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 「茶の湯」とは

<水眠亭日記>二十二  山崎史郎     

「坐の文化」(すわるということ)

 

 茶の湯において「正坐」は必要不可欠のことであるが、この頃は椅子生活の普及により畳の上に坐ることも少なくなつてきた。こうした生活様式の違いにより、近頃の若者は正坐をすることが困難になってきている。日本の伝統文化が坐ることからはじまり、坐ることに終わるという観点からいえば、正坐の将来に危惧の念を抱かずにはおられない。

山折哲夫著『「坐」の文化論』の中に「ヨーロッパのキリスト教世界が『直立』の文化から出発したとすれば、インドや日本のようなアジア諸地域は『坐』の文化にもとづいて発展したのだということになるであろう」と述べているが正に特筆すべき文化論ではなかろうか。正坐が忘れられ、ないがしろにされるということは日本の伝統文化が忘れられないがしろにされることに継ながるのではないか。坐るという形式にもいろいろあるが。

一、脚をまっすぐにのばして坐る姿勢

二、脚を交叉するか、あぐらをかくかして坐る姿勢

三、ひざをついて坐る。いわゆる正坐とその変形

四、両脚を、脇へ折り重ねて坐る姿勢

五、一方のひざを立て、他方の脚を横たえて坐る姿勢

三には次の①②③の坐り方がある。

      

はいわゆる正坐であり
は女性などがよく坐る坐り方で「割坐」という、昔茶人がよくこうした坐り方をしたとされるが、正坐の変形である。
更にも正坐の変形で足の甲を地につけずに立て、跟(かかと)で臀(しり)を支え後から見ると足の裏が見える坐り方である。イスラム教などが礼拝の時、よくこの姿勢がとられている。茶道などで、正坐をしている人が、立とうとするときよくこの姿勢をとる。

医学博士の入沢達吉氏の考論によると日本人が家に居て正坐の生活を主とするようになったのは、江戸中期の元禄(一六八八~一七〇三)亨保(一七一六~一七三五)頃ということになり、今から三〇〇年程前とからということで、それ程古いことではないことになる。このようにみてくると、われわれ日本人が正坐をするようになったということは、必ずしも畳の出現普及と時を同じくしたものでない事が、明らかに知られるのである。

それでは一体日本人は、どのような時に正坐をしたのであろうかということが、問題になつてくる。これについて山折氏は、正坐の礼法は茶道において追求されたとする。

 安土・桃山時代における村田珠光・千利休を中心とした茶道の完成期を考え、この時期に正坐の礼法が確立されたと見る。

そしてその茶道が民間に茶の湯として流行するようになって、庶民の間にも畳の上で正坐する風習が行なわれるようになった。それが元禄・亨保頃となるであろと推考される。

従って、正坐は、畳の上に坐る時の一般的な坐り方でなく、どちらかと言えば、茶の湯の作法にみられるように、威儀を正し、礼儀ある坐り方として行なわれたのが、やがて一般化していったと見ることができる。「お行儀よく坐りましょう」と今でもいわれるように、お行儀のよい坐り方として、正坐は日常生活化してきたと言えるようである。

 

  〇茶室の正坐

 日本人が正坐することを、日常の生活に取り入れたのは江戸中期ごろからと考えられることは前述した通りである。山折氏はそうした正坐は、茶室の作法につながっていたことを指摘された。

確かに茶道は正坐を離れてはないことはいうまでもない。それだけに、今日、茶会などで多くの人はこの正坐に苦労する。とくに若い人々は長時間その正坐に堪えられず、ついこうした席につらなることをいやがる。果たして茶道では、いつごろどうした理由で、坐り方としての正坐を取り入れたのであろうか。

これについて熊倉功夫氏は「茶の湯-わび茶の心とかたち」の中で、茶室の広さが、正坐を余儀なくさせたといっている。それは「あぐらから正坐」と題して、興味ある論述をされている。

それによると、当初は茶室では多くあぐらをかいていた。それが次第に茶室が小さくなり一人の坐る広さも限定されるようになってきたとしている。そして(胡坐)安坐から、片膝立てる姿勢へと変化していった。安坐とは、胡坐に似ているが、足裏をあわせて坐ったり、体の前で足の先をくむ坐り方をいう。古い時代に広く行なわれていた坐り方である。

 これに対して、片膝を立てて坐る坐り方も、古くから行なわれていた坐り方の一つなのであって現在ではお能などにこれが残っている。そして利休以前にあっては、茶を飲む時、主人も客も片膝を立てて飲んでいたとちいうことである。

しかし、こうした坐り方は、やがて茶道の確立とともに、正坐へと変わってきたようである。「かしこまって」坐ることが、茶道に求められるようになると、胡坐や安坐、さらには立て膝坐りは許されぬこととなり、正坐が求められるようになった。窮屈な正坐の中に、精神的なものが求められるようになったことが、茶道と正坐を結びつける大きな理由であったというべきだろう。

 熊倉氏は前著「茶の湯-わび茶の心とかたち」の中で「遊興性が茶から次第に失われ、茶が、一個の緊張したハレの場となるとき、茶室内部の親密度と緊張度を高めるために、茶室はより狭くなり人々は接近し、すわりかたは『ろく』な安座や片膝から、かしこまる正坐へと変質したのだ」と結んでいる。

ここでいう『ろく』という語は「気持ちが平らかであること」「くつろぐこと」という意味である。ともかくこうした経緯をたどり、正坐は茶道においては欠くことができない坐り方の作法として、利休の茶道確立とあいまって定着するわけである。

 

  〇座禅と正坐

 座禅は、禅の修業において最も重要視するところで、道元は「只管打坐しかんたざ」を説いて、仏道は座禅に極まるとまで考えた。座禅とは端座して静慮をこらし、仏道を究明する修業の法であるのであるが、この坐り方について道元は結跏趺坐けっかふざと半跏趺坐があるとしている。

われわれが胡坐あぐらをかく形は、半跏趺坐に似ているが、左足を右の股ももにおく坐り方が半跏趺坐である。これに対して結跏趺坐は、右の足を左の股の上に置き左の足を右の股の上に置く坐り方で馴れないとむつかかしい。
しかしこれとは別に禅寺には僧堂生活の厳しい規定がある。そこには食作法とともに、茶礼がいかに僧侶生活において重要な作法であったかを記している。

茶礼、茶儀にあつては、結跏趺坐ではなすすべもないわけで、当然そこでは正坐が為されていた。読経・礼拝でも正坐はあったのであるが、正坐は茶礼によって、日常的な生活作法が「美的な洗練にまで高められた」と山折氏は言っている。

従って。僧堂生活の中には、座禅における結跏趺坐と日常生活における正坐とが併存していたわけで、そのいずれもが、仏道修業の道であったということになるわけである。
こうした禅仏経流行の時期に珠光・利休などの茶人がでて、日本の茶道は日本的に展開し、禅と融合して確立した。

 珠光(一四二三~一五〇二)が大徳寺の真珠庵に入り、一休禅師に参禅し印可のしるしに圜悟えんご禅師の墨蹟を授与され、これを四畳半茶室の床にかけ、茶禅一味を唱えたことは余りにも有名な話である。そして茶道の大成者である千利休(一五二二~九一)も、大徳寺の笑嶺宗訴しょうれいそうさんに参禅して、禅を会得している。

 「わび茶」の茶道において、その静禅性が求められる方法は、いろいろな面においてあると考えられるが、今までの論述において、明らかなように、正坐ということはその重要な要となるものであることが明らかにせられたと思う。

そして、こうした茶道が確立され、それが流行し、一般庶民の中にも行なわれるようになる時、正坐は庶民の坐り方の中に強く影響し、一般化していくようになったと考えられる。
居ずまいを正した正坐は、多分に宗教的、倫理的な意味をもったのであったにせよ、それが生活作法として一般化していったということは、確かに茶道の正坐があずかって力があったと見てよいであろう。

最後に『「坐」の文化論』の著者である山折哲雄氏は「比喩的にいえばわれわれの伝統的な芸能や武道や、そして茶道までが、万事腰高になり、その結果、重心の低い、大地的な坐法の意味をしだいに忘却しつつあるような気がしてならないのである。
それはおそらく、さまざまな生活の場面で、われわれの精神のあり方にまで微妙な変化を与える原因となっているはずである。
とはいってもわたしは、そもそも現代の社会がそのような状況を生みだしたの、とまで一方的に断言するつもりはない。というのも、そのような危機的な状況は、社会の問題であると同時に、われわれ自身にかかわる問題であるからである。

坐の文化という課題は、何よりもまず、われわれの主体的な決意や選択にゆだねられた実践的テーマでもあるからだ。もしもそうであるとするならば、まずもってわれわれ自身が歴史の中に「坐の文化」の系譜をさぐり、そこに埋蔵されている意義を発掘する仕事にとりかからなければならないのではないか、その仕事を怠るならば、「坐の文化」の豊かな遺産は、これ以後、永久に失われてしまうであろう。

最後に一言して、本書の結びとしよう。いま「坐の文化」考えることは、すなわち、日本文化のアイデンティティーを考えるための重要な土台の一つである。」と杞憂きゆうしている。

(つづく)

 

 参考文献  「正坐の文化」 安居香山著

       「茶の湯-わび茶の心とかたち」熊倉功夫著

       『「坐」の文化論』 山折哲雄著

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