思い出すまま - No95 / prev top next




 新しい季節
僕にとって何か新しい時期に来たらしいような気がする。というのは、今までのことが通用しなくなったからです。年も五十過ぎたし、僕の心の中も十年前とずいぶん変わったし、そろそろ変わっていい頃です。
 二年ほど前、マンネリに耐え切れず、「悪いことでもいから変化すればいい」と詩に書いたら、早速母が急死するやら、従来の方法でいっこうに次の家が見つからないなど、最悪のことから変化が始まってしまった。そうなると俄然元気が出てくる。
 若い頃の捻ひねくれ根性と言うか、自分に対して不利なことが起これば起こるほど、「コンチクショウ」という「クソッタレめが」と、闘志が出てくる。僕のやり方は、困ったときは最大限困る。もちろん限度はある、健康を害するまではやり過ぎ。とことん困れば、知恵が出てくるものです。漫然と生きるのが一番良くない。自分を追いつめないと発見はない。ということです。そしてそれを「夢あるものに変える」ことだと思います。
 思うに、歳を重ねると言うことは内外的に新しい状況に変化したと言うことです。それにあったものを造り出して行くと言うことです。人は参考になるけど、まねことはできないと言うことだと思います。僕の場合はさてと。なんでもやれることはやってみましょう。


 掃除

 どうも気分が良くない。四月は仕事も疎らな時期だ、いつでも引っ越しできる様にと掃除を始めた。一日二日三日四日、ちょっとやっては近くにお茶飲みに行き、夜また小一時間バタバタとやると言った調子。大家が切った立ち木を燃やすこと、燃えないものをクリーンセンターに持って行くこと、庭の掃除、衣類の整理、パソコンのファイルの整理といくらでも仕事はある。まだ使えるから、勿体無いからと持ち込んだもの、友達の引っ越し時に持ち込んだもの、壊れかけたオブジェ類等々。一週間経ちさすがに疲れた。

 これでもまだ半分。本や資料類、絵や過去の作品類も残すものと捨てるか燃やすものを区別しなけば掃除は完成しない。まだまだ整理の基準が甘くい、ついつい残してしまう。「パソコンとベットと食事の道具だけあれば他は必要ない。」はずなのだが、どうもそうにはなりそうにない。後は暇を見て追々と言うことで一休み。


 老後

 昨年母が死んで、僕の兄弟五人が何度が顔を合わせることとなった。上の兄は郵便局を退職して今はアルバイトで郵便局に行ったりしている。次の姉夫婦は飯能に新しい家に住んでいるのだが、一人息子が難病にかかってしまってそれが一番の悩みの種。下の姉は義母が寝込んでしまったので、実の母には何にもしてやれなかったので、せめて義母には子供らしいことをと仕事を止めてしまった。下の弟は一番の働き盛り、製薬会社の中堅幹部で忙しいのだが、体を壊したので、以前のような馬鹿まじめサラリーマンから別の考えができるようになったことは、僕としてもうれしいことです。

 会えばそれぞれの身の上話などするのだが、すぐ上の姉が「おまえ一人ぐらい将来、生活保護を受けるようになってもいいだろう、他の兄弟は税金も年金もまじめに払ってきたのだか。」などと言っている。その通りなので、僕も黙って聞いていたのだが。さてと。

 とてもそんな先々のことまで考えてこなかったので、病気でも罹ったらそうならざるを得ないことは確かなのだが、八十歳になるのに三十年もあるのです。今は大工仕事で生計を立てているけど、その間に家で金が稼げる仕事を見つければ、他人の世話にならずに済むことになります。仕事を苦痛と考えればできないが、楽しくすれば死ぬまで働けます。

 僕はまだ一度しか労災保険を貰える仕事をしたことが無いのです。それも季節労働の土方仕事で一時金で当時十万円もらって、財布ごと落としてしまった。それが最初で最後の保険の効く仕事でした。しっかりアウトローを生きてきたのです。老眼になり、耳鳴りもするようになったけど、僕にとってはまだ見ぬ新しい現実、ワクワクすることなのです。

 若い頃、片目をつぶった自画像を描いたことがあった。よく耳栓をして電車に乗っていた。見えすぎて困ったのです。見えすぎて自動的にそれに対応している自分に疲れてしまったかです。音も同じです。五十を過ぎ耳栓をしなくても良くなった。片目をつぶらなく手も良くなった。これはすばらしい発見です。

 強がりを言っているのかも知れない。でも、そんなに物事マイナーに考える必要はない、むしろ夢あることがまた始まった思える、「八十になっても活働的であるために何をしたらいいか。」という課題か一つ追加された、この春なのです。

 余談
 こんなことを思ったきっかけの一つは、三月に入り、突然耳鳴りがするようになった。目眩もする。耳鳴りは以前もあったが、目眩もあるとなると何か大きな病気でも抱えたかとも思った。そのうち脚の関節も痛み出す。四月に入り、色々やっているうち、どうも運動不足であることが分かってきた。足や目眩は、ストレッチを少しやったら軽くなった。足は腰を中心とした体操を、目眩は回転運動をと。何度か続けたらほとんど感じなくなったきた。
 耳の方はもともと右耳が少し弱く、使っているのが左でだけで使わないほうの能力が落ちて行くと分かった。バランスがまったく悪くなっていたのです。利き耳に耳栓をして、右耳を意識的に使うようにしたら、聴力は回復して、耳鳴りは納まっていった。時々意識的に補正してやらないと、バランスが悪くなることも分かってきた。目と同じである。左右の視力が違うので眼鏡で補正しているのだが、眼鏡なしで一カ月もすると、左目がひどく悪くなっていることに気付く。補聴器をとおも思ったが、この補正法で日常生活には問題ないようだ。
 年を取り体が弱って行くのは仕方ない。大切なのはバランス。体力増強よりバランスを考えた体操、ヨガとか太極拳とか考えてみよう。「右耳は弱い」と言うはかなり僕の思い込みの可能性が出てきた。いつしか左耳で電話を取る習慣が着いてしまっているのだが。この補正法を始めて時間が経つにしたがって、ドンドン良くなる。風に揺れる木の葉、虫の羽音まではゆかないが、遠くの車の音などは聞こえるようになった。右耳を下にして眠る僕の習慣などがつもりつもっているのかも知れない。

 胃を手術して食事には気をつけているのだが、それでも時々馬鹿をやっている。僕にとって野菜は必需食品なのだが、目先の仕事に気を取られ、缶詰だけのご飯、徹夜、野菜なしのインスタントラーメンを食べて寝ついたら、一時間後気分が悪くなり全てを吐き出してしまった。そして胃の荒れが納まるまで、丸一日立ち上がれなかった。ひどい二日酔いのように。


 もったいない(物体無い/勿体無い)

 大きなニュースになったので思い出した人もいると思いますが、昨年のノベール平和賞を受けた、ケニヤの環境及び女性問題の運動家ワンガリ・マータイさんが京都議定書発行のために来日した折り、日本語の「もったいない」という言葉を知り、この言葉を世界共通語にしようと、国連の国連女性地位委員会で出席者全員と「もったいない」と唱和したという。僕もこの言葉が大好きで、誇らしく、うれいしいことです。
 彼女の国連での演説で「最近訪れた日本では、消費削減(リデュース)、再使用(リユース)、資源再利用(リサイクル)、修理(リペア)の『4つのR』を『もったいない』という一言で表している。この言葉を世界的に広めたい。」、女性が次世代のために自然環境の重要性も考えるべきだとし「資源を持続的、効果的に使い、平和を享受できるよう公平に分かち合うべきだ。戦争の大半は資源をめぐる争い。あなた方に『もったいない』という言葉を贈りたい」と語った。
 もったいないという言葉は本来は物の形(物体、勿体)が無いと言う意味ですが、日本語の「もの」という言葉は広い意味があり、単なる形だけではなくものの本質にあっていないと言った深い意味があるのです。「もの」は「もののあわれ」(「もの=様々な事柄」の内からくる感動)、「もののけ」(「もの=何か」が取り憑く)、「もののふ」(古くは「もの=技術や職能」で天皇に使えるということで文武官、役人の意味です。後世では武官の方だけ残り、力のもののふ=武士という意味になる。)というように具体的なものより、物の中身、スピリットまで表わす言葉です。
 この言葉を誰から聞いたか分かりませんが、マータイさんは日本文化の本質に迫る言葉を短時間の滞在で理解したんです。それも完璧にです。環境問題という新しいことに包括的に対応する言葉が西洋言語にはないのです。日本語の曖昧さ故、包括的広さを持つという、文化の本質的な違いです。すごい人でね。僕ももったいある生き方をしたいものです。
 
 反日デモそしてインターネット

  韓国や中国で反日デモが起こり色々な報道がされている。日本の保守的な人々、植民地時代の被害者意識を政治的に利用しようとする勢力、僕か見たらみんな馬鹿。問題は簡単です。話し合えばいいのです。川の両側で勝手な推測して勝手に批判してあってないで話し合えばいいのです。同じテーブルで論争すればいいのです。
 そんな企画を日本の雑誌社が企画したら、中国の活動家に外務省がビザを出さなかった。だからいつも問題が起こるんです。過激派と過激派を同じテーブル論争させればいいのです。テレビも入れて。双方違いは違いとして、僕の推測では七八割は思い込みです。もう五十年前より百倍近く密接な国なんです。政治的違いなんて大きいものではありません。中国が風邪ひけば日本も韓国も風邪を引くのです。みんな困るのです。少なくとも経済においては。

 話は変わるけど、ライブドアとフジテレビの乗っ取り騒動。フジグループは日本の保守的な報道機関だからそんなに好きなところではないが、今回の騒動、堀江さんのやり方がどうも好きになれない。特に報道とか文化と言ったとき、資本の論理じゃない要素がたくさんあり、そういうものに対する配慮が弱すぎるかです。
 特にジャーナリズムは長い歴史の中で「報道」は理念があるのです。中国の国営放送でもです。インターネットにはそれが無いのです。いいこともたくさんあるけど、「報道」に関しては非常に無責任なんです。誰が発したか分からない、チック機能が働かないのです。恐いことです。両刃の剣なんです。インターネットはたった十年です。子供のメデアです。発した情報には責任を執って行くと言う「哲学やシステム」を確立させて始めて、既成の報道機関と融合できるのだと思います。さまざまな出所の情報(間違いや謀略めいた情報も含め)がかけ巡り、さまざまなところからチックが働き、真実に近い情報だけが残ると言った、新しいシステムが生まれてこなければいけないような気がします。

 中国の反日デモでこのインターネットが大活躍している。相互批判するメデアが無いのですから、中国社会にとってこれはすごいことです。インターネットも政府のコントロール下に一応あるのはあるのですが、中国共産党がいくら頑張っても完全にこれをコントロールすることはできない。そして、常に中国政府批判に変わるものを含んでいるのです。恐い恐い。このドサクサに間切れ「政府公認の反日デモ」を「反政府デモ」へのシュミレーションを画策した節がある。「天安門に集まれ」とね。昔の中国ではないのです。変わりつつあるのです。

 韓国や中国の人々の言い分をすべて正しいととは思わないけど、日本政府も日本の右派も加害者としての自覚はない無神経な対応がこのデモの原因の一つです。被害者意識と言うのは根深く、百年経とうが、二百年経とうが忘れることはできないものです。原爆の被害を日本人が忘れることができないのと同じです。
 そういうと、朝鮮戦争で又国民党と共産党の戦争で、もっとたくさんの人が死んでいるではないかと言う人がいる。でもそれは、同じ言葉を話し、同じ宗教を信じている同士ならある程度許せるのです。しかし、別の民族は別です。江戸時代「朝鮮通信士」と言う使節が徳川政権と李王朝に間を往復した。李王朝は決して日本の使節を首都まで入れなかったのです。日本では友好使節団と思っていたが。秀吉の侵略を忘れることができなかったからです。
 僕が思うに過去の1/4世紀ことについては徹底的に低姿勢でいいじゃないんですか。大切なのは未来です。だからといって卑屈になる必要ない、国境問題とかは、国際的ルールにのっとって主張すればいい。やってしまったことについては謙虚であり続けることが大人と言うことだと思います。中国は政治の民主化、環境問題、国内の経済格差と問題が山積みなんです。これかも日本の援助を必要としているのです。反日デモとかても一万二万人のデモでしょう、百万人がデモやったわけじゃないのです。まだ、小さい小さい。

 明治の頃、中国や朝鮮半島の進歩派の人々にとって日本は希望の星であった。朝鮮半島に出兵した日本軍は統制が取れ、半島の人も信頼していた。それが日露戦争以降、日本の対半島、対大陸政策は大きく変わってしまった。特に満洲事変以降、欧米の植民地政策の比でない侵略行為になってしまった。時を経て、バブル経済の頃から戦後の日本が変わりつつある。昔は弱い半島であったし、弱い大陸だった。しかし、今は違うからね。謙虚にならなければ日本が置いてきぼりをくう時代なのです。



 若葉

 四月の最後の週のある日、あまりの良い天気に家を飛び出した。上野原から秋山村、都留市へと延びる山路をゆっくりと走る。山々が美しい。毎日と緑を濃くする若葉達、なんと素敵な季節だろか。何もかも若々しく精気にあふれている。
 初夏になりかけの明るい光、香るそよ風。ついつい不健康になってしまう心と体を、この大自然の偉大な力で健全に戻したいと願う次第です。
 とうとう富士山まで来てしまった。富士桜の満開に出会うことができた。


 情熱

 ゴールデンウィークの大陸性の高気圧におおわれた昼、アウトドア用の簡易ベットを木陰に広げ、本を読んだり、青葉を眺めたり、鶯の声いたりしていた。心も体も十年も二十年も戻って行くような気がしてきた。
 「夢」とか「前向き」とかいう言葉は身に付いていると思うのだが、「情熱」という言葉とはずいぶんと縁遠くなっていることに気付いた。何時この言葉を使ったのだろか、十年前だろか二十年前だろか。
 この言葉の前では、ここ何か月悩んだことや、日々感じる様々なストレスなど、ちっぽけなことに見えてくる。僕もこれから、この言葉を使えるものを見つけたいものです。僕や僕の友達の範囲にとどまらないものを。