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歩く  モノローグ

05年9月 カンボジャ
澤村浩行
1 ジャヤヴァルマン7世
バイヨン塔を中心とした全景 
 広大なアンコール遺跡地帯の中心部を歩いて巡る2つのコースがある。大回り外側一周コースの方は10キロ余り。途中の巨大遺跡内部の旅も含めれば20キロは軽く越える。でも(コース出発点のアンコールトムに早朝自転車で到着すればこなせるだろう。)と例のごとく朝市の人声ワイワイ立った直後「レッツ ゴー」の掛け声かけて宿を出る若い旅人達の勢いに飛び起きた。それが、今朝の4時半だった。そして近くの貸自転車からサドルに跨がったのだが(いけねえ)昨日のサイクリングの帰路、闇夜の密林を抜く道に迷って宿に戻ったのは夜中過ぎ、その疲れと睡眠不足がたたっている。午前五時半に開門するシェムリアップ市郊外の入場券チック・ポイントまでは彼等の後に附いて行けたが、開門するや落ちこぼれた。アンコールトムまでの23キロはトロトロ道の左端を見つめるだけの夢遊状態の上に途中で陽は樹冠を越えた。今日もモンスーン最盛期にヒョッコリ出現した蒸れて暑い日だった。だからもう、ウォーキング・コース出発点の南門に駐輪した時には既にクタクタのグチョグチョだ。
 それでもアンコールトムの城壁内で特に異色な存在を聳えさせるバイヨンの塔を目指して歩き始めた。折しも横なぐりの陽光に、その複雑極まる巨大な塔の各所に据え着けられた巨大な顔面像が刻々と表情を変えている。バイヨンの石門をくぐったとたんの正面に急勾配の石段が頂上まで直登しているが、そこには手すりが附いていない。ねぼけ眼で見上げると、あの世みたいに高い。頂上では登頂に成功したカンボジャ人中産階級らしい格好の少年が豆粒大の小人に見える。各々両手を振り上げ、下でハラハラと答える母親たちに歓声を送っている。その幼い度胸に僕は降参した。(今日のようなロートル状態では、バイヨンに落下死す、になりかねない。)僕は階段を諦めその大きな塔の礎を一周する、レリーフの刻まれた石壁に沿った回廊へと歩みを転じた。
 ところがそれは遺跡中で最も人気のあるホット・スポットなのだ。次々と団体客が流れガイドが世界中の言葉を駆馳して声を張りあげている。確かにその躍動感に溢れる流麗なタッチ、写真でも表わせないほどのリアルな描写は、人類の遺した最高級のレリーフと言える。普段アートに縁のない人にとっても、その朝日を受けて陰影濃くしたレリーフには衝撃を受けるのだろう、唖然とした表情のあらゆる人種が行進している。しかもそのレリーフの光景は端から端まで、実際に起こった戦争の場面なのだ。弓矢、槍、刃を持った歩兵集団が巨象に乗った王と共に進撃するや敵を次々と殺戮して行く。中には互いに船団を組んで撃突しているメコン河上の戦闘もある。勿論一方的に殺しまくるのはアンコール王朝を建てたクメール人だ。敵ははるばる現ベトナム中部海岸地帯のフエに、貿易と海賊行為で17世紀末まで栄えたチャンパ王国から遠征し、数年に渡ってアンコールを占領したマレー・インド系のチャム人だ。歴史は勝者によって語られるという典型的な見本のひとつでもある。
 それも人類史上最大の宗教建築アンコールワットを建立した9世紀末より280年間、揺るぎない栄華を極めたと思い込んでいた矢先に奇襲され占領された後のことだ。その憎っくき敵のチャム人に反撃して勝利した戦争だから、復讐に燃えたクメール王ジャヤヴァルマン7世の戦闘場面は特に残忍窮まりない。(これが首都プノンペン市の博物館で見て釘づけになるまで感動した、深い瞑想状態で坐る半裸石像と同じ人物なのか。)とその極端な差に幻惑されたが、あの像は彼が王国を再建し、建寺王と称されるほどの多くの寺を建て、インドシナ半島の大部分を支配してから、道路網と宿泊施設と病院を張りめぐらしたアンコール王朝最盛期に作られたものなのだろう。インドを始めて統一したアショカ王も同じ人生を辿った。そして彼等の王国は彼等の死後ただ瓦解の道を転げ落ちて行くばかりだった。あの深い瞑想に浸るジャヤヴァルマン7世は、その運命を予知したものだったのかも知れない。
 団体客に紛れて歩いている内に、壁のレリーフばかりか、ガイドに従う一行が殺気に満ちているのを感じてきた。耐えられずに少し離れた石に坐って眺めると、彼等が戦争のプログラムのままに行軍する軍隊の進軍、手にしたカメラは武器に見えてくる。(この人たちも一生戦う人生を送っている。僕は彼等のように組織立った戦闘行為はしなかったが、戦ってきた。人を傷つけ自然を痛めつけてきた。)
 戦うことが人間の、そしてその一員たる自分の本性なのか、と急に虚しくなった時だった。睡眠不足と疲労の貯まった後頭部に突然4トン爆弾が命中して爆発したみたいな衝撃が走った。どうやら強烈にそこを照射した、いつの間にか真昼の高さに駆け登った熱帯の陽光に脳味噌が沸騰点を越えたらしい。しばらく世界は真っ白に散った。(ヤバイ。今朝宿を出る時ボーとしていて帽子を忘れてきた。これは典型的な日射病だ。)ともかく冷やさなくてはと身近な陰に移ったのは良いが、今度は世界が真っ赤になった。壁のレリーフの兵士群が血まみれに見える。観光客の群れがその血を浴びて行進する。ガイドは軍隊の指揮官みたいに「殺せ。もっと殺せ。」と怒鳴り散らしているみたいだ。その内に壁のレリーフに刻まれた敵兵が断末魔の悲鳴をあげてきた。既に死に絶えている者の他は全員が、まぶしいばかりに発狂した戦闘体形をとって僕に迫ってくる。
 かろうじて最後の理性が狂気を抑え、自分が幻覚症状を起こしているのだと診断した。(ともかく熱を冷まさなければ。もっと冷えた所に、もっと暗い所に移ろう。それはバイヨンの石の胎内にしかない。)
 よくぞここまで複雑に、と誰もが驚き中に入るのを怖れさえするバイヨンの塔の内側の、石に囲まれた回廊に入った。どのように設計したのか、頭上には細長い空気窓のような穴が通路に沿って明るく走っているから、適度な光が足元に差し込んでいる。曲がりくねる石の回廊の両側には小さな部屋が続き、中には明らかにかっての祭壇、ヨグニとリンガム(円盤状の石の女陰の象徴ヨグニの中央に頭部の丸まった円筒状の石の男根の象徴リンガムが立つ。ヒンドゥー教の宇宙観を表わす。)が据えられた部屋もある。そしてその複雑な廊下にも部屋の間にも、レッキとした下水設備が通っている。これは半端な文明ではない。

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2 クメール
アンコールトムの門前にあるヒンドゥー神話
陸と海、光と闇、正と邪の綱引きをする偶像
 
 たぶんクメール人は、かって彼等の大地を覆い尽くしていた原始林を刈り払い灌漑設備を整備して厖大な水田地帯を創出した跡に、原始林を石化した。それがアンコールの建築群のように僕には思える。寺の中心に立つ塔はインドのヒンドゥー教寺院と同様に究極の聖地チベット高原に、地球のリンガムのように聳えるカンラシュ山(須弥山)を模した物と言われるが、のっぺらなインド様式とは違い複雑に飾り立てられている。それは太古から生き延び聳え立つ巨大な仙人のような熱帯林の古木を思わせる。塔の内部の入り組んだ通路や部屋は、原生林の樹冠の下の太い幹と根っ子を重ねた暗く無気味な空間に見える。クメール人は原始への勝利の記念碑として寺を建てただけではないように僕は思う。たぶんそれは自然を破壊した罪の償いとしての墓標の意味も込めている。この贖罪の意識は、自然にほぼ手をつけづい共存した同族のオーストラリア・アボリジニのドリーム・タイム神話との繋がり想わせる。
 しかし建築と水田造営のためにした森林破壊の代償は大きかった。剥き出しの大地を打つモンスーンの豪雨に流出した表土が運河に堆積して、国力の基盤であった水田と通運機能を退化させた。カンボジャ人は東南アジアで最も労働意欲の乏しい人種だと言われているが、かってあれだけ働き戦い一大王国を作り上げたというのに、その過剰な労働と従軍が大地と人間自身の疲弊を招いたことを身を持って体験した結果(もがくのは止めた。)となったのではないだろうか。
 ようやく人影のない石の通路の奥の暗い一隅に横たわり、その石にヒンヤリとした冷気の中で煮えたぎっていた脳を落ち着かせていた時だった。どこからか声明を唱えているらしい男の声が石面を伝い届いてきた。その旋律には昨年春まで一年余り旅をした、南インドの寺を思い出させられた。あの石作りの暗い寺の内部に響いていた声明と余りにも似かよつている。(これが幻覚の後に来る幻聴だとしても、なんと癒される声なのだろう。)それは時には囁くように、時には朗々と誇り高く、除々に落着きを取り戻している僕の肉体の細胞に染み入ってきた。(例え旅の行き着いた果てが、バイヨンの石室に死す、であっても、この声明を聴きながらだったら本望だ。)とまで拡大解釈した僕は、清流に運ばれる一枚の緑の葉のように声明の流れに身を任せた。
 そのお陰か間もなく僕は日射病より立ち直った。光と熱にヒューズの飛んだ細胞も元に収まったし、幻覚と幻聴の兆しもない。だが声明は続いている。(これは確かに儀式が行なわれている。)と旅人の本能である好奇心に突き動かされて、僕は声明の源泉へと石の廊下を曲がり石段を上下して歩き続けた。線香の匂いの後に小さな火、そして一段と高い石室に4、5人のカンボジャ人の坐る敬虔な後ろ姿が見えた。その向こう正面には白いドティ(腰巻)を巻いた半裸の男が対面している。そのヒンドゥー教の司祭者ブラマンそっくりの40才代半ばほどの男が、声明を唱えているのだった。(バイヨンに祈りが生きている。)僕は嬉しくなった。だが声明を唱えながらもその一見ジャヤヴァルマンク7世の瞑想状態の石像にも見えるブラマンは僕を睨みつけた。(ここは聖なる儀式の場だ。おまえは外をほっつき廻る身分だろ。)と。
 インドでも体験したヒンドゥー・オンリーの鉄則もここに生きていた。だからヒンドゥーは根強いのだ。父親がヒンドゥーでなかったら誰もヒンドゥーにはなれない、という戒律は遺伝子さえも見抜くブラマンによって守られている。かろうじて世界に心を開いた偉大なグルだけはタブーを越えて受け入れてくれるが、8億人のヒンドゥー教とから見たらほんの一部に過ぎない。いつの間にか8年間ほど旅したこととなるインドで僕は、宗教を規範とする民族の掟を骨身に染みて味わった。その排他性ゆえに(自己を抑圧し他者に暴力を加えない。)というインド民族の伝統が維持されていることも事実なのだ。だから僕は、ブラマンの眼光を受けるやいなや背を向けよこの廊下にそれた。それでも届く声明の見事な響きに感謝しながら。
 外は昼下がりの強力な熱と光に支配されていた。最早人影も消え、密林も緑の化石のように押し黙っている。(結局僕は、この偉大な文明に紛れ込んだ野蛮な未開人に過ぎないのだ。)との思いに駆られて、密林の間に大きく刈り払われた草地を貫くアンコールトム一周外廻りコースをやみくもに歩き続けた。途中の遺跡前に居並ぶ土産物や飲食店の屋台も(結局君達は僕を金を持っているだけが取り得の野蛮人だと思ってるのだろう。)と拗すねて通り抜け、遺跡の中でも最も崩壊している部分に直行した。その監視員も目を光らせない暗くザラついた石壊の片隅にうずくまるだけの孤独な休息の度に甦るのが、バイヨンの壁のレリーフに見た生々しい戦争の場面だった。(人間の本性は悲情なものだ。自分のため、家族、一族、民族、国家、宗教、思想のために他のあらゆる存在を犠牲としてのし上がっても、残されるのはアンコールと同じ遺跡だけではないのか)との思いが増々強くなって行った。

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← この穴でポルポト派内のパージで処刑された身体の首ない骨が大量に見つかった。
↓ プノンペン市郊外の田園地帯にあるキリング、フィールド、チョウエンゴック、弾丸を節約するために囚人は目隠しされて撲殺された。
  
 
 
3 トゥルスレングP21
 
 2回目の日射病発作は、10余キロを歩き通し、バイヨンも間近となった地点で起こった。陽もかなり斜めに傾いていたが強度は衰えることなく、返ってその角度が後頭部を直撃する破目となったのだ。クラクラしたので急いで近くの小さな遺跡に入った。石室が一つだけ残り他は石柱だけの、監視員も屋台も不在の忘れ去られたみたいな遺跡だった。その風化し切った末の、固い結晶だけがザラザラと表面にしがみ着いている砂岩の石室に転げ込むと、ガックリ開いた穴から外の刈り払われた草地とその向こうに聳える密林が、その日最後の強烈な西日の光線に耐えているのを見つめていた。だが僕は耐え切れなかった。発作を押さえ込めなかった。広大なアンコール地域の放浪3日目の貯まり切った熱と光と疲労と睡眠不足はついに限界を越えたのだ。
 まず、外に広がる刈り払われた草地が白い閃光を放って飛び散った。そこを支配していた眩しいばかりの熱気が無に帰した。世界は真空状態の闇と化し、もう熱くも寒くもない。何も見えず、聞こえず、匂わず、あらゆる感触がない。それでも僕は最後の意識の片鱗で(これは一時的な神経分断症状に過ぎない。この石室で頭が冷えれば世界は必ず戻る)と草地の方向に目を開け続けて回復の兆しを待った。
 そして徐々に闇の中心部が灰色に明るんできた。それは誰かが立ち笑いかけている姿に見える。輪郭がしっかりすると、それはカンボジャを知る者が一度見たら忘れることのできない、恰幅の良い壮年の男だった。残されたあらゆる写真と同じの、ゆとりたっぷりの笑いを浮かべて悠然と立つ、あの男ポルポトだった。それは幻覚と呼ぶには余りにも肉感的に迫ってくる、今生きているポルポトだった。
 ポルポトはこう僕に笑いかけていた。(ジャヤヴァルマン7世だけでなく、私の遺跡も忘れるのではない。)と。それからはホラー・ムーヴィーだ。記憶から払い去りたかった情景が、その押さえつけられていた反動の勢いを駆ったかのように次々と飛び出してくる。
 
 トゥルスレングP21。首都プノンペン市の閑静な住宅街に、虐殺記念博物館として公開されている、クメール・ルージュ・ポルポト派が政治犯を収容した二階建の元学校校舎。その5メートルはある2重の塀の間には重複して張りめぐらされた、かっては高圧電流の流れていた鉄条網。さびても怨念生々しい頑強な鉄の足かせ。1万5千人の政治犯の内奇跡的に生還した7人の一人が描いた身の毛もよだつ拷問方法の数々。そして何よりも耐え難く忘れ去ることのできないのは、構内のパネルにえんえんと貼られた政治犯の上半身写真だ。
 逮捕された時に後ろ手に縛られたままで撮影された写真には、当然それまでアメリカの援助によって権力を握っていた右派ロンノル政権の高官や軍人も含まれているが、殆どは人格優れて尊敬されていたに違いない表情をしている教師、ジャーナリスト、僧侶、医者、技術者、企業家等の一般社会指導者と知識人(眼鏡をかけていただけでも知識人と見なされ逮捕された。)、そして自動的に粛正の対象となった異民族の、中国人、ベトナム人、チャム人、インド人、とその妻子達だ。観念した人、最後まで誇りある表情を見せる人、逮捕されたことを信じられずに当惑している人、悲嘆に暮れる主婦、恐怖に引きつった子供達。その余たな写真の表情が闇夜に廻る走馬燈のように甦ってくる。拷問、処刑、餓死、病死を目前とした人間の最期の表情。彼らは、特別に訓練された少年兵の中より特に冷酷であったので選ばれた看守によって24時間虐待された。トゥルスレングP21だけでも看守の数は1500人にも達した。同様の施設が各都市に設けられた。
 ただ政敵となる可能性があるというだけで逮捕され、その無念の内に殺された人々の表情がかけめぐる。そのあまたな人間の思いが、プノンペン市郊外ののどかな田園風景の中に公開された、今だに白骨散り死臭漂うキリング・フィールド、チョウエンゴックで突き動かされた(人間ここまでやるか。)という絶望感に増幅された。僕は発狂状態となった。
 そしてたぶん声にはならない絶叫をあげていた。(僕は貴方達のことを忘れません。内戦と粛正によってカンボジャ人の5人に1人が犠牲となったことを。その200万人以上の人々の無念さを。それが30年ほど前に起こったことを。貴方達の犠牲を無駄にはしません。)と。それは心の奥に閉じこめられていた僕の感情の爆発、生への衝動であったのかも知れない。
 
 瞬間的だった。その叫びが闇を切り裂いたかのように世界が、光が形が色が匂いが熱気が戻った。同時に僕はその有形の存在の背後に潜む、死霊とも言うべき存在を信じていた。絶叫した約束は守らなければならないと。少なくとも、人間のしたおぞましい行為の原因と経過と結果を自分なりに突き止めて語り書いて伝えなければと。同様の行為が自分の内側や世界のいずこかで起こりかけたら、白日の下に晒して繰り返させないようにすることを彼等に約束したのだった。それから僕は、自身を覆い隠していた一枚の膜から脱け出たみたいな生身の身体を、ゆっくりとバイヨンに向けて漂わせていた。陽は既に樹冠の真上にまで傾いていた。
 
 トゥレスレングP21政治収容所
↓ 独房の鉄の足かせ         廊下、右は30人ほどが一本の鉄かせに繋がれていた集団房 ↓  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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4 ヒストリー
 
 (やはりアンコールは生きている霊場なのだ。本来は古代の巡礼みたいな気分となってメルヘンの一日を過ごそうとしていたのだけれども、結局は自分の業、人間の業を辿り問い詰める旅となっている。そして昔からの巡礼路を歩くということは、人間が自身の内側深くに封印していたものが次々と外に放り出される、ということなのだろう。一歩一歩が気づきの過程となる。生きている人間の心の奥深くに続く死者への道をあからさまに辿ることとなる。)
 昨年春まで1年間ほど南インドのタミル・ナドゥ州内陸部に聳えるヒンドゥー教シヴァ派の聖地アルナチャラ山の麓を一周する、14キロの巡礼路をひんぱんに歩き廻った。アルナチャラ山は、かってオーストラリアあたりより流れ着いたゴンドナワ大陸の時代より一度も海に没したことのない古い地層の核心が、リンガムのように天に突き出した聖山だ。それを仰ぎながら歩き続けていると、突然に泣き突然に笑い、いつの間にか僕は私小説的な回顧から人間の辿ってきた途方もないドラマの時を辿り、結局は陽、月、星、森、草原、岩、川、池、風、雲、そしてそこに生きる存在とそれらを継なぐ道の一部と化していた。あの旅を通じて、(子供には会わないで。)とまで厳しく三下り半を突きつけられた熟年離婚の深い原因と過程と、自然のままの古い巡礼路を歩くという結果が一巡した。気づけば、もうごまかしは効かない。徹底して自己と対面して脱皮するしかない。全ては人間の業という公案に到達する。
 そしてこのアンコールは、人類最古の農耕文明が発生したのではないかと言われているインドシナ半島内陸部にある。青銅器文明さえも中国より500年以前に栄えたことが実証されているという、言わば人類の業の歴史的聖地なのだ。農耕文明は富を蓄積し、それを守るためと更なる富を求めて軍隊を誕生させた。青銅器文明は武器を格段に破壊的として大量殺戮の時代への道を開いた。アンコール王朝がここに栄えたことも、ポルポトがここに出現したことも偶然ではない。貯まり切った民族の業でもあるエルネギーが一気に噴出したとしか言いようのない必然性がある。
 アンコール王朝は、二つの民族を基として成立した。インドをアーリア人に追われたり、海のシルクロードにカンボジャ産の森林産品や香料を中国、インド、果てはローマ帝国まで流通させたインド先住民ドラヴィダ系民族が、メコンデルタに定着して、紀元1世紀に建国したフーナン王国の優れた灌漑技術と通商能力が、現ラオス南部より南下した屈強なオーストラリア・アボリジニ系クメール民族の戦闘能力と、7世紀に合体して力を貯えた結果だ。その上に現インドネシアのジャワ島に巨大なボロブドール仏教建築群を建立した、やはりドラヴィダ系移民と原住民のマレー系民族が合体したシャイレンドラ王朝に学んだ、クメール人貴族ジャヤヴァルマン2世が9世紀に帰国するや、ジャワとの関係を絶つ儀式を行ない創立したのがアンコール王朝だ。メコン河、シャム湾、インド洋南太平洋を舞台とした壮大な民族間の業の物語を源泉として、その時以来550年間存続し続けた。
 片やポルポトは、その転落の末に現われた必然的な結果とも言える。栄光の王城アンコールが15世紀にかっての属国シャム(現タイ)に占領され、18世紀半ばにはフエ王朝(現ベトナム)にメコンデルタを割譲するという両国の属国となり果て、活路を求めて日本の明治維新とほぼ同時の1887年フランスの植民地下に入りアンコール地方は取り戻して貰ったが、経済開発はベトナム人と中国人に独占され、植民地時代を通じて高等教育も導入されないという旧態依然とたる王権と仏教のみに依存し続け、ベトナムと違って反乱も一度として起こさないまま、1953年にシアヌーク国王の活躍によって独立、国王独裁、経済破綻、そして1970年右派ロンノル将軍によるクーデターはアメリカ軍と南ベトナム軍のカンボジャ侵入を招き、それ以前の1969年より1973年まで、カンボジャの東半分を幾重にも南下するベトコン補給のためのホーチミンルートへのB52空爆で国土は破壊され、25万人の村人が死亡するという、屈辱の歴史の業が貯まりに貯まった後に、爆発したクメール民族の恩念そのものと言える。

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5 ポルポト
 
  謎の男ポルポト。何度も名を変え、何度も行く方をくらました末の1975年、首都プノンペンに内戦の勝者として入城したクメール・ルージュ・ポルポト派のブラザー・ナンバー・ワンとして突然に出現した。当初市民はその軍律厳しく守る少年兵を主とする共産軍を、アメリカ軍、南ベトナム軍、北ベトナム軍、ベトコンも加わった6つどもえの内戦の終了と歓迎した。それに、それまでのロンノル軍首脳は、存在もしない20万人もの兵士の給料をアメリカに報告して着服するほど腐敗し、その部下も同類の傭兵だった。だが、ポルポト派入城一週間後に市民は全員、地方の強制労働キャンプに送られ、その過酷な行進に、子供や老人や弱者は死亡、キャンプでの灌漑工事や農作業中にも栄養不足と過労から更なる犠牲が続出した。政治犯収容所と処刑場の他全ての都市は無人化された。通貨も市場も郵便制度も廃止、労農とポルポト派政治教育以外の学校は禁止、宗教活動も止めさせた。
 外国との交通は2週間に1便、北京直行便が飛ぶのみで、その支配した3年8ヶ月21日間(カンボジャ人は今だにその数字をよく憶えている。)カンボジャの内情は闇に包まれた。唯一たまに訪れた東欧共産圏のジャーナリストがポルポト派首脳との会見を伝えただけだ。その報告によると、他の幹部がキリキリしている中で、ポルポトだけが悠然とした笑みを絶やさずソフトに革命の理想を語り深い感銘を受けたとある。
 そして国家主席としての写真が出回ると、革命に身を投じるまでの彼を知る者の口から出生の一部が判った。カンボジャ中北部の街の中産階級上流階級に生まれ育ち、一族からは王室のアプサラ舞踊団(神と継なぐ踊り子)内の激しい女性の競争に勝ち抜いて国王の側室となった女性も2人輩出している。青年期に奨学金を得てパリに留学、当時共産主義のメッカであったその地で革命家となる決意をして帰国すると、首都でフランス語系学校の教師をしながら地下活動をした。当時の生徒は口々に、魅力ある充実した授業だったと述懐している。そして逮捕が迫ると密林に消え、それからは1966年中国の文化大革命発生時に林彪と並んで紅衛兵の行進を観兵しているのと、その直後北朝鮮を訪れていることだけが確認された。彼が全権を握った1975年からの4年間は、中国の文化大革命が終息した時期に当たっている。
 1979年、ベトナム軍がプノンペンを占領した折、トゥルスレングP21政治犯収容所に大量の囚人の写真と共に彼等の自白書が残されていた。自白書の多くはかってのポルポトの同志のものだった。スターリンと同じく、権力を掌握したポルポトはかっての同志が自分を裏切るというパラノイアに陥り、次々と拷問して、CIAの陰謀に加わったと自白させたのだが、その内容にはいかに彼等がポルポトと出逢い共に戦ったかの経過も記されていた。カンボジャ人の作家がそれを克明に辿り「ブラザー・ナンバー・ワン」という英語版を出版した。僕も身の毛のよだつ思いをしながら読み通した。
 それによると、かっての同志は一様に「始めてポルポトに会った時に彼の深い愛を感じさせる笑顔と柔らかな口調ながら情熱を込めて革命を語る姿に魅了され、この人だったらどこまでも附いて行く、と決断した。」と述べている。その後、彼等はカンボジャ東北部の密林地帯でゲリラ戦を目ざしたのだが、「農民は王と僧侶に洗脳され切っていて、その両方を否定する共産主義を敵視した。我々は四面楚歌、常に敵から逃げ廻っていた。ベトナムもホーチミンルートを利用するだけで何も助けてくれなかった。その間ポルポトはマラリアに何度もかかり死線をさ迷った。それはチェゲバラの最期と似ていた。状況はアメリカが北ベトナム、カンボジャ、ラオスへの北爆を始めると逆転した。大量の死者と難民が出ると農民は資本主義を憎み始めた。我々はその中から屈強な少年を選び思想教育、軍事教練をして、命令に絶対服従するゲリラ部隊を作ることができた。ベトナム統一後は中越戦争が起こり、反ベトナムとなった中国が援助をしてくれるようになって勝利した。」とも述べている。
 ちなみにポルポトはこの間のベトナムの冷淡さに対して、首都入城すると直ちにベトナムの援助をいっさい受け附けないと宣言している。そして人民公社と呼んだ強制労働キャンプで生産した米を中国製の武器とバーター取り引きをして軍備を整え、かってベトナムに割譲した領地奪回を試みたが、歴戦のベトナム軍にたちまちタイとの国境地帯の山岳部へと追いやられた。その最後の基地の廻りを埋め尽くしたのが専守防衛に最適の地雷で、その殆どは中国製だった。ベトナム軍も彼等が基地からゲリラ出撃をするのを防ぐため、シャム(タイ)湾からラオス国境まで連続するK5と呼ばれる地雷原を施設、ゲリラの隠れ家となる森林を刈り払った。ベトナム軍はそのソ連製の地雷をそのままとして、ソ連邦崩壊を受けた1991年に撤退したが、双方が施設した地雷総数は1000万個。その場所の記録はいっさい残っていない。
 内戦の犠牲者が200万人にまで膨れあがりタイ側の国境地帯に厖大な数の避難民が流入した主な原因は、双方の軍隊が敵に食料を渡さないために、収穫前の穀物を焼き払い田畑に地雷を埋めたため、人工的飢饉が続いたからだった。
 このようにポルポトは、アメリカ軍の空爆と撤退、ベトナム統一時の国内多忙、中国とソヴィトとの冷戦、更には中国とベトナムとの冷戦という、歴史の転換期に生じたパワー・ヴァキューム(権力の真空)に跳梁した。
 1996年ポルポト派の資金源であった宝石と高級木材地帯を司った腹心のイエン・サリがポルポトより忠節を疑われ政府に投降。1998年ポルポト死亡。死体は古タイヤの山に載せられ焼却された。同年末には腹心のキュー・サムファンとヌオン・チアが部下と共に投降した。投降したポルポト派幹部を政府はVIP級のレセプションで迎えた。1951年より続いたカンボジャ共産主義運動は幕を降ろした。ポルポト派幹部の虐殺をオランダのヘーグ国際裁判所で裁く件はカンボジャ国内でなされることとなった。
 だがクメール・ルージュは、1991年に返り咲いたシアヌーク国王がかってロンノルのクーデターでに追い立てられた時に、北京で創設したものだ。その連合の一員であるポルポト派がタイ国境に撤退してからも国王は共同戦線を張り、中国は一貫してポルポト派を支援した。西欧各国もベトナム軍のカンボジャ進駐に抗議してポルポト派を国連代表として認めていたこともあり、互いの秘密協定が暴露されるのを怖れているために、裁判はポルポト派幹部の死後形式的に行なわれるだろう、言うのが定説になっている。
 なお、現首相のフンセンはかってポルポト派の将校であったのが、パージを予知してベトナム軍と組みカンボジャに進撃して政権を掌握したと言われている。1992年より一年半ほど駐留した国連軍UNTACの御膳立てした制憲選挙の結果第二党に転落したが、1997年に第一党との武力衝突に勝利して政権を奪取。面子をつぶされた現代国による国際援助停止と観光収入の激減により公務員の給料も遅延するまで追いつめられると翌年に自称公正な選挙を実施して第一党となり以来首相を続けている。チェスの名手としても有名なフンセンは、世界の政治指導者の中で最も長く実権を保っている一人である。

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6 ウォーター
 それは遺跡地帯を囲む高さ10メートル前後の二次林の壁の向こうに陽が落ちる頃だった。地上は影ってはいても最後の陽光が空を下から照射して、上の世界をことさら高く広げていた。「夕飯だよー」と呼ぶ母親達の声に、それまで草地や遺跡で遊びまくっていた土産物屋部落の子供達は瞬間にして消えた。代りに小鳥達がビチャピチャ囀る声と、時折ギョッと僕の身を縮ませるほど奇怪な大声を発する熱帯性の鳥の鳴き声が響き渡っていた。遺跡地帯が閉園する午後5時が迫っている。バイヨンの塔に(これでもか)とばかりに組み合わされた巨大な石と顔面像の間を、蟻塚を出入りする蟻のように見え隠れしていた外国人の観光客とカンボジャ人の巡礼の姿は消えている。そしてバイヨンの塔を、光と影が天まで絡む造形物に仕立てあげていた陽光の魔術も幕を閉じている。
 自転車を駐輪したアンコールトム南門に向かってバイヨンの麓の道を歩いていた僕は、はるか彼方に人間の7、8倍はある金色の仏像が赤と黄色の布を袈裟懸けとして鎮座する、小さな壁のない寺に気がついた。その寺に、白い衣をまとったらしい人物のほのかな白い点が近づいて行く。(やはり昨夜のことは夢ではなかったのだ。)僕はその方向に両手を合わせ、深々と腰を祈り御辞儀をした。顔も見定められない距離と夕闇前の不確かな明るみにした御辞儀だったが、そのほのかな白い点は立ち止まりこちらに礼を返しているみたいなのだ。その優しさに満ちた波動は確かに昨夜の老尼のものだ。
 昨日は遠出をし過ぎて帰りが遅れ、闇夜の密林を抜く道を怖る怖るペダルを漕ぐ羽目となった。ようやく出逢った最初の灯が、土産物部落の赤い石油ランプの群れとその中心に輝いていた、小さな壁のない寺の床に立つ数本の蝋燭だった。彼女はその白い光に反射する金色の仏像に祈っていた。寺の脇に自転車を止めた僕に向かっても祈ってくれた。夜も更けた頃だったのに寺の廻りには多くの子供達が遊びまくっていた。そして最後に彼女は上に向かって祈った。仰ぎ見ると、空を覆った薄雲がその上にきらめく星に芒と光り、バイヨンを淡く照らして宇宙的な燈台のように見せていた。その全てがあまりにも幻想的な光景であったために彼女の実在も信じられないままだったのだ。
 (このまま旅を続けます。)僕は再び手を合わせて腰をかがめた。(貴方は旅をするのです。)彼女はそう礼を返した。僕の錯乱状態は収まっている。アンコールには精霊の泉が静かに湧き出し訪れる者をあるべき姿に清めてくれる。あの老尼は、バイヨンの石像にこびり着く苔を洗い流し続けてきた、アンコール一帯を軍事基地としたポルポト派もベトナム軍も彼女だけには手をつけなかった、と昨夜遅くにようやく戻ったシエムリアップ市の貸自転車屋の若者が言ったのを思い出した。僕は再び歩いた。空には、熱帯の闇が落ちる直前だけに現われる冷やかに深い青が一斉に広がっている。サーモン・ピンクの光線が走る瞬間も近い。
 黒ずんできたバイヨンの麓の長い舗装道路を歩いている内に、僕はその日始めて喉の乾きを覚えてきた。(そうだ。今日は一度も水のために屋台に立ち寄らなかった。人間とも、あらゆる命の兆しとも関わりたくない、太陽と石だけを伴侶とした旅の一日だった。朝一番に見た、人類の遺産の中で最も傑作だというレリーフは戦争のものだった。疲労と寝不足が重なった上に強力な陽に当たったことが日射病の原因だろうが、あの血しぶきの幻覚はレリーフにこもっている人間の恩念の波動を受けたせいではなかっただろうか。その後唯一の水の得られる屋台さえも避けるほど人間嫌いとなったのだから。あの時の僕は死界に踏み込み死霊を求めていたように思える。そして最も出逢いたくなかったポルポトとその犠牲者達に対面した瞬間、僕は生還した。あれは何だったのだろう。日射病に脱水症状のダブル・パンチにやられたというだけでは説明し切れない。あの瞬間の後から僕はこれまでになかったすがすがしさに生きているのだから。たぶん、未来よりも過去の方が現実的に存在をしているということだ。死霊にした約束は生命にしたものでもある、ということだ。それが今生きている人間の務めというものだろう。すがすがしさを感じているから水を求めて歩いている。)

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7 ブルー

雨期のマーケット・タイ国境手前のポイペト・カンボジャ
 既に陽は密林の向こうの大地に落ち、まだしばらくは天に明るさが漂いそうだった。僕は熱の余韻こもる空気の層に土混じりの水の臭いを嗅ぎ出した。それはバイヨンからアンコールトムへの分岐点の脇に据えられたコンクリート製の縁台からだった。縁台の端にひと抱えある素焼きの壺が置かれている。広い口の上には湿った赤い木綿布が被せられ、ピンクのプラスティック・カップがそこにヒョッコリ載っている。インドのヒンドゥー巡礼地で見かけるのとそっくりだ。水は底に残っていた。素焼きの壺には一面に微細な穴が空き、常に浸み出た微量の水が蒸発して壺から熱を奪うから水は適度に冷えている。脱水症状を起こした後だ、慎重に時間をかけて舐めた。僅かに素焼きとされた土の味がする。水は有り難いものだ。
 密林のシルエットがやけにクッキリ空と接している。昨日みたいに闇は突然降りてこない。(そうだ、薄く白じんだ青は三日月の夜のものだ。密林の裏の空にかかっているのだろう。これなら帰り道のサイクリングは滑らかとなる。)とその日始めて深い安心感に包まれた。コンクリートの縁台にどっかりと坐り込む。密林の壁が道路脇にそそり立つ場所だ、地面は暗い。だが今夜の空には雲がない。三日月に光を薄めた星が幾つか浮いているだけの、すがすがしい青い明るさの広がる夜だ。
 それからかなりの時が経ったようだ。(リラックスすることは光の移ろいに染まるということなのだろうか。)今や空には凄みを帯びた濃い青が染み渡り星は冴えきらめきを放っている。たぶん三日月は密林の向こうの空から地に落ちている。ここは左手にはバイヨンが、星群の照射を受けて微かに輝きながら、適度な大きさのシルエットとなって立ち尽くすのが見え、右手すぐ近くには高さ10メートルはある密林の闇が覆い被さっている、星の影の貯まった谷間だ。遺跡のガードマンらしい緑色っぽいシャツを着た男達数名が、バイクのライトを滑らせて僕の坐る分岐点の縁台の前をゆっくりと曲がりシエムリアップ市の方向に去った。そして再び星とその間の青だけが移っていく。
 ふと気がつくと壺の反対側の縁台の脇、つまり坐っている僕の右側少し離れた所に、ひとりの男が立っていた。(なんと静かな男だろう。)僕と同じに安心し切っている。湖底のような暗さの貯まるその分岐点で、バイヨンの淡いシルエットを写す湖面のような空の移ろいを眺めている。僕はどこに行っても異例な外国人かあるいは異例な土地人に見えるはずなのに、僕に対して好奇心も示さず疑ってもいない。色々な場所で道端の縁台に坐り込んできた僕も、これほどの透明な一体感を持って同じ時を過ごせる人物には会ったことがない。お互いに会話も交わさないし、その必要も感じない。お互い目を交わすことすらせずに、夜が深味にはまって行く様を読んでいる。
 と、僕達の前の舗装道路に、小さな木箱を載せたリアカーを前屈みとなって押し歩くアイスキャンディー屋の影が通りかかった。(おやじさん、商売の後どっかで飲んできたんだろう。)そんな足どりの男が僕の隣に立つ男の前に止まった。酔っ払いにしてはやけに丁寧な挨拶をしている。その影のしぐさも声色もかなり年を食ってくたびれた男のようだ。片やそれに鷹揚として答える僕の隣に立つ男の声は、男盛りの実力者といった張りと強さ、何よりも誇り高さがある。(アレッ、アジアで年配者が年下の者にこれほどの敬意を払うのは、社会的身分に格段の差のある場合だけだ。もしかしたら、)
 僕は顔を右上に向けた。始めて隣に立つ男を見た。男も僕を見下ろした。濃紺の夜空の下に貯まった闇の中でもその近さだ、目が慣れてくれば半濁の水を通して顔突き合わせた魚どうし位には識別しあえる。カンボジャ・ボクシングで鍛えたような頑健な肩と背。額と顎の締まり具合は常に綜合的に頭脳を使っているからだろう。クリーニング屋仕込みの折り目のついた地味な半袖シャツとズボンの素材も良さそうだ。その目には(君のことはぜんぶ判ってるんだよ。)と幼い頃からの友達みたいな親しい笑いが浮かんでいる。(そうだ、バイクがここを曲がった時にこのあたりの人間としては珍しく、スピードをやけに落とした。あれも彼に挨拶をするためだったんだ。バイヨンの警備の現場管理職。それしかない。たぶん彼は昨夜の僕のことも今日の僕の錯乱状態のことも知っている。意図した訳ではないが、僕は閉園時間を2日も破ってしまった。)
 (すみませんでした。)と立ち去ろうとした僕に(気にするなよ。)としっかりした歯並びを見せてチラリ笑った彼は片手を無造作に振った。僕が縁台に寄りかからせていた2本のアルミ製歩行用クラッチを指している。(これで旅しているのか。)そしてたぶん(その年で)と笑顔に込めて。(慣れれば別に。鍛えたしね。今日もかなり歩いた。)僕もそんな意味を込めて笑い返した。それから男は真顔に戻った。
 片手でズボンの膝の部分を掴み、グイと裾をたくしあげた。当然素足が現われる。だが、その色は夜目にも鮮やか過ぎる肌色だった。しかも固くのっぺらとした肌だ。その足は確かにプラスティク製の義足だった。

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8 マイン
 
 カンボジャは片足切断率が世界で一番高い国だ。ベトナムからメコン河を船で逆登ってプノンペンに到着し街を歩き始めた僕は(世界でこれほどクラッチをついて歩いても目だたない所はない。)と不遜ながらホッとした。ひんぱんに片足をダラリとさせて2本のクラッチを操り歩く人の姿を見かけるのだ。そしてこのアンコールワットは内戦中に各派が代る代る軍事基地として利用したから地雷がすさまじく密集していた所だ。今でも北側の小さな遺跡地帯に行く歩道では、例えトイレをするにしても決して道から足を踏み出さないように警告される。だから隣に立つ男が地雷で足を吹き飛ばされたことは間違いない。でも(アレッ クラッチは使わないの)と僕はいつもの両手を交互に下に押す動きをさせた。隣に立つ男は両手をグルグル回転させて(自転車を使うから)と答えた。(そう言えば暗くなった頃に1台の自転車が脇に一寸止まってから走り去った。あの後に乗って来たのだろう。それにしても気配を全く感じさせずに下車して長い間僕に気づかれずに立っていたのは、たぶんかって政府軍の前線部隊に居た時の身ごなしのままなのだろう。それも将校クラスの。政府は傷痍軍人に優先して公職を宛てがうという。バイヨンの警備。淡々とした第2の人生だ。)
 そう見当をつけた時に自転車が止まった。サドルから降りた細身の男は無表情な横顔を僕に向けたまま、ただハンドルを押さえて立っている。やはり元軍人らしい夜目にも蒼白な肌の色をしている凄みのある目が僕の隣に立つ男に(異状なし。)と伝えた。その自転車の男の片足は腰の真下から1本の棒状となっている。ズボンの一方の布地がペラリたれ、その下に義足らしい革靴が覗いている。
 (若い。30才代前半か。それなのに良く物事を見極めている。夕暮の樹下に立つ古い山水画の禅僧の横顔から老いの刻みを取り払ったみたいな容貌をしている。夜目の効く鳥のようにも見える。特に星だけが照らす夜の影の部分を良く見届けている。彼は僕に横顔を向けているだけだ。でも僕の様子を昼間見るよりあからさまに把握しているのは確かなことだ。その上その目は、離れたバイヨンの影の中でさえ生き物が動けば感知するといった、夜でも遠目の効く目をしている。)つまり彼はバイヨンの夜間自転車偵察員としては最適の人物となった。かっては敏捷な動きをする前線の兵士だったのだろうか。その頃の体験と肉体能力はその眼と一本の足で操る自転車に集中して鍛練され、一目置かれる存在へと脱皮した。トータルに見れば彼の能力は最大に発揮されている、そしてバイヨンの毎日の移ろいを見ていたら自然に出家の心構えができてくるのだろう。昼は時代の洗礼も受けるだろうし。物事をあからさまに見ると、返って迷いの対象は無くなって行く、ということなのか。その年齢で金、女、権力、名声、地位、ファッションといったものへのあせりが見られない。自己の人生への野心も陰謀計画じみたゲームの一切が匂わない。
 僕達三人は時の流れを共有した。黒ずんだ濃紺の夜空、きらめく熱帯の星群。半ば反射し半ば影となったバイヨンのシルエット。昼が乾き過ぎたからか一匹のホタルも飛ばず虫の声も絶えた黒い密林。僕達はリラックスしてその世界のままに任せた。何かを失えば何かを得る。傷つけば癒される。闇の歴史を読む。
 しばらくすると僕達三人の成行きに加わっていたらしい老いたアイスキャンディー屋がリヤカーを押して立ち去った。そして細身の男がサドルに跨がる。僕の隣に立っていた男がその後ろに乗る。ゆっくりと夜の樹間を飛ぶ夜鳥のように、二人は地上の闇を漂い消えた。僕達は別れの挨拶も交わさなかった。僕も歩いた。(カンボジャ。このトラウマ、この癒し。)両極の磁場に震えながら歩き続けた。
 その道には左側から高い密林の影が覆い被さっていたが、闇は僕にとって自然なものとなっていた。行く手のポッカリ浮いた広場には巨大な影が積木細工みたいな南門が立ち、壁には僕の自転車だけが寂しげに残っていた。門の外を眺めると、その先シエムリアップ市まで23キロ続く舗装道路は、星明かりに彼方まで見通せた。(深夜に馬に乗るドンキホーテみたいだ。)鍵を外しクラッチを廃品の電気コードでシャフトにくくりつけた。サドルに跨がる。ヨロヨロとして南門をくぐった先の橋げた双方には、巨大な蛇を抱えた異形の石像が縦列となって坐り込んでいる。ヒンドゥー神話の、陸と海と、昼と夜と、正と邪の綱引きだ。脱二元論ということか。
 それから僕は現代文明の傑作(自転車)のペダルを踏んだ。自分の息切れ以外は音のしないエンジン兼沈黙のパイロットとなった。自転車燈は無い。街燈も見当たらない。(星明かりのままにスローにステディーに)だ。僕は車輪と路面の接点を線に延ばした。原因と結果は一体となった。僕は無人の舗装道路を、黒い天の川を滑空するみたいに走った。

(完)    
写真 / 05年9月サワムラ撮影

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