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沖縄でみた 沖縄からみた
小牧みどり
 
 
 長年の夢がかなって、沖縄戦跡基地めぐりに行ってきた。3泊4日の短い間にかなり忙しくまわったけれど、闘う人々と出会うことができてよかった。日本生活協同組合連合会の平和学習の旅で、全国から180人、COOP神奈川からは20人の参加だった。A,B,CコースのうちCコースが上級コースで辺野古が入っていた。迷わず、Cコースにしてバス1台30人でまわることになった。費用は生協のカンパでだしてくれるので17500円。毎年、参加者募集。組合員になるためには出資金500円必要。是非、店のチラシなどに注目してほしいと思う。
 
 12月6日お昼頃、那覇空港に着くと冬の服装が似合わない。オーバーやセーターをリュックに詰めて夏らしいシャツになると、到着を待っていてくれた現地の人に「寒くないですか。」と心配された。沖縄では3日前から寒くなってしまったという。この時期にこんなに寒いことはなかったと言っていた。気候変動が始まっているようだ。地球温暖化の影響で、あらゆる産業に影響を及ぼすことになりそうだ。米軍再編などより、もっと優先して考えるべき地球的課題だ。「自然」には米軍も勝てないだろう。ニューオリンズの惨状を見よ。沖縄からイラクへ行ってる場合ではないはずだ。自分の国も守れないで、醜態をさらし、世界に知られてしまったではないか。アメリカの現実はいみじくも「自然」が暴露してくれたではないか。では、日本はどうなのか、コイズミ劇場は今年も続いている。あの顔はもう見たくないと思う。
 
 午後からは、ひめゆり学徒隊の生存者、宮城喜久子さんの体験談とひめゆり平和祈念資料館のできたいきさつや運営など、知ってるつもりで実は知られざる、知らせまいとする動き、など知ることができた。いっさいの公的支援を受けずに運営している気迫と、平和への思いの深さは並大抵のものではなかった。16才の少女だった人の語るに語れない、言葉で言えないことも多くあったにちがいない。夜はホテルで宴会。沖縄芸術大学の学生による、琉球舞踊など美しく、沖縄生協の職員などもみんな芸達者で沖縄の三線や歌など何でもこなしていた。沖縄料理にハイエナのように群がる生協おばさんにはついていけないわたしは、結局不本意ながらも泡盛を飲んでいた。生協開発の1本500円の泡盛がさっぱりして飲みやすい。
 
 12月7日、朝8時、ホテルのレストランの窓から、泊港の海の上をみると虹がふたつも出ていた。風が強く長袖が必要。海辺のホームレスのおじさんのネコたちが寒そう。対馬丸記念館、ガマ見学(潮平権現洞)平和の礎、県立平和祈念資料館見学のち、市民の目から見た沖縄戦の話を聞く。ひめゆりの塔、ひめゆり平和祈念資料館見学、魂魄の塔で献花。コープあっぷるタウンでおみやげを安く買って、ホテルに帰ったのは夜7時近かった。寒さのせいで、道が渋滞していると平和ガイドの横田さんが言っていたが、どこが、と思った。渋滞の距離がちがう。寒くもない。
 
 学童疎開のはずの対馬丸だったが救命具は綿や藁で、かえって沈んでしまうし、最初から子供はじゃまだったのではないか、食糧難から口減らしに出されたのではないか。わたしはそう思った。ガマにしても全員助かったガマと日本軍によって全員殺されたガマとある。潮平の洞窟は日本軍が来ず、長老の判断で助かったガマで、今では権現洞といわれ祀られていた。それでも、私たちが入ろうとするとハブがいて、戦争中もいたわけで、ハブでも日本軍でも沖縄の人は死んでいるのだ。どちらもぜったいにいやだ。ガマの暗闇はおそろしい。それは沖縄でみたものであり、同時に基地のある街の共通の「暗闇」だと思った。沖縄から自分が住んでいる基地の街、相模原の「暗闇」が見えた。それが何か、よく考えなければならない。一言でこれだと言えない、闇のような気がする。人間の心の中にある闇だ。米軍基地の存在を許している内なるなにか、である。
 
 12月8日 前田高地、沖縄国際大学、佐喜真美術館、池原牧場、安保の見える丘・道の駅かでな、象のオリ、チビチリガマと朝から暗くなるまでバスで移動。サトウキビ畑とジャガイモ、サツマイモ、野菜の畑が乾いた赤い土につくられていた。日差しが強く、海から風が吹いていた。サトウキビ畑は背が高く、怖いと思ったのは女性の感覚だろうか。
 沖縄国際大学では去年8月、米軍ヘリが墜落した。あれから1年以上がたち、黒こげの木1本残して跡形もなく片付けられていた。(学長が残せといったそうだ)黒こげの木は死んでいても、横から新しい緑がいきいきとのびてきていた。ずっしりと重い、153ページの資料を渡された。琉球新報と沖縄タイムスの当時の1週間分の新聞記事を大学でまとめたものであるが、せつなくてまだ読めない。日本本土で、これだけの報道がされただろうか。大学の人の説明を聞きながら、屈辱に耐える力を学んだ。屋上から普天間基地がすぐ近くに見えた。当時、朝日新聞を取っていたわたしはその記事に不満を抱き、長年の購読をやめたのだった。直ちに行動しなければならないと思った。新聞のない朝は時間を有効に使えてかえってよかったと思っている。
 池原牧場に行って詳しい話を聞いている最中に米軍機が2機、すぐそばをものすごい爆音で飛んだ。何回も何回も飛んだ。ついにわたしは泣いてしまった。今思い出しても、くやしくてたまらない。屈辱に耐えるだけでいいのか、植民地でいいのか、他に生きていく方法はないのか、問われているのは沖縄ではなく、日本政府であり私たちではないのか。牧場の牛はやせていた。闘い獲った軍用地の中の牧場なのだ。
 
 12月9日 金武町伊芸地区、都市型訓練施設の反対運動をしている女性の話を聞く。朝4時にゲート前に立ち交代で見張りをし、ただの主婦が命を守り、生活を守るために闘っている。どこが都市なのか、山を爆撃し、赤土をむき出しにし、イラクの都市を想定していると言うことだが、どこがイラクか、馬鹿丸出しの稚拙な米軍を相手にしなければならない情けなさ、沖縄言葉でわじわじする。486日の毎日の闘いに想像を絶するつらさ、困難があったことと思う。闘う女性の凛とした美しさは是非とも見習いたい。もっと話を聞きたいと思いながらも時間の都合で、辺野古へと急いだ。
 
 辺野古の海でヘリ基地反対協議会代表、大西照雄さんから話を聞き、質問したかったけれど時間がなく、本を買ってすませた。ビデオも買ったので是非、ビデオ上映会ができないだろうか。相模原でやろうと思っている。「見直し」によって単管やぐらは撤去されていたが次に出されてきた代案のほうが人家に近く大変なことになるそうだ。半日は座り込みたかったけれど、帰りの飛行機の都合で残念だった。また行くことになりそうな気がしている。沖縄平和ネットワークの横田真利子さんに、辺野古に行く前にバスの中で言われた言葉が印象に残っている。
 「がんばっている人に、がんばってくださいと言わないでください。それは距離を感じる言葉です。」まさにその通りだと思う。わたしはテントの中でおじいと握手した。
 「神奈川県の相模原市から来ました。これからもがんばります。」と言うとおじいはすごい強い力でわたしの手を握った。その無言の思いを忘れるわけにはいかない。
 
2005 12 23 ずうずうしくも長生きした昭和天皇の、長男平成天皇誕生日によせて

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