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漢民族が展開し、北方民族が支配した
河南河北の黄河「中原」を行く  
(前編)
澤村浩行 
1 宋の都 開封(カイフェン)へ
2005年4月
 
 中国歴代の王朝の首都は必ず大河のほとりの要害の地に造られた。黄河「関内」の「長安」(現在の西安)を都とした漢文明の源「漢」が滅亡し、再び随に統一されるまでの分裂の時代、人口が半減するほどの三国時代、五胡十六国、東晋時代、南北朝時代の戦乱期が300年ほど続く。その漢民族とモンゴル、トルコ、チベット系遊牧民との抗争を通じて、黄河と揚子江下流の平原には多くの都市が造られた。三国時代の魏、全国統一した随の首都は、「長安」から東の山地を抜けた黄河下流の「洛陽」である。
 今では、「西部大開発計画」の下で、巨大なビル群と黒ずんだスモッグと工場、自動車、ホワイトカラー、ブルーカラーひしめくだけの大都会となった洛陽あたりから東側には、どこまでも真っ平らな平原が広がっている。しかも行く先を見失うばかりに耕地、水路、道路、土壁、村落、市街地、そして突如工業地帯が張り巡らされている。このスケールに比べればより内陸の西安あたりの黄河「関内」は、あたりの山地に囲まれた盆地の文明に過ぎない。歴代王朝が黄河に沿って東へ北へと移ったのもこの豊かな麦の耕作地帯が、堤防と灌漑によって保障されたのと、西北の遊牧民による脅威が漢の武帝や唐の太宗の追討と分断政策により、薄れたからだった。僕も歴史の流れに沿って黄河を下った。開封へと。
 中国文明の文治主義を見事に実現した宋は、「開封」を首都とした。随が四百万人を使役し(その半数を死亡させ)開通させた1800キロメートルの大運河が、南のより肥沃な揚子江下流、米の二毛作三毛作もできる江南の物資をここまで届けたからでもある。羅針盤、火薬、木版印刷という人類史上に冠たる発明がこの時代になされたのも、南からの物資の集積と、文治主義によるものであったに違いない。そして女真族の金によって南に追われたのも、平和主義のためだった。北宋は10世紀末から166年間。その最盛期には城壁の内側に50万人、近郊を含めると140万人がその首都開封に依存した。日本も南北朝から鎌倉時代にかけて宋銭や磁器、竹や茶などの新植物種から、禅、茶道、花道、能、水墨画や庭園などの文化を輸入した。
 僕は今だに当時の栄華がくすぶっている開封に一週間ほどブラブラとした。ここに来るまでの、西安から三門挟へと抜けて洛陽にいたる山越えは、あえて、穴居住民みたいな茫洋として強靱な地方人しか使わない田舎道を選んだのだったが、その旅はこの年令には少々きつく腰をやられた。歩くのは治療にもなる。
 あの一車線の田舎道のほとんどは未舗装だった。窓を締め切っても細かい埃はミニバスに充満した。それでもカミソリでケーキを切ったみたいに続く断崖絶壁の連続、その上の台地と下の谷間の耕地、絶壁に掘られた穴居住宅、車内で怒鳴りまくるみたいに話し続ける乗客たちには圧倒され放しだった。これほど寒い北方に古代文明の華が咲いたのは、養分豊かでしかも水分を内に取り込む特徴を持つ黄土が細かい粉状であったため、石器でも楽に耕せ、冬暖かい穴居住宅も断崖に掘れるという好条件があったがあったからだと納得できた。当時の主食はアワだった。
 通り過がりの旅で得られるのはその程度の実感しかないが、文字や映像で想像していたものよりリアルである。僕は(漢民族のルーツを垣間見えた。この先をもっと見たい)と暑気うさとい?開封の街や黄河周辺を歩き廻った。
 
 開封は、伝統的な中国都市の景観を目の敵としているみたいに破壊して発展している現代中国では、例外的にハイウェイ、高層ビル、工場の三点セットがない。郊外を流れる黄河がいつ氾濫するのか予断を許されないほどの勢いを保っているから、企業が進出しないのである。事実この都市は過去何度となく土砂に埋まった。その結果、観光名所の古い寺は時には10メートル以上地下に降りて入ることとなる。1855年の氾濫ではその河口を山東半島の北の根っ子の部分から350キロメートル離れた南の根っ子部分へと変えたほど黄河は手に負えない。ここの黄河の堤防は城壁並の6メートル。そして同じくらい分厚い。河南、河北平原を流れる黄河のある部分の川底は、上流より運ばれる土砂の堆積で5メートルも街よりも高くなっている。それでも今は雨季前だ。長々とした平原みたいな河川敷には、大農法の麦畑が延々と続き、トラクターが、龍の鱗に食いついた虫みたいにうごめいている。中央に太々とうとうと流れる黄河は自身の湿気と黄色に煙っている。それは、荒々しく飛翔する機会を窺っている6000キロメートルに及ぶ巨大な龍に見える。
 開封は、背の低い家並に埃とドブの匂いを放つ下街と、昔の王朝風の橋や建築物に飾られた湖と、その中心に盛られた小島の組み合わせが次々と展開するから、飽きのこない街だった。しかも車が極端に少ない。だから僕はただ歩き廻った。土地人の交流風景は人情溢れている。モラルも自己修養的な歴代中国人の「忍耐と寛容の精神」が主流である。他の都市で見せつけられる「生物学的にまでパワーフル」な出稼ぎ労働者や「帝国主義的にまで傲慢」な官僚や資本家たちの姿は見かけない。
 宋は夜に甦った。昼は淡々と暮らす庶民の群れが、暑さ少し引き気味の夕刻ともなるとナイトバザールに繰り出してくる。中心地にはすべて即席の露店が並ぶ。唾が出てくるほど濃厚な料理の煙と匂いが立ち込める。売り子が耳はじけるばかりの地声を張り上げる。ビール大瓶一本一元(13円)食事も二元からと農産地は安い。群集の中には、北京あたりの大都市からに違いない現代中国人もかなり混じっている。特に週末には。誰だってこんな住民が融合する街が好きなのだ。
 広大な農耕地帯の中心に城壁に囲まれた都市がある。そこの市場と公園に人が集い、各々が生活と文化の表現をする。庶民の味わい深い日常生活。それを支える枠組みとしての漢文明。共通するのは、反乱や侵略の成功者「皇帝による軍事独裁と彼をとりまく宮廷」。意味だけは全国に通用する「漢字」。官僚採用試験「科挙制度」、地方地主で教育者たる「郷紳」。親子、男女、支配被支配の上下関係を規定するモラルの規範「儒教」と庶民の素朴な自然観と現世ご利益の願い事を統合した「道教」と言うことになる。漢人とは、それらの文明システムを受け入れた諸民族である。固有の一民族ではないという点では、インド人やアメリカ人と共通している。
 各地の民族を具体的に結びつけたのが「街道と運河」。今ではそれがハイウェイ鉄道航空路、更には揚子江の水を三つのルートで北部に運ぶ巨大水路や、光ファイバーから新彊やカザフスタンからのガスパイプまでが、勢いを加速させている。だがそれも今まで続いた大帝国の戦略を踏襲しているのに過ぎない。現在進行形の共産党独裁政権にせよ、統治を安定させるには、階級を入れ替えただけの伝統的方式を取り入れざるを得ないのである。
 

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2 マージャン・フリーズ
 
  開封は歩きながら考えるのにふさわしい街だ。裏道の奥に見つけた宿も居心地が良かった。物価も安いし街中で時々伝統的な音楽隊が演奏するのも中世にタイムスリップさせてくれる。何かと慌ただしい現代中国の旅で、中国人自身さえも見失いがちな「漢民族のルーツ」を探るため一ヶ月は滞在してもいいと思っていた。だが結局一週間で去った。それは旅につきものの予期せぬ出来事(それもいつものようにごくささやかな直接体験)に震撼させられたからである。
 開封で泊まった宿は古ぼけたモルタル作りの三階建てだった。一階の僕の個室は外の下水の臭気が窓から入るが、同時に裏道を行く住民の足音も話し声も身近に聞こえるという、一時代前の中国にいるみたいな気分とさせてくれる部屋だった。勿論、裏道の向こうには同じ小さな三階建が立ち並ぶから、一階の部屋はいつも暗い。
 宿の入り口と僕の部屋の間に大広間があり、その向こうは大家の家族の居住区だった。50がらみの主人は毎日午後になると、広間の大きなテーブルに下宿人らしい上階の客や知人を集めてマージャン大会をした。その頃僕は散歩から戻って広間を通り抜けベッド一つだけの小部屋に戻る。安宿にはつきものの臭いトイレでシャワーを浴びると、広間のマージャン大会の騒ぎやら窓の外の裏道の立ち話などを聞きながらウトウトとする。そして夕風を感じる頃に起き出してナイトマーケットへと散歩、屋台で食べてから部屋に戻るという単純な日課を繰り返していた。
 そして一週間ほどたった日の午後のことだった。いつものように昼飯の後に部屋に戻ろうと宿の入り口から大広間を抜けた。その瞬間に、それまでガヤガヤガチャガチャやっていたマージャンの動きが突然に止まって静かになった。その賑やかさは、僕が自室に戻ると示し合わせたように再開されたのである。
 ベッドに寝転んでようやくその一瞬が筋道をつけた。僕が通り過ぎた時の「マージャン・フリーズ」状態が、最初の日から毎日繰り返されていたのに気がついたのだ。外人の客などとったことのないような裏道の宿だから、と片づけられなかった。直感は異様な状況であると告げている。
 旅を続けていると、どの場所も人も文化も短時間しか観られない。土地の言葉も判らないから検証するにしても、共通語を話す限られた個人や情報との出逢いぐらいに限られている。でも何か気になることには無意識に集中し続けている。心が現象の内側に入る。(何故?どのようにして?何の意味を持って?)と自問する。
 現代の旅人は、コミットをしない観察者に過ぎない。だが多様な状況に身をさらし続けるから多様な比較ができる。つまり状況を客観的に映し出す。と同時に、始めて出くわす現象には自由に想像してその正体を探ろうとする。有史以前から続いた流動性「好奇心」が目を覚ます。その両極に振れている内に、土地人では気づかないような全体像や抽象性にまで導かれかれることがある。
 それは実感である。どこに行っても見せつけられる産業文明社会との体験が拡大するのと並行して、自身の内に不安定で純粋な主体が育まれてくる。外と内との精神性の極端な差が「移動性文化」となる。日々消耗させられ固定されていた意識が変わって行く。今回の一寸した「マージャン・フリーズ」事件でもそれが起こった。
 

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3 ナイトマーケット
 
  その日の夕刻も、マージャン大会終了した後の、ポッカリとした無人の洞窟みたいな大広間を通り抜けて宿の外に出た。久しぶりにアポがある。朝偶然に郵便局で北京居住の日本人に会った。その青年はかって開封の大学に留学していて今は北京で働いている、休暇のたびに帰省の気分でこの街を訪れる、と自己紹介をした。歴史に詳しそうなので「ナイトマーケットで会食でも」と乞うと快諾してくれた。
 待ち合わせたのは中心部に一件だけあるファーストフード店だった。そこからナイトマーケットに二人して歩くと、まだ明るい空の下で屋台が準備しているところだった。いずれもテーブル二、三個の規模である。その地域の道全面に広がりつつある屋台の一軒に僕達は坐った。途端にそれまで隣の屋台と世間話らしきを交わしながら料理の 準備をしていた無骨な中年女性が、スッと沈黙した。
 
 「これと同じことが宿のマージャン・シーンで起きましてね。一週間ほど毎日、僕が通るとフリーズしたのです。」
 「気功の国ですからね。そういう反応はあるでしょうね。」
 
 30才代半ばだろうか、やり手の商社マンみたいにも、文化を愛する教養人にも、純朴な学生にも見える青年はニコリと答えた。着流しのシャツ姿もきまっているし健康状態も良い、大柄な北京系漢民族としか見えない。その朝、僕は郵便局で速達の出し方を窓口で問い合わせている時、係員の中国語が判らずマゴマゴしていた。そこを彼が横から手助けしてくれたのだ。そう彼が現われなかったら日本人だとは気づかなかっただろう。
 
 「やはり今流行りのジャパンバッシングのせいですか?」
 「それもあるかも知れません。今年は抗日戦勝利60周年で、テレビでは大金はたいて制作した抗日英雄の大河ドラマを何本もゴールデンアワーに放映していますから。人民軍も動員されているらしく、見応えありますよ。勿論日本人は単純に戦闘と陰謀好きで残酷な人種として描かれています。どうやら、日本人役には、出稼ぎしていた中国人を使っているようです。彼等の日本語の発音は、仕事の現場の待ったなしの緊張感があって、それもなかなか迫力がありましたよ。でもここのような淡々とした田舎の人は、他所から来た人を引いて見るのが普通です。特に教育受けた都会人に対しては。収入は時には20倍の差、権利にも差があり過ぎますからね。私だって同じ扱いを受けますよ。外人に関しては、宋の時代は北方の契丹人や女真人にひどい目に遭って、いつも沢山の贈り物をして機嫌とりをしていました。でも結局は、南に逃げて南宋として栄えても、蒙古人の元帝国に滅ぼされていますから、外人アレルギーはあるでしょう。」
 「日本人に対しては日中戦争中の恨みもあるでしょうね。」
 「ここは日本軍占領地の内陸側最前線でした。それと、開戦したての頃、日本軍の進行を止めるために、国民党の蒋介石が黄河の堤防を壊して人工的な大洪水を起こしたんです。日本軍の前進部隊もやられましたが、中国住民は数十万人溺死したそうです。それでも、日本軍の進撃を数週間遅らせただけでした。日本人も沖縄戦や東京大空襲や原爆投下を忘れず語り継ぐでしょう。人災はそれを起こした人間やいきさつまではっきりしていますから、物語は遺伝子にまで刻まれて続くのです。このツケは大きいですね。」
 
 僕は通例偶然に旅であった人に個人的なことは名前さえも聞かない。職業、年齢、家族、人種も、自発的に相手が言うまで関心がない。すれ違いのチャンスはその瞬間に共通している問題だけに絞る。それは現在進行形を含む「歴史」に尽きる。
 
 「どうしてあんな戦争やってしまったんでしょうか?」
 「戦争というのは内に溜まり切ったマグマが噴出するような不可避な面ありますからね。あるいは河底に積もり積もった土砂が、一斉に堰を切って氾濫するような。特に世界大戦は無条件降伏するまでの消耗戦でした。でもあそこまで至った過程は今起こっている現象に照らし合わせながら検証すべきです。ただ、後発の植民帝国が、その産業資本のマーケットを必要とした、と単純には片づけられませんよ。防ぐ機会は幾つもあったのですから。まず悔やまれるのは日清戦争です。あの抑圧者のパターンが日露戦争、第一次世界大戦そして満州事変と益々勢いをつけて日中戦争の泥沼にはまってしまった。そこにドイツが連勝していたのを見て、枢軸国側について一気に片づけようとしたのでしょう。工業生産10倍の上、石油も鉄も依存していたアメリカとの戦争に走らせた。百歩譲って満州国については建設的な面もヴィジョンもあったように思います。だから旧満洲の中国東北部の人たちは意外と親日的ですよ。ひどい面も見ているけど、良い面も認めています。日本人が引き揚げた後も自分たちの子供に日本語教育を続け、今では毎年東大京大に60人の合格者を出しています。
 そして、全ての失敗の元は軍部独走を可能とした明治憲法、統帥権の独立です。最高指導部が軍事と政治に二分され、戦略が政略を浸食したのですから。外交は一方的な思い込み、文化は論理性のない国家神統。双方を富ませる貿易はなしで、単なるぶったくりでした。大東亜共栄圏を真剣に試みた人達もいたと思います。当時、アジアは西洋社会に一方的に支配されていましたから。でも実態は大東亜共栄圏とは名ばかりで、人の心、特に民族の心を無視して攻撃し略奪し搾取したのです。当然恨まれます。」
 
 準備中のナイトマーケットにはまだ火も起こっていず、客引きの大音声も響いていない。僕達は日清戦争以来の「抑圧者のパターン」検証した。
 つまり日清戦争の直接の開戦理由は、朝鮮半島の農民が反侵略、反封建のため起こした「甲午農民戦争」にたいする出兵だった。(民衆に対する抑圧は日清戦争とその間の旅順虐殺、戦後の台湾先住民虐殺まで続く。)日清戦争のきっかけは、日本が朝鮮農民を共に鎮圧しようと清国にも出兵をうながし、両軍が朝鮮で対峙する状況を作ったことから始まった。イギリスがロシアの南下を防ぐのに日本を利用できると日本の出兵を黙認したのを確かめてから開戦。だが日本軍が中国領土まで進入するとイギリスも硬化した。その結果、漁夫の利を狙っていたロシア、フランス、ドイツは「三国干渉」をして、日本が勝ち取った旅順、大連(東洋のジブラルタル)遼東半島を返還させた。だから戦勝で得たのは琉球と台湾と当時の国家予算の三年余りにあたる賠償金のみ。その金は日本の鉄鉱業などの基幹産業を主とした資本主義を飛躍的に発展させたが、清国はその支払いのため仏独露英米各国から借款、見返りに鉄道施設権を与えた。列強が本格的に中国を分割する道を開いたのである。日本は抑圧者のお先棒を担いだ。そして日清戦争で確立した軍国主義と軍事的天皇制は日本国民をも抑圧することとなったのである。
 と、このあたりまでは互いに礼儀正しく、話の中身も体系づけられていたような憶えがある。
 

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4 中国の女性
 
 そこに屋台のおばさんが突然怒ってどなり声をあげた。その声の方向に彼女の旦那か兄弟か使用人かは知らないが、ともかく貧相な中年男がコソコソと屋台の片隅で料理の準備を手伝うフリをしている。日本人青年はここの大学では留学生は全員寄宿舎に入れられ、標準語で教育されたから放言は判らないと言う。どうやら屋台の女性は彼が酒かマージャンに溺れて出勤が遅れたのを糾弾しているらしい。すさまじい迫力の大音声である。
 殷や周の古代都市王国の時代の戦場では、まず双方の軍隊の前面に三千人ほどの巫女が対決し、呪術をかけあうことから戦闘が始まったというが、その迫力あるシャーマニズムのDNAは、今でも漢民族の女性に脈々と流れている。当時、戦争に負けた側の巫女は全員処刑されたから、命を賭けた呪術だった。
 それから僕達はビールのピッチをあげた。ツマミも次々と運ばれてくる。あたりを埋め尽くした客の会話や屋台の呼び込みの声のボリュームも、蒸れた夜気を吹き飛ばすかのようにあがる。僕達の声もそれに張り合う。コソコソ真面目に話していると、政治的な密議をこらしているのではないかと公安に疑われるお国柄なのだ。対話の内容もランダムだ。「人間ここまでやれるのか」という中国史上の人物のエピソード、まずは屋台の女性の勢いに影響されたのか、中国の女性に関してのエピソードが次々と飛び出してきた。
 唐の最盛期を創出した太宗の後宮(側室の館)から女帝までのしあがった「即天武后」。ライバルの女性の指先から腕と脚の根元まで除々に切り離し、遂には耳も鼻も目もえぐり豚小屋に放り出したままの姿を、帝位につけた自分の息子中宗に「これが人豚だ」と見せた。とたんに彼はヘドを吐きウツ病となり、結局彼女が中国史唯一の女帝に就任した、という激しい中国の女性の話。
 あまたの愛人をはべらせ反対派を容赦なく弾圧したが、仏教を保護、中小官僚や新興地主から有能な人材を登用、新興勢力の政治参加への道を開いた、という評価と共に「儒教は男尊女卑ですから。権力持った女性は悪く言われますよね。男の皇帝は多くの側室を持つのが当たり前なのに、中国史上唯一の女帝が何人かの愛人を持ったら、後世の歴史家や道徳家は売春婦呼ばわりする。」
 清朝末期に王室の実権を握った「西太后」。アロー戦争で英仏軍に破壊された離宮の再建とその湖に浮かべる「大理石の船」を建造するために、日清戦争が迫りつつある状況で、日本海軍と戦うべき清国北洋艦隊の増強費を使ってしまい、いざ海戦となった時には火薬袋に砂が入っていたという顛末。
 そんな女性は例外中の例外だった。清朝の支配者満洲族の女性と北からの移住者「客家」(ハッカ)一族を除く女性達は「てん足」という、幼児期より足の指を根元まで折り曲げた包帯できつく締めたまま成長を止めさせられたのである。女性が台所と寝床以外には役に立たない身体として、そのよろめく姿を愛でたのである。悲しいことながら現在でも農薬を使った中国の農村の女性の自殺率が異常に高いこと、女児の出生率が男児より数パーセント低いので千万単位の男性が結婚できないことも話題となった。労働集約型農業では男性が優遇され、女性は虐待される。女児と判ると堕胎させられるのである。それでも男女の就職条件、給与や地位に関しては、国際的な機関の調査によると、日本より恵まれている、と結論づけた。トラックやバスの運転手ばかりではなく、役所や政府や企業でも女性が目立ち、管理職も多い。
 

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5 旅する僕と日中関係
 
 その夜は、最後まで名前も聞かなかった青年と中国の歴史を語った。中国の奇人、英雄、哲人、詩人と、記録好きの中国人の残した歴史書に登場する人物について話した。
 中国史研究に関しては日本人学者の優れた本があまたあり、中には今の中国では政治的な理由で公開されていない部分に関したものもある。例えばモンゴル帝国の元の時代などは、中国文化を無視し中国化もしなかったから存在しなかったかのように扱われている。89年の天安門事件も噂程度にしか知られていない。だから僕が旅の現場で繰り返し読もうと持ち込んだ文庫本の歴史書6冊も、中国人と話している時に取り出し検証すると、「エッ そうなの」とばかり漢字を辿り「ぜひ」と乞われるから次々とプレゼントした。今残るのは歴史年表地図一冊だけだ。
 したたか酔っ払い足元のおぼつかない僕を、日本人青年がタクシーで宿まで送ってくれた。夜中でも宿の入り口は開いていた。ベットに横になると、タクシーの中で彼が言ったことを思い出した。
 「今北京駐在の日本人は、次のメーデーに天安門広場で大がかりな反日デモがあるとパニック気味ですよ。すでに仕事場以外には出歩かないし、メーデーあたりは家に籠りっきりとなるでしょう。なにしろ天安門は80年以上前に最初の排日運動が起こった場所ですからね。」
 それは現在の共産党政権が高く評価する五四運動(1919年)のことである。第一次大戦終結後のヴィルサイユ条約が旧ドイツ租借地膠こう州湾を日本に移譲すると定めたのに対し、同じ連合国側に属し10数万人の兵站要員を欧州戦線に派遣した中国人民が反発し、学生を主とした3千人が天安門でデモ、各地に飛び火して負傷者も出た。そして今は、戦後最悪の日中関係の最中である。当然なにかが起こってもおかしくない。
 彼は最後に「私にはパニックになるほどの問題があるとは思えませんがね。確かにサッカーのフーリガンは北京の日本領事の乗る車に投石しましたし、イトーヨーカドーや吉野屋も上海の領事館もやられましたし、互いの国民の6割ほどは謙いあっているという統計が出ているそうですが、死者はまだゼロなんです。現実には経済的に互いはビルトインされて、現場では多くの両国民がうまく一緒に仕事しているんですから。中国には3万社の日本企業が進出しています。下請けも含めると日本企業の現地採用は900万人に上ると言われています。私のように現地採用された者から見ると、大使館もジャーナリズムも何かに煽られているとしか思いませんね。つい最近、胡首相は国際関係のコメントを発表し、昨年だけでも400万人の日本人と中国人が国境を行き来した上に、貿易額は過去最大となった、と言っているんですよ。」と呟いたのだった。
 酔った頭で(僕もその400万人の一人なら、どっちなのか現場に行ってみようじゃないか)と考えていた。メーデーは一週間ほど後である。北京は7時間ほどバスに乗るだけの距離である。これまでも多くの旅人、学者、宗教家、ジャーナリストなどが時代のホットスポットを目指した。身を危険にさらしながら貴重なものを得た。そしてその一部は業火に消えた。これも石器と火を手にして以来身に付けてしまった人間の性(さが)なのか、と僕は感傷的になった。
 酔いがさめると知的に予測し始めた。北京がゲリラ戦の最中にある訳ではない。特に天安門は、民主化デモ以後も、法輪巧信者の一万人坐り込みや焼身デモなどが次々と起こっている。今やそんなマイナスのイメージをオリンピックのイメージに切り変える時となっている。その上、経済的パートナー日本を失いたくない中国政府は今、天安門広場を徹底的に監視して、中国では最も安全な場所となっているだろう。その監視体制の現場もみたい。いずれにしても、最もワクワクする瞬間、「現在進行形の歴史」が北の大都市で僕を待っている。北京。そこは世界史上最も長期に渡り独裁政治が続けられてきた中国の首都である。
(開封編 完)

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