思い出すまま - No76 / prev top next


日本語のルーツ

 日本語のルーツは南インドのタミル語にあるという本を読んだ。ヨーロッパの色々な言語のルーツを比較分析して大きな成果をあげた比較言語学の手法を使い日本語と周辺の言語を分析すると、朝鮮の言葉よりなんと遠く離れた南インドのタミル語が一番近いという。タミル語もモンゴル語やトルコ語と同じく述語が最後にくる世界では少数派に属する文法を持っていることはもちろん、言語体系の性格を決定する基本言語が数多く日本語と近いものがあることや、日本語独特のリズム五七五七七があること、掛かり結びの法則があることなどなど類似点が数多く発見されるとのことです。

 同じく朝鮮半島では南インド・ドラビィダ系のタミル語よりカンナダ語に多くの類似点を発見出来るという。それらを踏まえて類推すると、弥生以前、縄文後期、紀元前数世紀頃インドシナを経由して南インド人が古代米、粟、鉄器を持ってやってきたのではないか、という。

 NHKで「日本人はどこからきたか」という番組をやっていたので見てたが、そこでは古代米は中国楊子こう下流域からやってきた。4000年前の遺跡古代米が発掘された。彼らの一部が赤米や黒米を日本に持ち込んだ。といっていた。タミル人が日本に米持ち込み日本語の基礎作ったと言う考えは日本の古代史家の中では少数派なのだということが分かったが、しかし、なかなか捨て難いロマンチック話である。

 余談ですがこんな話を仕事場でしていたら、山野君がインドから買ってきた南インドの民謡のレコードの中に日本の「はないちもんめ」とそっくりな曲があったと言い出した。素朴なものほど民族の本質を捕えていることが多いので、あにがち偶然とは言えないかも知れない。

 タミル人などの南インド人は忽然と姿を消した、見事な都市文明を発達させたインダス文明の人々の末裔だという。インダス川の異変で文明が衰退しても全インドに散らばっていたのがアーリア人(今のインド人の先祖)の侵入で南インドに追われ、更に一部は東南アジアに進出した。そこから黒潮に乗ればすぐに日本にたどり着く。実際、台湾迄は彼らの痕跡が考古学的に証明されている。

 まだまだ古代史が塗り替えられる可能性はある。何よりもこの説に興味を持ったのは和歌、短歌、俳句、そして演歌に至るまで日本の文化に欠かせない五七調に付いて述べているからです。

 

八十の手習い

母の作品→

 月に一二度田舎のお袋から電話がある。若いときは父が早く死んだだのでよくお袋と電話で喧嘩をした。頑固さはお互い様だからしかたがない。でもここ十年はめっきり喧嘩ごしになることも少なくなった。友達をたくさん田舎に連れていったことが、親の想像外の生活をしていても悪い人とは付き合っていないと安心したらしい。

 そのお袋がおし花絵を始め僕に送ってよこすようになった。田舎で百姓しかやったことのない人、でもこの年になって新しいことやろうとする気持ちはうれしい。先日田舎に帰った姉の話したと草花が雪に埋もれる冬は和紙のちぎり絵をやると言っているとか。これからは喧嘩せず仲良くやりましょう。

                    

継続は力なり

 2月9日、久し振りに舞踏を見に行く。2月はここのところ一番金回りが良くないし、 外の用事と重ならなければ行くまなどと考えていたのだが、最近の縫部君は良いという、懐かしい人にも会えそうなのででかけることにした。

 あらあら一時間集中力が途切れることなく、、以前にはなかった動きかたをたくさんしている。遊びの動きもぎこちなくない。まあまあ彼からこんな力がでてくるとは恐れ入った。確か二年ほど前見た時は30分で気持ちが続かずアップアップしていたはずだったが。

 彼は毎週日曜日、岡田さんと稽古かかさず続けている。舞踏の稽古を始めた頃の彼を僕は知っている。それは20年も前の話である。僕も体操を兼ね一緒に稽古やっていた。僕は3~4年で止めてしまったが、彼らは延々と稽古だけは続けてきた。20年は長い。やっと踊りらしくなった。おめでとう。

 電車での帰り道、新めて「継続は力なり」と思った。これからも元気で頑張ってください。

 

早春の山菜「あさつき」

 何年か前、会津の田舎の友人長谷川洋介君と従姉妹の幸江ちゃんがやってきたとき春一番の山菜「あさつき」の話で盛り上がった。知らない人も多いと思うが、雪の下で大きくなったのびるのことである。三月の終わり、雪の下からいっせいに蕗の薹やら蓬なりなりがいっせいに出てくる。僕が田舎にいた頃は、野菜をお店で買うとかほとんどなかった。秋にじゃが芋さつま芋里芋などは室むろという半地下の倉庫に保管していたし、青物、大根や、葱、白菜は雪の下に藁で囲いをして保管していた。三月ごろになると青物がなくなってしまうのである。あっても腐り始めしまうのである。冷蔵庫がなかったこともあり、春の三四月は野菜がなくなってしまうのである。 そこで早春の山菜は特に珍重された。僕の田舎の部落名が「芹沼」といい、家の横の道を登って行くと小さな沼があり、その上流に湧水の出るところに芹が生えている。そこは雪解けより半月早く芹が出てくる。10cmぐらいに成長したものを取ってくると独特の香りがあたりか香った。今なら本当においしいと思うだろうけど、小さい頃は苦みある芹や蕗の薹は嫌だった。そこで春休みなどあさつき取りに夢中になることになった。のびるのもやしと思ってください。5~10cm雪の下の枯れ草の中で伸びるのでまっすぐではなくみんな曲がっているのです。そして白から黄緑色まで、濃い緑になったらダメ、この色までだと辛さが全くなく茹でると甘いのです。再々は苦みや辛味が命だけれども、これは全くそれがない、子供はみんなこれを雪の消えた土手などで探す。なつかしい思い出です。

 ついついいろいろ思い出す。春先にはよくどじょう捕りとたんけ(烏貝)捕りもよくやった。道具はスコップとバケツ、取るところは田圃の水路、農閑期は水は流れておらず水溜り状態、水をすくうんじゃなくて水の底の泥をスコップですくう、すると泥の中で冬眠していたどじょうや貝が出てくる。時には雪を割り雪の上に泥を投げると驚いてどじょうが飛び出してくる。それを水の入れたバケツに移しかえる。持ち帰ったどじょうはそのままでは泥くさくて食べれないが、きれいな水で何度か替え泥出しを2日ぐらいすると食べれるようになる。たんけは食べようと思えば食べれるけど、どれたけ大きなたんけを捕ったかは男の子達のステータスとなる。

 雪の生る北国の春のおとづれは本当にうれしいのです。田舎を離れて30年もたって思い出すのでしょうね。

 

時々パリの真理恵ちゃんよりメールが届きます。その一つを紹介しましょう。

前略、

3月5日から、今年のエスパースMarie Kでの現代日本アーチストの展覧会が開始されます。隣の主人のSatelliteは仏現代アーチストを扱い、今年4月で10周年、私の方は9月で5周年、いつのまにか、すごいスピードで月日が過ぎていった様に思えます。有名,無名にかかわらず、半数の日本のアーチスト達が、隣の仏アーチストと平行し、言葉、文化の違いを通り越し、仏美術関係者と交流しつつ、フランスに触れながら、何かを吸収してきている様に思えます。仏美術関係者達も、文化センター、美術館で知りえた日本現代アートの認識が変わりつつある様に思います。日仏のアートの違いがあるとすれば、フランスは美しさ、完成度は求めていず、アーチストの思考を理解しようとします。日本では思考よりも、技術、完成度が求められる傾向があります。日本の場合、義務教育に美術があり、幼少時代の頃から努力というものが美徳とされていますが、仏では、美術、音楽、体育は義務教育にはなく、特に美術,音楽は限られた人達のもので、画廊に来訪する人達はアートという意味を熟知していて、その上で鑑賞します。それ故、仏現代美術は、どんどん観念的になるという傾向に走っているという難点もありますが、、、。今年、パリ個展,初回では熊谷雅(平面)、坂口紀代美(立体)、松本泉(平面)、西山元忠(平面) 針生承一(建築)の5名、2回目から4回目の方は山口和子(平面)、林みちよ&池端寛(初回)(陶芸)、堂免修(平面)(初回)&堂免和美(立体)、渡辺由紀子(平面)、菱川和子(平面)、村田純江(平面,立体)の方達です。どの様な展開を見せるでしょうか。10月には隣の画廊で日仏を混ぜたグループ展、このグループ展では毎年テーマがあり、そのテーマで作品が創作できる方を選択します。追って個々のレポートを配信致します。配信を希望されない方はご連絡下さい。

熊谷雅、Masa KUMAGAI TOSOBO

3月5日~3月22日まで

オープニング、3月5日、午後5時より9時迄、

Galerie Satellite Espace Marie K

7, rue Francois de Neufchateau 75011 Paris

Tel. 01 43 79 80 20