思い出すまま - No75 / prev top next

新年のお祝いを申し上げます。

今年は素晴らしい年にいたしましょう。

皆様の健康とさらなる活動を   

お祈りいたします。

2002年元旦 武藤 守

 

 炭疽菌→天然痘→鬼

 9月のテロ以来、炭疽病テロの報道が毎日のよに流れている。そして更に恐いのが天然痘テロだと言う。疱瘡である。しかし昔日本の鬼のイメージが疱瘡に罹った人から作られたと言うのは知らない人も多いでしょう。

 江戸時代種痘が発見されるまで疱瘡は20~30年に大流行する、そして多くの人がこの病気で死んだ、最大の病魔だったのです。

 平安時代の半ば(正暦5年 994)、新羅の国から始まった疱瘡の流行は、九州に渡り京の都を襲った。「死亡の者多く路頭に満ち、往還の過客鼻を掩ふさぎこれを過ぐ、烏犬食に飽き、骸骨巷を塞ぐ」(本朝世紀) 、「京師死者過半、五位以上六十七人 」(日本紀略)と京の三分の二の人々が死ぬと言う大流行となった。当時の信仰として病気は疫神が黄泉夜の国からもたらすと考えられ、それらは都の境界に住むとされた。その中の疱瘡神は「猩々しょうじょう」と呼ばれ、猿似た想像の怪物で、顔が赤斑を伴う赤(疱瘡患者からの連想) から酒を好むと信じられていた。 この時の伝染経路が、新羅から始まり、太宰府に上陸し、山陰道を通り都に入ったことから、山陰道から都の入り口、大江山の酒呑童子の伝説は猩々のイメージの上に、盗賊など人々に害をもたらすもののイメージが重なった鬼の集団へ肥大化し、日本民話史上最大の悪役「酒呑童子」へと結集する。それに退治するのが、皇室の血統の「源」の姓の武士とその家来、更に多くの仏や神々が加担する。また、日本文化の内向化とともに新羅、渤海の蕃国として差別意識へとつながって行くこととなる。ちなみに、最近話題の陰陽師安倍晴明が活躍したのもこの時代です。                                       この民話は種痘以前の昔の人が、いかに疱瘡を恐れていたかの証拠です。国連は世界から疱瘡を根絶したと宣言したというのに、疱瘡の恐怖は消えないどころか、免疫のなくなった現代人は更に大きな恐怖に怯えなければならないとは、笑っちゃいけないけど可笑しな話です。生物兵器、テロという心の闇(現代の鬼)は全く消えていない。全く1000年前と「心の闇」の世界は同じであると言うことです。

 僕はついつい現代のテロにしても、昔の鬼にしても、もちろんテロや病気や犯罪は嫌だけど、悪者はどうしても魅力的です。それは正義といったものの貧弱さが見えてしまうからです。力を持ったものの偏見や無理解が事件の原因の一部なのにと思うからです。現代のテロはアメリカの政治がイスラムの社会に理解がなさ過ぎるから起こったのです。古代の鬼は病気は相手が

人間じゃないから仕方ないとして、盗賊集団という部分などは多分に当時の政治の問題です。純友の乱や将門の乱は官僚の不正や無能が大きな原因ですし、異国や地方への偏見が巨大な魔の妄想へと変化したのだと思います。

 また余談ですが、卑弥呼の「鬼道」の「鬼」には後世の邪悪という意味の「鬼」じゃなく、不思議な力、凡人ない力いった意味です。

無実の市民が

 昨年の9月のテロで「何の罪のない人が・・・」と被害者のことを表現している。おかしいよなあ、日本人にしたって、アメリカ人にしたってみんな罪人ですよ。これだけ贅沢していれば、石油にしたって材木にしたって全部ほかの貧しい国から持ってきているし、それは彼らのの汗なくしては成立しない。他方で毎日何千人の人が飢えで死んだり、戦争で傷ついているとしたら、そこの人々の矛先が豊かな国に向くのは当然の理屈です。昔のように戦争ができなくなったら、彼らテロするしかないのです。

 人間の歴史は立派な理念や哲学で動くのではなく、やくざやマフィヤの勢力争いに近いのが現実です。ほかの動物たちの集団と同じ、少し頭がいい分へ理屈を付け大規模に殺し合いする分救いがないのかも知れない。

 少なくとも日本とかアメリカとかに居れば飢えずに済むし、昔のペストや疱瘡で大量に死ぬことはなくなった。そのかわり、交通事故やテロなどの文明病のリスクは追わなければならない。少なくとも「無実の市民」という無責任な考え捨てるべきです。その無責任さがテロを起こす原因でしょう。

 

もみじ・僕も50歳

 「表を見せ裏も見せ落ちる紅葉」と詠んだのは中世の歌人西行法師です。今年(2001)もたくさん紅葉を見ることができました。僕も50を越しました。人生の盛りは過ぎました。人生に旬があるとしたら80年生きても高々十年です。「あいつはすごい」と人を驚かせることができるのは10年が背いっぱいです。僕の「旬」の時期が何時だったのかよく分からない、「旬」と思われた時期は体が言うことを聞かなかったし、何時の間にか「旬」の時期は過ぎてしまった。                                    

 でも、植物や動物はいつも生きることに非常に素直です。人間のようにくよくよ考えない。人間の欲望は際限がなく、気づくと欲望の基準がどんどんと上がって多くの場合、上がった基準から自分の先々に対して悲観的になったりしているものです。基準を元に戻しても度に戻して考えてみましょうか。きっと今まで気付かなかったことが出てくるでしょう。そうしたら、きっと紅葉のように一花咲かせることができるはずです。

 「散るまでは まだまだ長い 紅葉もみじかな」 まもる

 などと12月中少し孤独になって考えて見ようとしたが、ますますしみったれて落ち込んでゆくばかり。ならもっと病気になるまで落ち込めば、などどとやけっぱちにもなってくる。体は重くなるし、無気力になるし。でも年が明けたら、それにも疲れて、なるようにしかならない。馬鹿でゆくしか。ということになってきた。

 「寒に咲く 季節忘れた 馬鹿桜」 まもる

  これでゆこう、これから何年生きるかわからないけど、馬面、馬鹿面、あほ桜。

 

カップラーメン

 イヤアーすごいね。知らぬ間にこんなに味がよくなっているとは。先日TVを見ていたら、「カップラーメン戦争」というのをやっていた。行列のできる店の味をカップラーメンで出そうとするものだ。ラーメンや店主とメン工場の技術者のやりとりがシビアなので早速番組が終わってコンビニにラーメンを買いにゆき、食べてみたのです。

 インスタントラーメンは僕の小学校の頃でき、それから食べ続けてきた。僕の認識ではインスタントはあくまでインスタントの味で、ラーメン屋の味には遠く及ばないと言うものだったが、味に関してはだんだん違いがなくなってきた。どんぶりに入れ、具をきちんとすれば違いが分からないほどだ。

 でもレトルトの食品は味が濃すぎるのが多いし、ラーメンはラーメン屋のラーメンがおいしい。冬になって、家で大根や里芋を煮て出し汁をしっかり取って、何度も温め、冷ますこの繰り返しで味を染み込ませる。この伝統的な日本の味付け方で大根、里芋のものの味を楽しむ、これがいい、胃に優しく、楽しん食べています。

 

再度の禁煙

 昨年の春に禁煙に失敗して、冬になり煙草がおいしくない、というより煙草を吸うと手が痺れる。これはやばいと思い、また始めた。なかなかこれが大変。からだの調子が悪ければ禁煙できるのだけれど、少し良くなると吸いたくなり、道に落ちている煙草を、無意識に探している。失敗したらまたやる。あまり自己嫌悪に陥らず、失敗したら何度でろやればいい。禁煙賞という気分になったこと自体大変化大進歩なのです。昨年の春は50日禁煙(いや正確にはたばこを自分で買わなかった)続いた。気楽にかんがえていればそのうち成功するでしょう。


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