奪われし未来、日の出町事件はつづく
小牧みどり
2000午10月10日午前8時50分、東京都による行政代執行がはじまる。前日より泊まり込んでいる人とマスコミ含め130人がトラスト共有地に、そして当日朝早く駆けつけた人たちが二つ塚峠に100人ぐらい集まっている。上空ではヘリコブターが2機旋回している。マスコミの物々しさ、気持ちがざわざわと騒ぎ出す。私が二つ塚峠に着いたのは10時すぎていだ。峠では和やかにギターを弾いて歌う風景が広がり、暴力に新えようなどという人はいない。この日は人が多いため強制収用はできなかった。
しかしテレビでは伝えなかった法律違反がまたあった。代執行法4条によると責任者は証票という本人であることを証明するものを見せなければならないが、こちらの弁護上が見せでくださいというと、見せる必要はないと言い切っている。後にさすがにまずいと思ったのかゲート前に来れば見せるというのだ。民主主義の砦を離れるわけがないだろう。
だいだい十地取用法そのものが、資本主義社会において、私有財産を問答無用で取り上げる悪法ではないだちうか。公共の利益のためというけれど公共とはいっだい何のことだろう。日の出町はガンによる死亡率が他市の4倍、死んだ人がここ数年で、10人以上、引っ越した人が35件、奇形児も生まれてまもなく死んでいる。原因として考えられるのは谷戸沢処分場である。1992年3月に谷戸沢処分場の汚水漏れが発覚し、地下水が飲めなくなった。住民は処分組合を相手に裁判を起こし、水質データなどの開示を求めた。八王子地裁では勝利したが、データはないと判決まで無視して、罰金を払い続けること2億円、それば都民の血税である。
なぜ隠し続けたか、第2の処分場計画が進んでいたからである。私たちは処分場予定地に土地を手に人れた。全国2800人の土地である。日の出の森・トラスト共有地はl00坪ほどのささやかな谷間にすぎない。そこに集まる人々は誰に頼まれたわけでもない、一入一人がそれぞれの想いを持って自ら森へ歩いてくる。私も森から学ぶ「ひので大学」を始めて5年、毎月第2日曜日トラスト地で楽しく過ごしてきた。参加人数1000人以上、多くのことを森から学びいい人にばかり出会った。市民運動の方法についても考えさせられた。
さて、トラスト地には「風の塔」と「緑の森の一角獣座」という芸術作品もあった。それぞれ多くの人が関わり、多様性のある運動を展開した。しかし、行政にとってば物件にすぎず、14日午前8時30分代執行終了宣言が出され「物件」は東芝の倉庫に保管された。
夜明け前がいらぱん暗いという。それでも誰も負けたような気がしていない。これからが政治の出番だ。期せずしで、10月10日薬害エイズの川田龍平君のお母さんがトラスト運動の拠点である立川に選拳事務所を開き、衆議院議員に立候補した。党利党略でない市民の力の連帯の勝利だった。
秋雨の図書館にて
図書館に行くと、なぜかトイレに行きたくなる。
季節に関わらず、一時間もしないうちになぜか大きい方がしたくなる。おどろいたことに今日に限って水洗の流れが悪い,しかもペダルを踏むとペダルのところから水漏れがはじまり、ドアの外へ流れていく。バリアフリーというのかトイレの床の高さと洗面所の床の高さと、図書館の床の高さが同じである,そんなことがあるのだれうか。とにかく流さなければならない。トイレットペーパーでふきそうじをしながらきのう食べたものなど思い出している。ちなみにほとんど菜食主義なのて明るい色でにおいも猫よりしない。
最近、盗撮ビデオとかカメラとか人妻の出前とかあるようだが何がいいのかわからない。イメージが貧困なのだろう。東大の女子トイレでもトイレにいるときの女子は同じようなものではないのか。ある日、銀座のデパートのトイレで、私の前に並んでいた優雅な着物姿の上品な奥様がトイレに入ったとたん、おもいきり大きな音をだしたので聞こえなかったふりもできず、逃げてしまったことがある。だれにせよおなじょうなものである。大きいのも小さいのも音も、健康で気持ちよく納得のいくようにしたいものである。
絶滅するのは「春の女神」ギフチョウだろうか
毎月のように、藤野町へ行く。大自然と芸術を楽しみにしている。特に秋はたくさんのイベントがあり、1日ではまわりきれないぐらいだ。
11月1日、小春日和の美しい秋にドライブをかねて久しぶりにM峠の方から上っていった。M峠は春になるとギフチョウが舞うことで知られている。ギフチョウは「春の女神」と呼ばれ、神奈川県の天然記念物に指定されているアゲハチョウの1種だ。幼虫はカンアオイしか食べないので、この秋、このカンアオイがあるかどうかが山歩きの大切な目的になる。もはや県内ではここしかいないといわれ、絶滅が心配されているが今年の4月は天気も良く何頭も見たという話も聞いている。
しかし、知ってはいたが来てみておどろいた。またしても谷間に残土が捨てられ、雨がふるたびに土砂崩れが起きているそうだ。残土は多摩二ュータウン建設のころから来ていて、藤野町では反対運勤もあったが、今では県の残上が来でいるという。カンアオイが埋められでしまう。しかも残土というと聞こえがいいが何が入っているかわがらない。
ギフチョウだけの問題ではなく、こうやって、見えないところから生態系が破壊されでいくのが恐いと思う。みんなが気がついたころにはすでに人間も危なくなっているのではないだろうか。そういえば夏にはセミの声がしなかった。カエルも世界的に減っている。
政治家がいっている「教育改革」よりも身近な白然から学ぶことは多い。いのちの大切さは言葉で伝わることよりむしろ、心が休まる緑豊かな環境から自ら生きていてよかったと自然に感じていくものではないだろうか。
土の中にはたくさんの虫がいる。どの虫も大切な食物連鎖の輪の中にいて、人問もその輪の中の1種にすぎない。おごれるもの久しからずというけれど、「春の女神」のことではない、経済効率しか考えられない日本人のことではないだろうか。