砂漠にも雲の届く小雨季の今日が明けて行く。草一本生えていない岩山が街の背後にそそり立ってくる。クンルン山脈だ。だだっ広い車道の脇の自転車道を、首のない豚を荷台に乗せた男がペダルをこいで行ったのと、タクシーが数台通り過ぎた、そのわずかな動きだけがこの街が広い道路の両側に立ち並ぶ4、5階建ての漢字看板を張り付けた新築ビルだけのゴースト・タウンでないことを物語っている。いや、なによりも心に滲みてくるのは、若いポプラの並木だ。歩道に沿ってそよいでいるその葉こそ確かなる命の証。「ゴルムド」とは、モンゴル語で「川の集まる場所」を意味するという。ともかくオアシスには辿り着いた。
 
 「ラサに行くのか?700元」口ひげ生やした黒い背広に黒シャツ着流した小男が僕達に話かけている。K君がペラペラ中国語で対応している。
 「あんた中国語かなりやるんだね。」
 「当たり前でしょ。韓国でも勉強したし、中国で3年間働いた後、留学1年で完璧に仕上げたんだ。」
 
 ようやくインテリっぽい東洋系外人の正体が捕めた。僕が敦煌でバスに乗り込んだ時は最も疑りっぽい目付きで睨みつけた30才前後の男だ。僕はもしかしたら華僑か、北京あたりのインテリの少数民族愛好者かと思っていた。特に最近は彼等の間で、ルーツ・トリップが流行っている。
 
 「正式の許可を取って行くと1700元だけど、彼のルートなら700元で、途中の公安チックも素通りできるそうだ。」
 「今の状態ではこの先のことなんか考えられないよ。ともかく何か食って横になり無い。」 「僕もそんなところだ。動こうか。」
 とたんに小男がタクシーを止めてドアを開く。
 「一寸歩いて身体をほぐしたいんだがな」
 「僕もそんなところだ」
 「だったら安いホテルまで案内するよ」と、小男が先に立って歩いた。黒い背広の後姿が漂々として灰色の車道の脇を揺れて行く。
 「彼、フイ族だってよ。回教徒。たぶんチベット系の」K君が解説する。そういわれれば、あの歩き方は、羊を追う男のものだ。
 
 かっては、そんな男の姿しかここには見られなかった。ところが、中華人民共和国が成立してからカリウムの大鉱脈と油田が発見された。今や、20万人の都市にまでふくれ上がっている。中国本土より鉄道が引かれるや、人がなだれ込んできたというブーム・タウンだ。
 ゴルムドには、金を稼いでうまい物を食い、女を買う外には文化の片鱗も見当たらない。まだ閉店したままの店は、僻地にしては大きな食堂、大きなマッサージ・パーラー、そして時たまの銀行とケイタイ電話会社ばかり立ち並んでいる。仕事がなければ、誰もこんな標高がある上に冬はとてつもなく寒い砂漠の真中まで来やしない。あたりの次の街である、北の敦煌、西のラサ、東のシニン(西寧)まで、少なくとも16時間はバスか列車に乗らなければならない。途中はチビた集落が数ヶ所あるだけの、孤立し切った街に仕事もないのに、来てしまった僕とK君。(人生無駄にしょうぜ)の、ふらちなやからに見られても仕方がない。
 歩く途中の、とある大きな商店前の細長いベランダに、出稼ぎ労働者30人ほどの、多くはまだ布団一枚丸めた中に睡り込んでいるが、中には目覚めたてでボンヤリ座る者や、布団を穀物用プラスティック袋に押し込んでいる者、フラリ立ち上がって歩いた先で歯をみがく者達の視線が、一勢に僕達に注がれる。(ノー天気な奴めが)と。
 
 だだっ広い主道らしきを端から端まで歩きながら、中国の宿では一番安い「招待所」に部屋を求めた。いずれも「外国人お断り」とにべつもない。公安がかなり徹底して外人の泊まれる場所を限定している。一様に「泊まれるのは(一段高価な)賓館ひんかんだ」と言う。
 「でも中国の役所のことだから、裏道の招待所までは管理していないだろう。」と僕が言うと
 「当然でしょ。でも腹が減った。もう2キロメートルは歩いてる。」
 「そう言えば、僕も息切れしてきたぜ。さすが海抜3000メートルのことはある。ともかく僕はタバコを45年間吸ってきた肺の持ち主だからな。」
 「じゃ、あの角の開いたばかりの店へ」「でも、あのガイドの男どうする。なかなか愛嬌のある笑顔をする奴だし、朝飯に招待しようか?」
 「そんなこと気にしたらキリがないよ。彼とはチベット行が決まったときにまた会えばいい。それでがっぽり儲けるさ。」
 K君はその小柄な背広男に何か話してバイバイした。あれほど一緒に歩いたり宿を訪ね回ったのに、男はあっさり消えた。あくまで漂々として、逃した獲物への未練などまったく残さないで。(成程、これがチベット人の回教徒か。うらやみたいほどダンディーだ)
 
 その十字路の角にあるレストランは広く窓が双方向に開き、早朝ながら客がチラホラ来ていた。店員はチョコンとしたムスリム帽子を被ったチベット人。安っぽい女店員のユニフォームも、ムスリムっぽい抑制を感じる。朝食はヌードル・スープのみだったが、これは他のどこで食ったのより旨かった。
 「ウム、これは一流店の味だ。こんな所まであんなバスに乗って来た御褒美ってことだ。」とK君も縁なし眼鏡の向こうの眼をうるませている。
 「彼等もチベット系の回教徒だよね。でも、ラマ教徒みたいに打ちひしがれていない。」
 「当然でしょ。世界第3の回教国なんだよ、中国は。それだけの人口を政府も抑圧できっこない。それをしたら、中近東の回教国が石油の輸出をストップするだろうしね。毛沢東が蒋介石の国民党の重圧を逃れるために、中国東南から西北の延安まで1万キロメートルほど大きく内陸に迂回しながら一年ほど、日に30キロの夜行軍をして(長征)した時は、回教徒は国民党側についたからかなり苦汁をなめさせられたんだが、復讐はしなかった。でもチベットのラマ教とは人口が少ない。歴史的にはモンゴルの元帝国の時も、満洲族の清帝国の時にも、ラマ教は帝室宗教として大きな権勢を振るったらしく、それに対する漢民族の反感がかなり強い。それ以前にも、西夏とか吐蕃のチベット王国が中国を侵略している。やられたことはやり返すのが、今の抑圧の根っ子にあるんだ。」
 K君は大学で中国を勉強したので、かなりそのあたりの事情に詳しい。
 「それに、回教となったチベット人は下層階級出身者が多かったのでしょう。アッラーの下では平等だからね。プロレタリアート出身者だから共産党もムゲには出来ない。清朝時代から1990年までたびたび反乱を起してきた新彊ウイグル族自治区は別として、中国本土の回教徒は漢民族化して寺院さえも中国スタイルとなっている。看板に(清真寺)とあるだけでね。多くはモンゴルの元帝国が回教徒を多用した折に移住したらしいが、シーアン(西安)は唐時代のアラビア商人が先祖だと言う。もう中国人と混血し過ぎて顔形からは見分けがつかないけれど、豚肉を食わず酒を飲まない体質が普通の中国人とは一寸違う。」
 
 そんな話をしながら朝食をしている間に、街は通勤時間に差しかかった。自転車道を次々とサラリーマンが走る。市バスもカリウム精錬工場のバスも通勤者に溢れている。彼等のダッシュするのと反対に、僕達は急に睡くなった。
 「もう裏道の安宿探すの根気は無いから、ここに歩いてくる途中、双人間(トゥウィン)70元とたれ幕してあった賓館の部屋をシェアーしないか? 一人35元(約400円)なら普段の倍近い値だけれど、僕にとって高過ぎることはないし。」
 「そうしましょ。」と2人して立派なロビーの賓館でパスポート登録をした。渡されたカギはコンピューター入力のカードだ。3階の部屋からは悲情に迫る岩山が見晴らせ、冬のすさまじい寒さ用のスティーム・チューブの上にある2重窓を開けると乾いた風がすがすがしい。しかも、ここには専用のホット・バス・タブがある!K君はしきりに咳をし始めた。寝台バスの窓の閉まらないベッドで、砂漠の夜の急に冷え込む空気にノドをやられたらしく、「もうただ睡る」とベットに倒れ込んだ。
 僕は意を決してバス・タブに熱いお湯を注いだ。中国4ヶ月の間に熱い風呂に入ったのは、北京の天安門に真夜中に着き、ユースホステルが満員だったので小さな賓館に泊まった時のみ。2ヶ月ぶりだから裸の肌がぬるま湯さえ受け付けない。足湯を浅くして、腰湯に移し終わり。ついでに貯まりに貯まった洗濯物をタブに放り込み、手もみする力もないので足で踏みつけて汗だけ落とし、風呂場にザッとかけておいた。それから僕もただコンコンと睡った。
 
 暗くなって起きると、K君も目覚めた。洗濯物は、もう砂漠の空気に乾き切っている。2人して近くの食堂で3品注文しシェアーして食べた。北京あたりでスエーデン人の元軍人と旅して以来の同室、会食、会話、共歩き、そしてインターネット・バーから部屋で再びコンコンと睡るだけの日々が甦った。2人で歩くと土地人に疑われない。食堂や宿の従業員達は、僕達をマレーシアからきた鉱山技術者だと思っているらしい。つまり、インテリ山師。2人の関係が、より土地人の尺度に合ったものに写るのだろう。そのように移民社会の一部となって僕達は良く歩き、良く食い、良く話し、良く睡る。


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青海省
巨大な青海湖東端の海(ハイアン)にある
中国最初の原子爆弾を開発した研究所跡




2005年6月20日 中国青海省ゴルムド
 
 朝起きると窓の空は少し黄色味を帯びている。K君はまだ調子が悪そうで睡っている。昨夜はかなり咳き込んでいた。
 そこで一人で街に出た。地図もない始めての街では、ホテルを基点にうず巻き状に歩くのが僕の散歩の仕方だ。ここは南面にクルルン山脈が岩肌をさらしてそそり立っているから、磁石を使わずとも迷うことはない。といっても、何ら伝統のない新興の街だ。まったく、どこに行っても同じ店舗とアパートばかりで、一休みする寺も公園もない。ただ広い歩道に沿って植えられている若いポプラの並木には少し息がつけるという程度の殺風景な街だ。
 でも慣れるにつれて、人間の顔と体格が多様なことに驚かされてくる。チベット人は勿論だが、あごヒゲ長く伸ばしたモンゴル人、この省の東北の甘粛回族自治区あたりからの、どこかアラブっぽい回教徒、四角でぶ厚い身体に、丸い目付きのトルコ系カザフ族、その他にもK君は「あれがサラル族であれがトウ族だ」と昨朝の飯屋で道行く人を眺めながら説明したが、僕には見分けのつかない民族までもがゴチャ混ぜとなり、そこに支配者漢族の、金と権力と文化の力を誇示しながらも、どこか本土から離れた悲哀感を漂わす姿もある。だから、人を見るだけで結構歩き続けられた。歩くにつれて、あの寝台バスの衝撃でダメージを受けた筋肉と内臓と神経が元に戻っていくのも良く判る。
 そして中心地に広大な庭を持つゴルムド・ホテル(この中の観光局でチベット入境の許可証を得る)を過ぎた向こうにやけに人の多い繁華街があり、ようやく人に混ざって片隅に坐ることができた。ノドがやけに乾いて砂っぽくジャリジャリしている。露店商からスイカの一切れを買いむしゃぶりついた。砂漠の果物は必死に水分と糖分を内に貯えているから甘くジューシーだ。生き返る。ついでに黄色いメロンの一切れも。そこから、ただ坐り続けて人の流れを見続けた。
 一体感のあるバザール・シーンとは言えないのが、やけに気になってくる。もしかしたら、これはサンフランシスコの始まりの頃の姿かも知れない。と思ったりもした。あの街もゴールド・ラッシュに引き寄せられた中国人、特に広東省人が作った。中国料理店、売春宿、食品雑貨店に賭博場、阿片窟、金融業と道教の現世御利益の寺が加わって中国人街となった。漢文明とは都市文明が主体なのだろう。この街もその内サンフランシスコみたいに華やぐのだろうか?
 だが、ここには何かやるせない空虚な影が漂っている。多民族都市として飛躍する土台の一部が欠けているように思われるのだ。有史以来地理的にも文化的にも政治的にもチベットの一部であったものが、1949年以来中華人民共和国に組み込まれたからだけではなさそうだ。標高3000メートルの希薄な空気のせいでもないようだし。そしてふと、昨夜寝込むまでボソボソと身の上やらを話している合間にK君の言ったことを思い出した。
 「この青海省には可哀そうな人達がいるんだよ。それも半端な数ではない。この広大な土地に人口はたったの450万だけど、その1割近い40万人は元囚人なんだ。しかもその中の4万人は元政治犯。彼等は省の東のはずれにある省都シニン(西寧)郊外の高い壁に囲まれた工場で刑期を務めあげた後も故郷に住民登録できず、一生青海省の住民として過ごすのさ。いわば島流し。住民の10人に1人がそんな過去を持ち、この省に暮らしている。彼等は羊飼いもできないから、省都シニンかこのゴルムドの、この省にあるたった2つの都市にか住めない。それに、数年前にすさましい寒波がここを襲って羊が大量に死んだんだ。羊を失った羊飼いの家族も都市に流れ込むしかない。出稼ぎ人だって、国土の砂漠化と住宅や工場や道路建設で農地を失った元農民が多いことだろうよ。そして突然に5000メートルの高地でラサまでの鉄道建設や砂漠のど真中の鉱山や油田で働くこととなる。女はマッサージ、パーラーの渡り歩きだ。ともかくこの国は大きく、人間も多い。そして知れば知るほど、犠牲者も多いんだ。」
 その彼の話を思い出しながら人の群れるのを眺めてみると、確かにそんな過去の影を引きずっているような人がいるようだ。(10人に1人が元囚人。100人に1人が元政治犯)彼等の影は僕のいい加減な人生を問いつめているようにも思えてくる。
 
 一寸居たたまれない思いにかられた頃に、空が赤黒くなった。そして突然砂混じりの強風が路地に吹き込んできた。それは渦うずを巻いて路上のゴミを吹き上げた。プラスティクやペットボトル、紙や木の葉があちこちで輪を描いて舞い上がっている。露店商が必死で店閉まいするのも、強風にあおられオタオタ気味だ。ともかく息することもやっとの砂混じりの突風だから、商店などはシャッターを降ろせばしのげるが、路上の者はたまらない。一軒の屋台の果実を載せた板戸を必死で押さえているおばさんから、ようやく大粒のアプリコットを買い宿へと歩いた。こんな嵐に砂漠のど真中で襲われたら、砂に永遠に埋もれるのを覚悟しなきゃならんだろう。ともかく空全体がサンドバックを振って打ちつけてくるみたいな砂風の圧力だ。
 道を歩いているバカはもう居ないのに気がついた。たまたま通りかかった市バスに手を挙げたら止まってドアを一瞬だけ開けてくれた。運良くホテル近くに行くバスだった。ホテルに一歩入るとシーンとした深海だった。レセプションの女性が、僕の、たぶん血相変えた姿に笑っていた。ヤワな自分が情けなくなる。これでも1987年には、ほぼ1年間アイスランドに近いフェロー島で羊飼いをして、まっ黒な長い北海の冬の嵐にも、絶界の羊小屋に羊だけと暮らして耐え抜いたのだ。それが今じゃ都市の砂嵐にこのザマだ。
 部屋ではK君がボーと砂打ちつける2重窓の外を眺めていた。岩山との間にぶ厚い砂が吹き荒れていて、時折きらめくプラスティックや紙の断片の外は、ただ赤黒く染まり切って渦うず巻いている世界を。
 「飯食った?」と聞くと
 「出ようとしたらこの嵐で」
 「アプリコット買ってきたよ。」
それに敦煌で買ったナン(丸い円盤状のパン)の残りとレーズンの残りと緑茶で会食した。
 「あの路上出稼ぎ労働者はこの中で寝るんだよね。」
 熱いシャワーを浴びた後も何かサッパリしない僕がボソッと言ったら、寝ている間に咳も収まり元気回復したK君は静かに僕を見返すばかりだった。その金属線の眼鏡の向こうの目は(もうその件は片づいたでしょう。)と言っている。そこでハッと思い出したのは、昨日だったか、僕が再び出稼ぎ労働者の件をブリ返した時の彼の返答だ。
 「僕も出稼ぎ労働者さ。知的レベルだけどね。来月故郷に一度戻るけど、韓国は今不景気だからまた中国で働くことになる。それに君だって暇さえあれば書いているじゃないか。外国で労働していることには変わりがない。ただ彼らとフィールとが違うってだけさ。彼らはタフだ。一家の大黒柱だ。心配するなって。」
 そう僕が気づくとK君は「そうだ、ホテルの一階にミニ・スーパーがあったっけ。」とインスタント・ラーメンを買ってきた。砂を吸い込んできた臓腑に、その熱い汁と滑らかな面めんが心地良かった。
 砂嵐は夜遅く、ピタッと止んだ。
 

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2005年6月21日 中国青海省ゴルムド
 
 昨夜は砂嵐の止んだ後の静けさに返って睡れず、分裂病気味の思考が次々と交差した。
 ここの砂嵐は岩場や小石混じりの砂地だからあの程度で収まるのだろうが、ゴビ砂漠やタクラマカン砂漠みたいに細かい砂地に起こる砂嵐にはすさまじいものがある。砂に埋もれた遺跡を発掘するとシルク・ロード貿易で栄えたオアシスの住民全員が、ある日突然慌てふためいて逃げ出した形跡が発見されるという。風があの高層ビル以上の高さのある砂丘を動かし、アッという間に街を飲み込んでしまったのだ。洪水や津波のような水の勢いもすさまじいが、風もそれに劣らずすさまじい。その上に風は、どこにでも吹く。結局、自然の力にはどうもがいてもかなわないということだ。
 そこからまた出稼ぎ労働者について思いが戻った。彼等が砂漠化や異常気象で農地や家畜を失った元農民や元遊牧民だとしたら、世界的な工業化や消費文明に責任があるってことだ。日本はその流れを強力に押し進めてきた国のひとつだし、僕も日本人として加担してきた罪がある。前の戦争にダブってくる苦い思いだ。
 中国は今必死で植林をしている。自動車道と鉄道の脇には、執拗に若いポプラが居並び、中国統一の動脈が砂に埋もれるのを防いでいる。木の育たない全くの砂地にはブロック塀を建てたり、ネットを張っている。かってオンドルに使ったという極端な乾燥地にも生える強靱な雑草(アメリカの西部映画に出てくる風に転がる奴だ)は採取を禁止された。今回敦煌に来る途中で見たが、小雨季にその雑草は一勢に広がり、中には藪のように巨大に育ったのもある。その代わりに練炭を使うから、酸性雨は増えるだろうが。
 テレビ番組や新聞報道で唯一進歩的な特集は環境問題に関してのものだ。それによると、モンゴル等では広大な地域に背の高い強靱な草を植え、それを刈り取ったのをパルプ原料として買い取り、住民の生活の足しともなっている。裸となった山間部では、大規模な果樹園が政府の支援で行なわれ、日本を含めた外国のボランティア団体も植樹プロジェクトを推めている。だが砂漠化は進行し耕地を飲み、中国は穀物を輸入しなければならない。それも、カナダの年間生産量ほどの量を。もっとも穀物輸入が増加したのは、厳しい1人っ子政策にもかかわらず、人口は確実に増えていることと(農村部では近年2人まで認められ、少数民族も、その人口に反比例して子供の数を2人から何人までも生める。また黒子と呼ばれる未登録の人口が、少なくても二千万人、一説には一億人存在する。)それに加えて、かって菜食主義者に近かった中国人大衆の食肉消費量が急増したからでもあるが。
 そして出稼ぎ労働者がアパートや工場や道路建設のために農地を失った元農民ならば、それは経済のグローバリゼーションに原因がある。中国に外国資本が流れ込むのは、彼らのような農民戸籍の出稼ぎ労働者の賃金が安いからだ。求人広告欄を読んでみると、農民戸籍者は都市戸籍の者や教育を受けた者と比べると、少なくとも3倍の隔差がある。そして農民戸籍から都市戸籍に転換するには、長年低賃金で勤め続けるか、都市に家を買うか、投資しなければならないというハードルがある。だから不法労働する者が後を絶たない。そして仕事のある場所から場所へと転々とする。彼らはかなりの過酷な人生を強いられている。その流民化した集団の恨念が、いつ爆発するか、あるいはその前に中国経済が外資より独立して戸籍差別を撤廃するかが、これからの中国社会の山場となるような気がする。アッ、それと、一人っ子政策の落とし子である老人社会が、40年後に突然やって来る。世界中で加速する精神の荒廃、自然環境の臨界点も、その頃ピークに達するだろう。それまでに人類の叡智が総括されて事に当たれるだろうか。殆どの大人はお構いなしだ。だが、その時代の大津波をモロに受ける若者や子供達は敏感だ。彼らに伝えるべきは伝えなければ。
 結局突まる所、「僕は一体何をしているのか」という原点に戻ってくる。日本と中国の政府間でかなりの敵対状態が起こりそうな気がして中国に来た。反日キャンペーンの中でもなんとか交流できる人にも会った。これから友人関係へと発展させたいと思う。だがそのほぼ全員が、海岸部や北京等の都市部の管理職だったりビジネスマンやら学生とアーティストだ。言語の問題もあるのだが、出稼ぎ労働者や農民とはすれ違いか、場合によっては直感的に避けられている。僕はまだ中国の影の部分に踏み込んでいない。ただ旅をして物を書く行為などは、彼等にとって遊び人でしかない。そして物をかなり書いて送っても、なにせまだタイプが打てない身だから、ホームページの制作者がその早書きした原稿の汚い文字と量に音を上げて、最初の数通しか公開していない。ただ僕自身の考えをまとめることと、63才の脳をはたかせてボケ防止をしている程度の物書きに過ぎないと思いこむまで気落ちすることもある。
 ちょっとどこかに数日でも住み着くと、このやるせない思いが必ず襲ってくる。その思いから逃げるみたいに次の、まったく訪れたことのない場所へと移動する。だが、その場に飽きると同じ思いが甦ってくる。そこで再び移動することを繰り返しているに過ぎないのだが、考え用によっては、人類はその歴史(50万年?)の全んどをこんな不安な根無し草みたいに漂ってきた訳だ。農耕や遊牧生活のレキュラー・ルーティンに入ったのはこの1万年ほどの間でしかない。ただ今の時代は食料を求める狩猟採集ではなく、実体験から得る現場のイメージを求めているという大きなギャップがある。しかし、本能的には移動していることには変わりない。そして、僕が心から尊敬する世界史上に残る旅人、玄奘才蔵、マルコ・ポーロ、イブン・バトゥータ、レビ・ストロースは、その時代の外国を旅して、旅行記を残し、その記録が、人類の大きな流れを理解するための道標として、今に到るまで人々に貢献している。僕もささやかながらもお役に立ちたいと「外国人の体験する世界」を記録している。これは僕自身の鎖国的精神構造を解き放つ道でもある。
 

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2005年6月22日 中国青海省コルムド
 
 乱れに乱れる思いに悩まされ、睡り込んだのは夜中も大きく過ぎた頃だったのだろう。目覚めはやけに遅かった。K君はもう起きて、ベットの上から外を眺めている。30才の若さだ、回復は早かった。旅の行方を占っているのが、窓側のベットの上の後ろからも見てとれる。互いの第一印象はかなり悪かったが、3日も部屋をシェアーすれば互いの性格やライフ・スタイルが判ってくる。互いの差を許容しながら、日常をやりくりするようになる。そしていつのまにか一部は解け合っていて、以心伝心しているのだ。
 中国旅行4ヶ月間に、貴州省の田舎町で家に招いてくれて筆談をしてから、将棋観戦に付き合った70代の老人を皮切りに、雲南省では中国系アメリカ人と2週間、それから韓国人の学生と数日間部屋をシェアーし、四川省では列車の寝台対面の上海ビジネスマンと睡りに着くまで話込み、成都ではチベット民族の住む山岳地帯をトレッキングしてきた北京からの豪快な山男と同室、そのドーミトリーには存在感まったくない香港からの中国人も入ってきた。(彼、株で失敗したんじゃないかな?香港では株価が下がると人がビルから落ちてくる、といっていた。代わりに彼はその細く短かいインテリの身体で山登りに来た。)西安では中国系マレーシア人とその韓国人妻のラジニシ信者と夜遅くまで話込み、北京では真夜中の天安門であった広東のビジネスマンが長い間宿探しに歩いて付き合ってくれ、カザフスタンの首都マルマティに行く相乗りタクシーでは、雲南省のビジネスマンと話続け、彼はその後僕のトラベラーチェックが換金できないときに、僕を車に乗せて特定の銀行を探し当ててくれた、というように、中国人や韓国人との印象に残る出会いが続いた。
 貴州省の老人の他の全員が英語を普通にこなすインテリの実力者で、30代から40代にかけての人物ではあったけど、イトーヨーカ堂や吉野屋が襲撃され、テレビや新聞の排日キャンペーンの最盛期に、それとは全くお構いなしに、人間同志、隣人同志としてごく自然に付き合ってくれた。世界中の人種で日本人と最もウマの合うのは、朝鮮半島と中国海岸部とそれに近い内陸の北京や南京等の都会の人種だ。血も文化も混じっているし、何よりも互いの距離が近いことによるのだろう。そして知識層に関しては、日本人のそれと同じ時代の水準に乗っている。
 唯一僕に対して反感を露き出しとした知識人は、新彊ウィグル自治区のトルファンでミニバスに同乗した中国系オーストラリア人だった。
 「日本人は個人としてはまあまあだが、国家主義が体制を占めると豹変する。」と言って隣席の身体を固くしたままだった。彼はマレーシアからの再移民だというから、ルーツを喪失した反動もあるのかもしれない。日本が西欧化する課程でルーツを失い、異人種を軽蔑したり憎しむことで自分のアイデンティティーを得たように。一般に華僑の方が本国の者より反日感情は強いようだ。彼の連れの中国系オーストラリア人の女性は、「日本に旅行して素晴らしく親切な人に会った。」と次々と地名を言っては出来事を物語ったのに。
 その他にも反感と言うほどではないが、新彊のイリ市のインターネット・バーで、そこの30前後のマネージャーが「祖父が南京で日本人に殺され、父より日本人は悪い奴だと言い聞かされてきた。」と休息室のテーブルの前に坐り込み、2人して話続けたこともあった。その話の過程で、彼のわだかまりと僕の中のわだかまりが少しは溶けたように感じたのだが。
 
  「外は雨だよ。」僕が起きたことに気づいたK君がボソリといった。少し開け放された窓の向こうには、暗くシトシトとした細かい水滴が落ち続けている。風流にも彼はずっとその砂漠の雨を眺めていたようだ。
 「腹が減った。昨日は大したものを食べていないし。近くで朝飯などどうですか。」と言われるままに外に出た。2人して傘もささずに広い歩道を歩いた。若いポプラの葉が小雨に洗われている。路面は早朝一勢に大きなホーキをもって出勤する赤チョッキを着たおばさん達がきれいに掃き清めた後のようだった。昨日の砂嵐に散乱したゴミの後片もない。
 この雨は、ヒマラヤをようやく超えた数少ない雲のもたらしたものだ。チベットにも雨季がある。その唯一うるおう季節に入った。多分昨日の砂嵐は、その予告だったのだろう。人も街もシットリと落ち着き、貴い水の恵みを受けている。傘をさす者は見当たらない。
 たっぷりとした朝食をゆったりと食べてからも、外の雨をただ眺め続けていた。
 ようやくK君が口を開いた。
 「昨日の嵐に今日の雨。道はぬかるんでるだろうな。ラサに行った友人は、途中打ち捨てられた事故車がゴロゴロしていたとメイルしてきた。例のバスなら35時間のところを16時間で素っ飛ばす、パーミット代の要らない安いカミカゼ小型車がほとんどだそうだ。それに最も伝統的なチベット文化は、四川省の山岳部だけに残っているという。だから僕はここからシニン(西寧)に列車で向かい、その後バスで四川省のチベット人村を訪れながら成都に向かうことにした。」
 「僕もここに3日居たけれど、充分高度に順応していない。この先の標高5000メートルは無理だと判った。僕はシニンの手前にある中国最大の湖、青海湖の渡り鳥の集まる島、バード・アイランドに行くよ。今がシーズンなんだ。塩湖だから海鳥が、空が黒くなるほどのね。ただ、どの駅で降りるかはまだ知らないが。それから中国最初の核弾頭を開発した海の街が、もう使われていない施設を一般公開しているというから、見学するつもりだ。」
 「それなら僕がどの駅で下車するのか聞いてやろう。どっち道同じ方向に行くんだし。」
 駅まで歩いた。待合室はフトンの包みを抱えたゴツい出稼ぎ労働者と、その一部分に見事に華やかな色を咲かせたマッサージ・パーラーの女子従業員で満杯だった。K君はバード・アイランドの下車駅を案内所で聞き出すと、「面白そうだから僕も行くよ。どうせ途中だし。」と、2人して同じ寝台車の切符を買うこととなった。
 
 駅から出ると雨はあがり、代わりに柔らかな陽射しが世界を浮き上がらせていた。空は濃く青い。まるで昼でも星が見えそうな、宇宙に抜ける深みのある青に染まり切っている。ラマ教のタンカの図柄の背景にある空と雲を思い出した。
 宿に戻りチェック・アウトを済まし、荷はレセプションに預けたまま、夕方の列車までのたっぷり余った時間を、2人して歩き、飲み食いし、ダベリ、メイルを打ったりして過ごした。2人並んで歩道を歩いても、向こう側からくる2・3人の歩行者と、互いの横列を乱さなくともそのまますれ違えるほど中国の新興都市の歩道は広い。大陸人みたいな気分で、僕達は歩き続けた。その車道側の、これまた広い自転車道には銀輪が魚のように流れ続けていた。僕達はそのひとこまひとこまに、これからの旅を占った。僕達の頭上には、常にポプラの若葉が輝いていた。          
(完)

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