思い出すまま - No79 / prev top next


思い出すまま

熊手は大工の玄能

 前回の乱蘭通信のだし終わったら、軽いめまいがする。急に暑くなったからだろか。仕事をしている時はまだいいのだが、休んでいると時などふらっとする。七月は西川寧という書道家の展示会の設営で、上野の博物館に二週間通っていた。寒いほどエアコンの利く館内は汗一つかかない。その仕事の終わりかけの頃岡田(隆明)さんから「仕事が遅れているので手伝ってほしい。」との電話、次の週から公園の草刈り仕事することになった。

 地獄の責め苦の前倒し。連日35度を超える炎天下、からだの汗腺という汗腺から汗が水鉄砲のように噴き出し、Tシャツは絞れば水がたれて来る。更に岡田、サブ(朝吹)の更に若い水野君まで、こと細かに仕事のアドバイス。これがいじめかしごきに聞こえてくるのは被害妄想か。「久しぶりの草刈りだけど、いちいちそんなに細かく言うな。」と。

 極めつけが、僕が集めた草を素手で集めていたら、岡田さんが近寄ってきてこう言った。「熊手を使え、熊手は大工の玄能、釘を素手で打つ奴がいるか。」と。それを聞いていたサブが、別の時熊手で草を集めていたら、「草は帯状に集めるんだよ、差し金はまっすぐ線を引くためあるんだ、それと同じ。」「○×□・・・・・??」(これはずれ、強引に関連させたが意味分からず。)といった調子である。

 多摩ニュータウンの山の上の公園、大都会の外れと言うのになんとトンボや蝶や藪蚊やそして蝉の多くうるさいことか。まさに終日蝉の大狂演会開催中。時々冷たいものが顔にあたる、蝉のおしっこ。そうかと思うと、バタバタバタと体当たりまでしてくる。今日(8/9)は赤とんぼが群れを作って飛んでいた。暑いけど秋はもう動き始めた。

 低血圧の夏ばての僕の細胞は、一気に全開状態になった。おかげで、たちくらみも、寝起きの悪さも吹っ飛んでしまった。疲れるが、野外の仕事は時にはいい。

 

ミッチーの散骨

 8月12日ミッチーの散骨をすると言うので、南伊豆の子浦海岸まででかけた。こんなに急に悪くなるのだったら見舞いに一度ぐらい行き冗談話でもしてきたかったのだが。如何にせん。子浦は丸山雅博氏が大好きなところで昔一軒借りて海の家にしていた。彼も何度も遊びに来ていたと思う。僕も久しぶりである。

 午後2時頃集合場所の公民館に着くが皆は泳ぎに行ったとのこと、ぶらぶらと港を散歩する。懐かしい磯の香りがする。港を歩くおばちゃん達、海の男達の姿。ここ子浦での夏、更に二十代頃まで遡り、水俣の湯堂部落、茂道部落と同じ香がする。なんにも変わっていない。山育ちの僕は当時海の部落が憧れであった。

 午後5時、チャターした漁船に乗り近くの岩場に向かう。今回仕切ったのが神田の葡萄屋の池田ケンちゃんと言うこともあり、葡萄屋ののお客さんが多く僕の知らない人も多い。紙に包んだ遺骨を海に流し、花とお酒を捧げた。これでミッチーへのやりのこしを少し返したか。

 夜、酒盛りをそうそうに引き上げ、ビーチベットと毛布を持ち出し砂浜で寝る。流れ星が二つ飛び、磯の香りと波の音、よく昔もこうして海で寝た。鹿島、九十九里の海、鎌倉材木座の海と・・・うみはいい。

 

 アメリカ・・・

 昨年のニューヨークのテロは衝撃的だった。21世紀のマイナスの歴史の幕開けかも知れない。僕としては、テロの被害者には同情するけど、アメリカという国には全く同情する気にはなれない。その後の戦争でアフガンの人々、非戦闘員を誤爆やその他の作戦ミスでニューヨークの被害者以上の人を殺している。この事件で少し、大国のわがままが直るかと思ったら、なあんにも変わっていないようです。そしてまた新しい戦争をやろとしている。経済の不安を戦争に転化する。為政者が昔から使う低級な政治手法。これアメリカの命取りにならなければいいと思うのだが。かってのソ連のように。イラクも悪いけど、だからといってごり押しするとね。今は過度の株価至上主義経済の見直しに全力を尽くすべきときで、戦争でそちらの方遅れたら取り返しの出来ないことになるんじゃない。

 自由主義も民主主義も素晴らしい哲学だけど、最近のアメリカはおかしいよね。そろそろ痛めを見る時期ですか。そして、敗戦後アメリカに依存することにしか注意を払わなかった多くの日本の皆さん。世界を見て、今の人を見てものごと判断しないと次に大きな怪我をするのが日本と言うことになりかけない。テロとか戦争とかいう形でなくても、戦争にうつつをぬかして経済や社会の改革を忘れたら、その直撃を日本は受けるのです。他の国以上にね。戦争には勝っても足元から崩壊する、それが歴史です。

馬・・・騎馬民族

 モンゴル平原からヨーロッパの黒海沿岸に至る草原地帯は、古来から遊牧民の土地である。ヨーロッパに産業革命が起こり、蒸気機関が出来る以前、馬は地上最大の早い乗物だった。馬で組織した遊牧民の軍隊は地上最大の軍隊だった。中国の歴史は北方西方の騎馬民族と黄河揚子江の農耕民との興亡といってもおかしくないし、古代ローマ帝国も、その後のヨーロッパも何度も騎馬民族の進入を受け続けてきた。

 なぜ彼らが強かったのかというと日本でもそうだが中国ヨーロッパ人の馬に対する考え方が少し違っていたことがある。中国人やヨーロツパ人は名馬駿馬を求めるが、彼ら遊牧民は小柄で草の乏しい荒地でも耐える馬をなのです。一方、中国ヨーロッパの馬は大きく早いが、餌をも運ばなくてはいけない。もちろん彼らは馬のことを知り尽くしており、鞍なしで馬を操る名手ということもあるが。それ以上に根本的な軍隊の構造そのものの違いがあった。普通前線の戦闘部隊を維持するためにその何倍もの補給部隊が必要なのですが、しかし、遊牧民の軍隊は補給部隊が必要ないのです。一人につき馬五、六頭を引き連れ、馬が疲れたら乗り継ぎ、馬の乳をのみ、時には馬の血液を飲みまた切り口を塞ぎ、十日でも二十日でも行軍できたからです。

 また、日本の武士道とか、ヨーロッパの騎士道は個人戦を基本とするが、遊牧民は集団で敵にあたる集団戦法が主流だった。勝てないときには逃げ、時期を見て奇襲をかける。補給部隊の必要な軍隊は深追いは出来ない。それを「鳥のように集まり鳥のように散る」と匈奴の軍を漢人は表現した。

 モンゴル帝国のあの広大か領土を維持できたのは、馬の俊敏性と補給の必要としない軍隊が縦横に遠征ができたことが大きい。

 長らく疑問だったのだが「なぜあんなに牢固な長城を持っていながら二千年にも亘って、勇敢であっても圧倒的小数の騎馬軍に中国軍は負け続けたのか。」言うことが、遊牧民と長城の本を読んでいてやっと分かった。それは、明朝以前は石や煉瓦の高さ七、八メートルもあるあんな立派な城ではなく、高々二、三メートルの土塁の城が主だった。更に位置がもっと北にあり、長城と強力な軍隊の作戦がセットになって北からの侵入を阻止する。というコンセブトで作られていた。また軍隊の駐留費が膨大で千キロにもわたって配備するのは不可能で、ある程度の侵入はやもうえないことし、軍事的に阻止するより政治的に懐柔する方に力点を置ていいた。

 それに比べ、明代の長城は、少し南の農耕可能地帯に設置し、屯田兵を配置した。侵入のないときは農民で侵入してきたときだけ兵士になる半農半兵で、補給も少なくてすむ。牢固になった分兵隊も少なく済むというまさに省エネ設計だった。それ故、侵略意欲を削がれた遊牧民は軟化し、ラマ教化して現在のような平和な民族になってゆくこととなった。

 秋になれば、万里の長城を越え、凍った黄河を渡り、毎年やってきて略奪の限りを尽くす。また十日、十五日と馬の乳だけで行軍し、オアシスを略奪し更に先のオアシスを目指す。少し荒っぽい方法だが、現在の貧しい国からの出稼ぎの季節労働とも思えるし、草食動物を猛禽類や肉食動物が襲うという生物の原理に即しただけの行動とも思え、恐ろしいというより親しみを感じてくる。 

 追記

 草原の騎馬軍は陸上では最強なんですが、水にとても弱くて、中国にはもうひとつの長城があったのです。それは黄河で、そこが凍結しなければ南下してこなかった。日本への元寇の失敗も彼らが海を知らなかったからです。ベトナムにもインドネシアにも同じ頃出兵して失敗しているのです。高麗軍が最後に島に逃げ込むのですがそれを攻略するのに四十年もかっているのです。恐らく日本に上陸できても大陸とは勝手の違った日本の複雑な地形では、日本を完全に支配下に置くことはできなかったと思います。でも僕としては、京都あたりまで元の支配下になったほうが、その後の日本の国際性ということで面白かったと思うのだが。

コーヒーと喫茶店、そしてホッケーキ

 朝起きるとまずは一杯、家を出る前にまた一杯、仕事の前に一杯、仕事が終わってからの一杯、寝る前の最後の一杯と僕はコーヒー大好き人間です。家ではインスタントでもかまわないが、一日にいっぱいはおいしいコーヒーを飲みたいと思っています。秋になり、ひんやりした朝の空気の中、苦みの効いたコーヒーとホットケーキにバターを塗り塩をふりかけ食べる時とても幸せの気分になり、仕事の力が出てくる。今朝は人気のまばらなレストランでコーヒーをすすり、バターをぬった塩味のパンケーキを食べながらこの文章を書いている。遠い昔のことなど思い出しながら。

 僕が高校生の頃、1960年代後半の頃、喫茶店は暗かつた。穴蔵といったような雰囲気の店が多かった。「高校生は喫茶店に行ってはいけない。」とお達しが出るような時代であった。行くなと言われれば行きたくなるもので、友達と連れ立ったり、女の子を誘って何か秘密めいた話をしていることが楽かった。コーヒーの店と言うより雰囲気を楽しむと言うのが一番で味は二の次であった。第一コーヒーを飲むのがまだ特別であった時代である。

 1970年東京に出てきた頃から、所々にコーヒー専門店というお店が出来つつあった。店内は明るく、サイホンやドリップで色々な国のストレートコーヒーを出してくれる店である。大学浪人の頃、田舎の友人山口俊平君と阿佐ヶ谷の喫茶店を梯子しながら何時間も時間を潰した。コーヒーの味を覚えたのはその頃です。秋にはコーヒーがあう。よくあてどなく都内を歩いた。おいしいコーヒー店をひっこり見つけることは幸せであった。

 1971年大学に入学すると今までじっとしていた欝憤を晴らすように僕は外へと出ていくようになった。そして、その年の暮れから水俣の運動にはまりこむことらなった。運動の事務所が新橋にあり、ほとんどの時間を事務所を中心に過ごすようになった。徹夜でチラシを謄写版で刷り、朝、チッソの本社前で通勤の人々に配る。午後、本社に抗議に行き、夕方、都内各地の駅頭でカンパを集めに行く。そんな生活が一年以上続くことなり、七年も水俣にのめりこむこととなった。

 ちょうどその頃、西新橋の森ビルの地下にコーヒー専門店が出来た。しばしばその喫茶店が打ち合わせの場所になった。サイホンでストレートコーヒーを入れてくれる。そのうちホットケーキを始めるからということで、確か秋になりホットケーキを焼き始めた。薄っぺらいパンケーキとは違い三段重ねで七、八センチはあったかな、それまで知っているものより甘さを押さえてはじめておいしいと思った。バターと塩味だけで食べるのが好きになった。ゆりっぺや美和ちゃんは大学から一緒で、彼女らがホットケーキが始まるが何時だと、何度も店員に聞いて楽しみにしていた。

 後年ヨーロッパにいったり、サハラの砂漠でコーヒーを飲む機会を得たが、日本の水は軟水で、日本には日本にあった飲み方があるような気がする。ミルクやクリームを入れて飲むスタイルより、水に注意して、豆そのものの味を楽しむ、お茶を入れ方に同じようにするのがいいと思う。エジプトに行ったとき、粉をこさないで煮立てたものを入れるあちらのスタイルも、乾燥した気候にあっていて美味しいかった。彼らは角砂糖を三個四個と入れて飲むのだが、僕はいつも「without sugar」と言ってブラックで飲んで向こうの人も驚いていた。砂糖が入ると胃が荒れてかえって飲めないのです。あちらの方法を日本で試したら、濃すぎてとても飲めないのです。逆に向こうでドリップ式のヒーコーはなんか美味しくなかった。

 思い出すまま、今回はこのぐらい。秋はコーヒーが美味しい。

 

みょうじ・名字……………『日本の十大姓・・・について』→ここをクリック

 皆んな二つの名前を持っている。氏、家を表わす「名字」と個人の名前を表わす「名」です。明治維新に全ての日本人は二つを持つことが定められたからですが、その前のほうの「名字」は、日本には推定方法によって違いますが、約29万種あり、他の国他の民族に比べ圧倒的に多いのです。中国では約3500種(ベスト3は李、王、張)、韓国ではさらに一桁少なく約250種(ベスト3は金、李、朴)、ヨーロッパ全部あわせても5万種(その中でフィンランドは多く約3万種)となっています。 

 江戸時代庶民は特別の人を除き「名字」を持つことを許されなかったが、大方の人、70%ぐらいの人は「名字」もしくは「苗字」を持っていた。唯、代官所や町奉行所に提出する書類には「名」だけの記述となったが、それ以外の公のこと(村や町の祭礼など)には「名字」からの記入となっていた。もう戦国時代末期には、「字」あざなや「屋号」なども含めると、大方の人はなんらかの「名字」を名のっていた。

 この「名字」+「名」の表現の仕方は武士の名前の呼び方で、「名字」の「名」は「一族の名」ではなく支配する土地の「名」だったのです。それが一族の名となり、下剋上の戦国時代に庶民も名のるようになっのです。庶民の名の付け方は色々あって、領主が一族の結束を図るため自分の名前やそれにちなんだ名を家臣に与え、更に領民にも許したもの、同じ信仰を持つものが同じ「名字」を名のっもの(鈴木は熊野信仰の信者が名のった)、村の中での家の位置や役割から生まれたもの(田中、内田・・)とさまざまです。

 古代の律令制では、氏・姓・名の順であらわした。(藤原・朝臣・道長)etc. 平安時代なると、地方に新興の大農民が生まれ、彼らは旧豪族から自分の土地を守るため武装化し武士になった。また、彼らは中央の有力貴族と土地を寄進してその管理者になったり、婚姻関係を結び同氏姓を名のるようになる。特に「藤原」「源」「平」「橘」が人気であった。鎌倉時代となると、武士は皆上記の四つ氏姓に集中し不便だったので、領地の名を通称使うことが一般化した。足利氏は「源朝臣」だが足利の荘の領主からですし、毛利は元々は「大江」氏で相模の国毛利の荘の領主から毛利と名のったのです。

 戦国時代末期から江戸時代、家系や武士の出自が重要視されるうになると、家系図の売買屋が出るほどで、ほとんどこじつけで、本当のことは分からない。織田信長は、はじめ源平交代論を信じ「平」を名のっていたけど、征夷大将軍は源頼朝の定めた「源」姓に限定ということに触れ、政権奪取に不利と見るや「平」姓を名のるのをやめているし、豊臣秀吉は家系をだましようがないので、摂関家に養子に入り、天皇から新たに「豊臣」姓をもらっていし、徳川は家系の改ざんしたと言われる。トップがこうですからそれ以下の武士はおのずと知れたことです。下克上といいつつ、あるところでは古い体制を壊し、あるところは古いものにしがみつこうとする様はおかしいし、面白い。

 日本に多い十大性の成立いきさつを別ページで載せておきました。これはおもしろいのでまた調べて書きましょう。