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鳥追観音 謂書いわれがき


   芹 沼 の 始 め
 
  芹沼の語源は古い 今から一千二百年前白鳳時代に遡る事が出来よう 其の証拠に毎年旧正月十七日の早朝 芹沼の御館様の主が如法寺観音堂の扉を開き 鳥追観音第一番目の御開帳が昔から延々として行われて来た 其の謂書(いわれがき)中に良く書現されている。
  昭和四十五年御館様の戸主 おハル母さまが亡なられた 其の後はこの行事も途切れて今は村衆と如法寺住職の間で 新年の挨拶のみに簡略されてしまつた。何時の時代から始められたかは詳らかでははないが 遠い昔から延々と続けられて来たこの式垂も 時代の変遷と共に忘れ去られ様として居る誠に残念な事である それが為にも其の時人達はこの時々の事柄を書き記して置く事こそ 郷土愛に燃え子々孫々の為ではなかろうかと思え 浅学なれどもペンを採つた理も此処にある。
  然らば其の鳥追観音の謂書(いわれがき)とはどんな書き物であるかを記して見よう。    題して 「金剛山如法寺観音奮起」と書いてある 

芹沼村 (↑北 ← 新潟方向 会津若松方向 →) 

  往古、稲川庄沼尻村に源大夫と言へる農夫あり。生得正師にして貧乏なりしが、夫婦年半ばを越ゆれども子なかりし、唯、田畑を耕して送りけり。或る夜暮れに、旅僧来たりて、一夜の宿を借る。婆が言く「我ら貧にして供養すべき物なし。唯、粟の飯を可奉旅宿あれ。」と言いて宿を参らす。折節、源太夫山より戻り、是を見て喜悦し、翌朝進上すべき野菜なしと思え、朝つとに起きて、上の沼尻へ行き、時しも春半ばなれば、芹草の優れたるを摘み帰えり、朝飯に是を供与す。
  然るに彼の御僧甚だ感味し、其の心ざしを感悦して誠に珍味なること他に秀れたりとて、僧の曰く「我は興照と言える僧なりしが、今それ仏法盛んに行る然々に、是の日の本は神国にして神の御国なれば、それ神は仏の垂迹なり。この国、聖徳太子仏法を広め給ふ。それより世を去り時移り、今の世に至りて、神即神威を添いさせ給ひ、天の御門を始め、仏意を仰ぐ世なりしかば、この日の本あ霊社霊仏霊場を供養の為に、今この界を渡るなり。然るに、汝等縁によつて今宵、我が止宿を設ふるに、汝等が志を見るに正徳正師にして樫貪放逸の心なく、我、別れに臨みて記念せん無心ば望みあれと、望みに任すべしと。
  源大夫夫婦申様、有り難き御言葉、さりながら深く望事、更に無し。斯く山谷に生を得て貧夫なり。我々身を終わるまで、安心せん事此処に一つの望みなり。然るに、此処おちぢの里に山田四百歩ばかりに粟、蕎麦の畑あるを耕し首尾良く、秋の実を得ば爺、姥露命つつがなし。然るに、秋来たりて作物実生り之を猪、猿、小鳥の為に半実を費やす此処が、我が憂える所なり。願わくば貴僧此処を恵ませ給えと。
  易し間の事なりとて袈裟行李の中より、御丈壱寸八分の正観音菩薩の尊像を出し奉り。是れは我三界廻国の間応護仏の本尊也。この尊像を汝等に奉授。常に信心怠らず秋にもなりしかば、汝等の田畑の辺りに稲棚をかきて尊像を棚の上に安置奉り、弁に鳴子の縄を御側へ引置くべし。自ら鹿猿、猪、小鳥を追はせ給べし。さすればこの秋よりは一生の間憂えなく実生り取るべしと示し給う。
  着経踊経祈念なし給えて、源大夫に渡し給えば誠に難有夫婦給付奉り。是を安置奉り、明け暮れ信心怠らず合掌仰ぎ奉りぬ。
  興照別れに望みての給わく、汝等家に有る所の、芹の根白く長くて白毛の相あり。是よりは村号を芹の字を用いて、芹沼村と新たむべし行々繁昌なるべしと、の給いて去り給いば、夫婦お別れを惜しみ涙を浮かべてけるとなん。

西会津町中心部
野沢地区の南の丘の上に鳥追観音を安置した如法寺がある。
芹沼村は野沢地区西はずれの集落

  されば月日に関守あらざれば、春過ぎ夏送りしかば、秋の涼風に実生り猪、猿等諸々の鳥も群がり騒がしき。いざや稲棚補修せんと源大夫は鳴子の縄、棚板等を持添え、鳴沢田の辺りに棚を掛け尊像を安置礼拝し、我が家へと帰りたり。其の翌朝毎に、爺と姥とが変わるがわる御供物などを備えて帰りける。又、雨覆にとて、菅笠を御丈の辺りに差しかざし、雨をこそ厭ひせり。あり有難や、その日より尊像、鳴子の縄を引き給えば、諸鳥も獣も寄り付かず、真に実り穀物を穫りければ、夫婦は奇意の思えをなし信心怠らず、一生安穏に送りけり。
  祈りあらたなる霊験も正徳正師の御恵の有難かりし事ともなり。其れ故に、尊像を鳥追えの観世音とは申し也。又、田の在るその所は鳴沢田とぞ名付たり。

野沢から会津若松に抜ける道は何本をあり、時代によりそれぞれ
盛衰があるが、新潟県の津川から野沢の間は古代から唯一この道しかない。

  さて、源大夫夫婦在生に在りし間は昼夜心仰奉しが夫婦死して後、誰とて安置奉る者もなかりしによつて、この尊像この歳土に止まり給いず、然るに、揚の川の辺りに岩淵と言へる淵あり。ある時、霊像光を放つて彼の淵に飛入らせ給ふに、この淵竜宮に通じとみえて、その時、竜神波上に出現し尊像を迎え奉る。是天平年中の事と聞こえたり。夫より彼の淵を末世に至りて御身ヶ淵と称い申しなり。
  その後、遥かに歳霜を経て、平城天皇の御宇大同元年(八〇六年丙戊)の秋つかた。秘宗祖師、弘法大師奥羽の間霊場有事を巡錫し給え、揚の川の辺に着ぬべし。岩の崎の辺を通り給えば、菩薩水上に現はれ給い、空海々々と仏勅ありしや
  「汝を茲に待事久し、是より南の山上に霊場有るべし。早く一宇を造建し我を安置すべし。我、無知の凡夫を済度なしべしと」御声あらたかに光明るく勇々として仏勅なり。
  即時、大師の御肩に飛び移らせ給いば、大師は奇意の思えをなし、 仰状奉り、暫く安置し給へり。
  其の時、御弟子、徳溢大師御側に居りまして、奇妙なる霊練験に逢い給い、信心肝に銘じ、尊像大師に申す。
  願わくば、我に応じ給え。是より一宇を造立てして、安置可奉、と。
  師、即ち許託せられ、徳溢に任勢(まかせ)られ徳溢喜悦し不斜(ななめしらず)。
  夫より南山に登らせ給い、此処の沢、其の形、金剛の峰に似たリ。真に大悲の浄土なるべし、とて御堂造営の祈願をなし給い営みを企給へぬ。然るに、不思議なるかな時の武将坂上田村麻呂利仁公、遥かに是を彼為聞。大同二年、丁亥。彼命、徳溢大師御堂を造営なさしめ給いぬ。則ち、尊像を移し安置し奉り給ふ。是、竜宮仏と申し奉る。
  
  金剛山 如法寺開山  徳溢大師   
 
  抑々「金剛山如法寺観世音奮記」は、明治二十一年、旧暦正月中に写取候儀に候とも、不肖の我が身故、不文解なる等数多し。 明治三十一年 正月吉日  武藤武吉是を写取候也。
 
以上
「芹沼今昔物語」 武藤次郎 (上の家) より
 
 
  簡単に要約すると、
 
  「旅僧に老夫婦が「芹」でもてなしたら、僧は感動して、害鳥、害獣除けに「観音像」を置いていった。また、村名を「芹沼」と改名するように勧めた。観音像は自ら鳴子の綱を引き鳥を追い払った。老夫婦が死亡して供養する人がいなくなったので、揚の川(阿賀野川)身を投げてしまった。
  弘法大師がここを通ったとき川の中から観音像が現れ、南の山に自分を安置するようにいった。隣に居た弟子が、その仕事は自分にさせてくれと申し出、許された。」
 
  更に旅僧は行基という説や、坂上田村麿が登場したりしているが、お寺の権威付けに当時の有名人を関係させたのでしょう。この謂われ書きでもう弘法大師は名前だけ、本当は弟子がやったと白状しています。
 
   浅草の浅草寺と同じような縁起なのですが、観音様が川に身を投げたというのは面白い。老夫婦以外の村人が供養しなかった。ということだろうと思いますし、仏教が浸透するためにはそれなりの時間がかかったと言うことではないでしょうか。
 
  僕の家は通称「不動前」という屋号で、今の兄で四代目です。本家は「山下屋」、江戸時代から木賃宿やっていました。お不動様の前に茶店を出していたのが前身です。今の七軒は佐川、渡部の別姓を名乗っている家もありますが、元は武藤姓だったようです。
 その武藤姓も古く、戦国時代の芦名氏時代この村に赴任した武藤という武士に由来しています。その家の直系が「御館様(おやがっさま)」屋号の家です。下級武士ですが、会津が芦名氏から伊達氏に代わった頃、武士をやめ、この地に定着したものと思われます。家系図やお寺の過去帳からこの時代までは遡ることはできるそうですが、それ以前の記録はありません。

  大災害や、大飢饉、大合戦などの廃村になるような記録がありませんし、土地が狭いから多くの人を抱えることはできませんが、山の幸、川の幸、街道からあがる収益と、貧しくはない土地です。おそらく「源大夫」の時代から、芹沼一族として続いてきたのではないでしょうか。
 
 古代の蝦夷遠征軍、布教の僧侶、芦名、伊達、上杉、蒲生、松平とめまぐるしく変わった、戦国から江戸時代。明治維新の官軍。東北の歴史が僕の実家の前の道を通って変わってきたと思うと、なかなか重いものを感じます。ちなみに、明治維新の官軍に村民一人が打ち首になったという。
 
まもる

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