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日本の十大姓・・・について


「鈴木」「佐藤」の多いわけ

 これから、佐久間ランキングの十大姓の起こりとその広まりについて考えていこう。

 鈴木の名称ば古代にはみられない。「鈴木」は古くは「すすき」とよまれた。それは、秋に稲を収穫して田に積んでおくありさまをさす言葉であった。山のように積んだ稲の中に一本の棒または竹を立てる。その木から神が下りてきて寝ている稲穂に稲魂いなだまをうえる。そのあとで稲魂を宿した稲を倉庫に入れて種籾にしたのである。

 そのような神聖な木が「すすき」とよばれ、のちに稲穂を積んだものも「すすき」とされた。古代には稲穂を積んだありさまを「穂積ほづみ」ともいった。

 熊野大社の神官は、古代豪族物部もののべ氏の同族の穂積氏であったが、かれらは中世に「穂積」が主に「すすき」とよばれるようになると「鈴木」を名字にした。そして、中世に熊野大社は各地に山伏を送って意欲的に布教した。熊野大社の分社をまつるようになった武上は、自分の名字を鈴木に改め支配下の農民に自分と同じ名字を与えた。ゆえに、「鈴木」の名字は熊野大社の末社の分布が濃い東海地方や関東地方に多い。

 つまり、今日「鈴木」の名字をもつ人の大部分は中世に熊野信仰をもった者の子孫だと考えられる。当時の熊野信仰は現世利益を中心とする開放的なものであったため、中世の鈴木さんたちは、熊野神社をまつるとともに浄土真宗、曹洞宗などの仏教の宗派に属していだ。それだけでなく、時には福の神である大黒天や恵比寿様をまつったりしていたろう。

 「鈴木」とならぶ有力な名字「佐藤」は、前に上げた藤原秀郷の子孫にあたる藤原系の武士が名のった名字である。秀郷の五代目の子孫にあたる藤原公清きみきよ、公脩きみながの兄弟が、祖先の秀郷が下野国佐野庄さののしょう(いまの栃木県佐野市)の領主であったことにちなんで「佐野」の「佐」と「藤原」の「藤」とをあわせた「佐藤」を名字にした。

 公清の子孫からは、俗名を佐藤義清のりきよといった歌人、僧西行が、また公脩の系統からは源義経に仕えた佐藤継信つぐのぶ、忠信ただのぶの兄弟が出た。秀郷の流れをひく佐藤家の武士たちは、主に東北地方に根を張って成長した。

 前にあげた第一生命広報部の調査では、宮城県では1000人中65.89人、秋田県では71.04人、山形県では69.18人、福島県では52.28人が佐藤の名字をもつことになっている。佐藤の名字は東北地方に集中しているのである。特殊な事情のない県なら、そこのもっとも有力な名字であっても、その割合は、1000人中10数人もしくは20人ていどにすぎない。佐藤の名字の広まりは、佐藤と名のった村落の領主が、支配下の農民に気前よく佐藤の名字を与えたことを示している。多くの村落では、佐藤の名字を名のることが、小作人でも下人でもない独立した農民であることを示すものとなっていたのであろう。

 そして、村落の領主と中流以上の農民層とのあいだには同じ名字をもつことを通じた擬制的同族関係が作られていた。かれらは強い団結力をもって外敵や自然に対抗したのだろう。しかしこのような関係は、戦国動乱の中で武士身分の者が村落から切りはなされることによって崩されてしまう。



 「田中」「中村」は村の有力者

 佐久間ランキングで3位におかれた「田中」の名字は、「鈴木」や「佐藤」と異なるいきさつで広まった。田中の名字をもつ有力な武家はみられない。

 ところが、日本各地に「田中」の地名がみられるのに対して、「鈴木」や「佐藤」の地名は作られたものだ。「中田」、「本村」、「大村」などの地名も同じ意味をもつ。丹羽基二氏の調査によれば日本の郡、市町村名でもっとむ多いものが「中村」(高知県中村市など)で、236例になるという(『地名』角川書店刊)。

 人びとが新たに土地をひらいて集落をつくったときに、そこの有力者が村落の中心部分に住んで「田中」と名のった。そして、その名字がしだいにそこの中流以上の農民のあいだに及んでいったのだろう。ゆえに、「田中」の名字は「鈴木」や「佐藤」の名字が広まらなかった近畿地方から北九州にかけての地域に比較的多い。

 佐久間ランキング8位の「中村」の名字も、「田中」に似たいきさつで広まったと思われる。

 しかし、桓武平氏、藤原秀郷の子孫、清和源氏の新田氏の庶流、この系続にも「中村」の名字をもつ武家がみられる。中村さんの中にはかれらとつながりをもつ者もいると考えられる。

 佐久間ランキング4位の「山本」と7位の「小林」の名字も、「田中」に似た性格をもつ。「山本」も「小林」も日本に広くみえる地名である。その中の「山」や「林」は、村落をまもる神社が作られた神聖な場所をあらわす。

 集落の指導者で、代々神社のそばに住んでまつりを行なっていた家が、「山本」や「小林」の名字を名のった。「山下」、「森本」、「森下」、「宮本」、「宮下」、「小森」、「小山」などの名字もそれに似たものだと考えてよい。

 別の集落の田中さん、中村さんに似た立場の家が、山本さんであり小林さんであった。そして、はじめは集落の指導者だけが用いていた「山本」などの名字がしだいに中流以上の農民のあいだに普及していった。

 佐久間ランキング5位の「渡辺」は、前に述べたように嵯峨源氏の流れをひく武家の名字である。9位の「伊藤」は、藤原秀郷の子孫にあたる基景もとかげが伊勢国に勢力を張ったために「伊勢の藤原」を略した「伊藤」を名字にしたことにはじまる。

 10位の「斎藤」は藤原利仁の子の叙用のぶもちが斎宮頭さいぐうのかみをつとめたため、「斎宮の藤原」を略した「斎藤」を通称にしたことに由来する名字である。「渡辺」、「伊藤」、「斎藤」の名字は、前に紹介した「佐藤」の名字と同じように、それを名のる武士の成長とともに爆発的に広まった。

 渡辺家の本拠地である摂津国での勢力は、源平争乱で大さく後退した。そのため、渡辺の名字は渡辺家の庶流が活動した中部地方から関東地方にかけての地域に多い。三重県では、伊勢国を中心に栄えた伊藤家にちなむ伊藤の名字がもっとも多い。第一生命広報部によると、そこの1000人中21.38人が伊藤である。

 ところが、藤原利仁、叙用父子の本拠地であった福井県における斎藤の名字は思いのほか少ない。第一生命広報部の調査で1000人中10.98人とされる。それは、田中、山本、吉田、山田、小林につぐ第6位になっている。

 佐久間ランキング6位の「高橋」の名字は、地名をもとに広まった特別のものである。古代人は、天地を結ぶ梯子はしごや柱はしらがあると考んていた。つまり、神々が下りてくる神聖な土地には目に見えない高い梯子や柱が立っている。

 それが「たかはし」であり、そこから神聖な土地に「高橋」の地名がつけられた。さらに、そこの周辺に住む人びとが、天から下りてくる神の御利益を得ようとして高橋の名字を用いるようになった。前に上げた「山本」や「小林」の名字はまつりを行なっ有力な家が名のったものであるが、「高橋」は神官の名字ではない。

「名字と日本人」武光誠・著 文芸新書 より抜粋

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