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メコンデルタの4日間
2005年5月末

 
澤村浩行

− 1日目 −

ベトナム北部の駅近く 

 ベトナム中部の海岸都市フエから20時間列車に揺られて到着したサイゴンは、まだ暗い4AMだった。タクシー組が去った後に残った市バス組は、駅前の椅子100個は並ぶオープンカフェで、アジア最大の生産量を誇るベトナム産コーヒーをすすりながら、始発のバスを待つこととなる。人気のない夜のサイゴン市の路上では、「カウボーイ」と呼ばれる、時には帽子から眼鏡まで引ったくる、50ccバイクを使った盗族が出没するからでもある。やがて赤い薄雲の朝焼け、あっけない程素早く南国の朝が開く。そして地から湧き出た羽虫はむしの群れみたいな50ccバイクが切れ目なく道に流れる。ヘルメットをかぶる者などいやしない。そしてその流れは決して歩行者を避けたりはしない。ハノイ市でも道を横切るたびに我が残り少ない寿命が縮む思いをしたばかりだったから、サイゴン泊を諦めた。
 サイゴン市はずれの中国人街チョロンへは市バス20分ほどで着く。そこの活気づいたマーケット脇にある長距離バスターミナルの窓口で、ミト行きの切符を買うと、満員に近いバスに乗り込んだ。ここからは僕の愛用する鉄道はない。ミトまではの二時間半はアッパー・メコンデルタを東西に横切るから多くの橋を渡る。北部のように森は見当たらず、くまなく張りめぐらされた運河と水田、そして村や街を通り抜けて行く。どこにも人がうごめいている、人口密度の高い地域だ。
 久し振りのバス旅行だったが、僕の腰はやられなかった。それでミトのバスターミナルからベントレに渡るフェリー乗場まで歩くこととした。例のごとく群がっているミクロ(前に客席のある三輪自転車のタクシー)とバイクタクシー(オートバイの後部に客を乗せる)の運転手に道を聞くと、「ここから5キロメートルもあるんだよ。この暑さに無理だ」と彼らの乗物を使えという。確かに暑く蒸れた土地だ。でも真夏のぶんなぐるみたいな激しさはない。ゆっくり行けばしのげるだろうと、僕は見当つけた方角に歩き出した。男っぽい感じのバイク・タクシーのひとりが追って来て「まず二股がある。その右側の道をどこまでもまっ直ぐ行くと、大きな街中に十字路がある。そこに道標もある。右折してしばらく歩けばフェリーだ」と詳しくジェスチャーを交え教えてくれた。すべて、発音が微妙すぎて僕が遂にサジを投げ出したベトナム語だ。だが、旅人への仁義ある男気がジンと伝わってきた。
 僕は彼の言った通りに黙々と歩き続けた。汗かいた身体を日影カフェで乾かしながら、三時間ほど晴れたり曇りの道の上を、荷を載せた乳母車を押して歩いた。
 この地域には、見事なプロポーションと滑らかな肌を持つ女性が多い。そして美しいことが当たり前だから、それを鼻にかけていない。豊かな水と豊かな農産物と魚貝類、そして豊かな人間関係が美しい女性を生むのだろう。かってベトナムを征服したあらゆる人種もその美しさをほめたたえている。途中で休んだカフェのひとつは、夏休み中だと言う女子高校生二人とその小学生の妹が店を切り盛りしていた。英語の本を持ち出して、1500ドン(13円)のジューサーでしぼりたてのアボガドジュースを飲む僕を取り囲むと、しきりに笑い話しかけてくる。その道を歩く外人を見るのは始めてだという。三人の若さがキラキラと僕を照射する。まるで天国でエンジェル達に迎えられたみたいだ。丁度小さな娘を真中に乗せたバイクの一家族も止まって、飲み物を注文した。偶然で束の間ながら、彼等も加わって、僕達は街道の脇で一息ついた。その店で、フェリー港までバスのあることも聞いたが、人に会うのが面白いから歩き続けた。
 フェリーはバイク30台位と小型車7・8台ほどで一杯になる大きさだった。歩行者は無料、二階のふちに沿った階廊に登る。二隻のフェリーが着岸できる港だから、常にメコン河上には他のフェリーが行き交い、両岸の客はほとんど待つことがない。
 河面に出ると、茶色っぽい水が広がりっ放しだ。そこにあらゆるタイプの舟が移動している。砂を山盛りにした細長い船が4・5隻の同じ船を引いて悠々と上流へと向かい、明らかにオンボロのエンジン音に黒煙を巻き上げ、長いシャフト付きのスクリューで走る小型船が、フェリーとフェリーの間を抜って行く。いつの間にか空のほとんどは怪し気な雲に覆われている。時折大粒の水滴が曇天に漂う巨人に手づかみされてばらまかれたみたいに、水面の細かい波の連なりを無数のポイント模様で飾り立てている。

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ベトナム北部のユイマール(助け合い)・農作業
この方法でドイモイ経済開放政策以来、
それまで食料輸入国であったが、
世界三大米輸出国の一つとなった。
 

 20分程で着岸したベントレの港は離れ島っぽく何もかもが、ほぼ止まっている。フェリーの二階で一緒だった大学生の一行50人ほどはすぐ中心街に行くバスに乗り込んだ。
 生活の苦労をにじませていない中産階級の子女らしい初々しい美男美女が、一人路上に残った僕を心配気に見下ろしている。でも僕は今日、寝る場所が見つかるまで歩くこととしているのだ。それも出来たら街外がいい。バイクタクシーの運転手が声をかけたが、僕の「歩く」という意志を感じとると立ち去った。この中州の島には強引な取引関係はない。露天の飯屋のおばさんもしごくのんびりして僕を他の客と同様に扱った。ハノイのいつもだまされているみたいな緊張が嘘のようだ。サイゴンもそうだと言うが、ベトナムの大都市では複雑に仕組んだ手を使って観光客からボル業者が辻々に待ち構えている。僕もハノイでいくら注意していても彼等のワナに何度も引っかかった。
 そして再び歩こうとして立ち上がった時だ。数軒並んでいる港の商店の屋根に「ROOM FOR RENT」の看板が目にいた。矢印はその横の細い道を指し「300m」とある。主道から外れているとは望む所だ、と僕はその細道に入った。とたんに世界は狭く濃くなった。頼りなく寄り添って立つ家々の庭から犬が数匹ヨロリと現われ義務的に吠えかかってくる。300m先にまた看板があり、右への矢印とまた「300m」とある。(アレーこんな田舎でも観光業者のワナにはまっちまったのか?)と不安がぶり返した。その道は自動車とすれ違うのがやっとのような細道で、両側の民家のベランダや庭の様子が丸見えだ。
 ようやく「T.N.Tourist Garden」と書かれた大きな門をくぐった。庭がやけに広く、ガーデンレストラン風のしもた屋が点在し、その奥に母屋、バンガロー風の客室もあちこちにある。庭のリーチの木が2・30個の、幼児の金玉みたいな色形した小粒の果実を、枝のひとつひとつに寄せ集めてぶら下げている。メコン・デルタのエデンの園と言ったところだ。
 突き当たりの母屋に受付があり、ビック・マザー風のふくよかな年配の女性にシングルの値を聞くと5ドルと言う。ベトナムでは観光関係は殆どドル換定で進行する。部屋は大きく前の空き地にはバナナが茂っている。「数日泊まるつもりだ」と言うと一泊4ドルにしてくれた。
 
 部屋に荷を置き、身軽になって村の細道を歩き廻る。伝統的な木造平屋の連なりに突如コンクリートの2・3階建が立っていたり建設中だったりしている。かっての、国民全員が平等に耐乏生活をしていた社会構造に階級が出現しているのは、中国と同じだ。日本の戦後も同じ変革を経た。ここではそれが生々しく始まっている段階のようだ。
 家並みの板壁は雨に打たれて古く見えるが、先祖代々その地に住み着き建て替え続けた物とは違う浮ついた感じがある。このベントレの街も、ベトナム戦最大の会戦である「ベトコンのテト攻勢」に反撃したアメリカ軍と南ベトナム軍の砲火と空爆により、徹底的に破壊されている。
 1968年1月31日のテト(旧正月)前日。年最大の祭りの用意に忙しい南ベトナムの各都市に、それまでジャングルのゲリラ戦しか仕掛けなかったベトコンが、正面切って総攻撃をかけてきた。CIAも予測できなかった全面的な奇襲攻撃だった。サイゴンのアメリカ大使館にはベトコンのコマンドが侵入し館内の激戦が、テレビで全世界に放映された。テト攻勢は、カメラマンが命を賭けて撮影した生々しい市街戦の実態が、新聞やテレビで報道された。映像が世論を興した。それまでは米軍が勝利していると信じ込まされていたアメリカ人が、学生を主として一大反戦運動に立ちあがる動機づけをした。それはベトナム戦のターニング・ポイントとなった。アメリカは二分されジョンソン大統領は立候補を断念し、ベトナム戦を終熄させると約束したニクソンが当選した。ベトコンはテト攻勢では敗退したが、アメリカ国民とNATO同盟国国民による反戦活動を決定的として、戦略的な勝利を収めた。
 ベトコンのテト攻撃にアメリカ軍と南ベトナム軍は圧倒的な火力を持って反撃し、それまでジャングルにしていたのと同じ無差別の砲火と空爆を都市に浴びせた。ベトコンは4・5日しか持ちこたえられず、立ち直り困難なほどの損失を被った。
 中部の海岸都市フエだけは25日間激戦が続き特に犠牲者も大きかった。一昨日まで滞在していたフエの街の郊外は墓場だらけ、中心部のホテルに泊まった僕は、悪夢の連続に何度も起き、時には、その時の恐怖の体験が甦っていのだろうか、深閑としたホテルの夜中過ぎ、誰かのあげたが、ゾッとするほど悲しい悲鳴をあげていた。
 このベントレでも、街にこもったベトコンを攻撃したアメリカン人将校が苦々しく述懐している。「街を救うために、街を破壊しなければならなかった」と。ベトナム戦を通して死亡した兵士はアメリカ軍58、183人(朝鮮動乱の約二倍。アメリカ軍はこのように、戦争の記録を厳密にとっている。地雷設置も数量と位置を記録しているので、撤去も可能であることをカンボジャの地雷撤去活動をしている元軍人に聞いたことがある。また戦線での傷病者のケアーと行方不明者の捜索を徹底し、特に補給作戦が重要視されている。人類の戦史を通じて戦場で人肉を食べることのなかったのは、ローマ軍とアメリカ軍だけであったという説も聞いたことがある。旧日本軍での前大戦の戦史者の7割は餓死か病死であった。)、南ベトナム軍223、748人、北ベトナム軍とベトコン約100万人。そして市民400万人が死亡するか傷を負った。それは人口の10%に当たる。多くは北爆による犠牲者だった。ドレスデン・東京空襲+ヒロシマ・ナガサキの原爆投下による犠牲者の合計をはるかに上回る。
 当時は後の戦争の主流となったピンポイント爆撃は未発達で、絨毯を敷くように4トン爆弾を落下し続けるカーペット、ボンビングが無差別に行なわれ、北ベトナムの全ての橋と道路、全都市と6000あった村の4000が爆撃により破壊された。見通しのつかない霧の多い自然環境であったこともあるが、爆弾は密林にくまなく張りめぐらされた、北ベトナムから南ベトナムへのゲリラ補給戦「ホーチミン・ルート」破壊をも目的としていた。投下された爆弾の6%葉不発弾として残った。

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フエの街角にて 

 全くのこと、ベトナムのどこを歩いても戦跡巡りをしていることとなる。20世紀は「戦争の世紀」と言われているが、ベトナムほど長年に渡って国の隅々まで、戦火にさらされた国はないだろう。
 中国の東南端にある広西チワン族自治区から、中越紛争後にフレンドシップ・ボーダーと名付けられた国境を経て到着したランソンの街もそうだった。ベトナム統一後に社会主義政権が中国系ベトナム人を迫害し追い出しにかかり、南部ではボートピープル、北部では陸路伝いに大量の中国系難民を出したことと、中国の同盟国であるカンボジャにベトナム軍が進攻したのに中国政府が反発し、1979年2月に中国軍が侵入した。17日間に渡る中国軍の砲撃にランソンの街は跡形もなく破壊され、再建された現在の街は砲弾による凸凹の残るその上に建てられたという感じで、足を自然に運べない。
 たぶん土地人の多くが夢の中で戦争の記憶が甦っているのだろう、その夜僕は、まだ幼いままの姿で甦った僕の子供が危険な目にあっている夢にうなされた。以来ほぼ毎晩のようにおどろおどろしい夢を見る。沖縄南部でも似たような体験をしたが、ここでの夢の中に登場する魑魅魍魎の跋扈ぶりには、朝起きて鏡を見るのが辛いほど僕を消耗させている。こういう闇の世界が本当にあるんだということを思い知らされている。
 そして前大戦中の日本軍もベトナム人を過酷に扱い、多数の犠牲者を出した。1940年フランスがナチス・ドイツに降伏すると、対独協賛ヴィツシー内閣は、日本軍のベトナム進駐を認めた。その仏印進駐がアメリカを刺激して、石油禁輸、更には開戦直前のハル・ノートを突きつけて、日本軍の中国満州仏印からの全面的な撤退を要求する対抗手段を取らせた。日本の暗号を解読していたアメリカは、これによって日本は開戦し、モンロー主義以来旧大陸の争いには関与したがらない傾向のあったアメリカ国民は大戦に参加すると予測し、その通りになった。旧大陸で辛酸をなめた末に新大陸に移住して拠点を構えたアメリカ人は、旧大陸から攻撃を仕掛けられると過剰に反発するという深層心理を突いたのだ。この手法は9.11とイラク戦にも使われている。
 日本軍はベトナムの戦略的な場所を占め、ニッケル、タングステン、錫、亜鉛等の鉱物資源や米等の自然資源を取り去った。そして日常的には、それまでのフランス人による植民地経営を続けさせたので、ベトナムは二重の搾取を強いられた。日本軍に抵抗したのは、OSS(CIAの前身)から資金と武器を提供された共産党指揮下のベトミンだけだった。ベトミンの指導者は、30年間海外を大型船の料理人見習いから始まり、庭師、雪掻き人、ウェイター、写真修正師、火夫などをしながら流浪し、その過程で共産主義に目覚め、1941年、51歳となって始めて帰国したホーチミンだ。当時のホーチミンは、アメリカがベトナムの独立を認めるだろうと期待していたらしい。
 終戦を目前にした1945年の春に、日本軍は大量の米を日本に向けて送り、またそれまで麻などの軍需産業用農産物の強制栽培とホ河の堤防決壊による洪水も重なり、当時の北ベトナムの人口1、000万人の内の200万人が餓死した。ハノイの革命博物館に、当時の累々と横たわる餓死者や餓死寸前のベトナム人の写真が陳列されている。「JAPANESE FASCISTの圧制より」と正書きがを付けられて。しかもその米を日本に運んだ輸送船は、ほとんどアメリカ軍の潜水艦に沈められたのだ。だからソ連崩壊を受けて実施された経済開放政策「ドイモイ」以前のベトナム憲法には、敵国としてアメリカ、日本、韓国が明記されていた。韓国はベトナム戦にアメリカ軍に次ぐ人員を派遣し、その凶悪犯罪者も含まれていたと言われるタイガー部隊は、ベトコンも恐れるほどの残虐行為を働いた。
 その大量餓死者に関する写真と記事は、中国各地で思い知らされた後にベトナムに入った僕を(日本軍よここでもか)とガックリさせた。堤防決壊も植民地統治者の怠慢と言えるから、日本人は北ベトナム人の五人に一人を餓死させたこととなる。僕のベトナムの旅も除々に(何故日本人はあそこまでしたのだろう)と、自分自身の日本人的性格と、歴史の流れを、数知れない人との出逢いとまだ手元に残った三冊の歴史書を照らし合わせながら探し続けることとなっている。
 
 紀元前より圧倒的に強い国々に侵略されながらも、ベトナム人は独立闘争を続けてきた。モンゴル人の元帝国が50万人で攻め込んだ時には、北部ホ河の引き潮を利用した巧みな水上戦で打ち負かしている。他に当時最強のモンゴル軍を敗退させたのは、日本とエジプトだけだ。
 1、000年間北ベトナムは中国に占領されていたのに、中国の一部とはならなかった。現代兵器で装備された54万人以上のアメリカ軍にもほぼ人力で立ち向かい勝利した。
 今やベトナム戦後のベビーブームもあって人口8,000万人を超える東南アジアの大国であり、アジア通貨危機もドイモイ政策直後であったので影響も少なく、重工業部門は石油輸出国なのにガソリンは輸入する等の段階ではあるが、軽工業、サービス業の活況、そして農業はドイモイ以来生産意欲を刺激された農民がユイマール共同作業と水牛を駆使して、タイ、アメリカと共に三大米輸出国となった。しかもドイモイ後の二人っ子政策は都市住民と公務員には効果があったが、農村は野放し状態のままで、未登録のため教育も資格も免許証も得られない中国の「黒子」と同じ境遇の人口が多数潜在していると言われ、来世紀には確実に人口が倍増する状況が懸念されている。
 この独立への強力な活力はどこから生まれるのだろうか?その問いがベトナムを訪れるずっと前から、僕に突きつけられている。(あの北部から中部にかけての緑したたる山塊と、その麓に執拗に耕されている水田。日本昔物語風の村落。そして南に広がる悠久たるメコン・デルタ農耕地帯。びしっり詰った街と村。バイクと車ひしめく自動車道。これが、ベトナム戦中に、前大戦で世界中に投下された爆弾総量の6倍の爆弾に破壊されたはずの国なのか?)と。
 
 暗くなってホテルに戻った。そこの庭があたりの、これ以上凝縮できないほどまでにちぢまって並ぶ民家の前庭と比べて、とてつもなく広い王宮の庭のように見える。一泊4ドルながら、平均月収30ドルほどで家族を養っているベトナム人にとって、観光客は王侯貴族並の身分だということになる。食堂にたむろする10人ほどの客の半分ほどは、このホテルにも泊まれるだけの収入のある、国内観光ブームに乗った、ベトナム人中産階級だ。
 ホテル受付に近いテーブルに坐り夕食を食べた。単なる焼き飯でも、ベトナム料理の味はしつこくない上にデリカシーに富んでいる。こういう店では半ドルはするが、道端では20セントで食えるという、旅人にとっては食生活に、恵まれた国だ。
 食後のテーブルの隣にホテルのオーナーらしい壮年の男が坐った。50才代半ばに見えるオーナーの名前は「トラニ」と言う。髪は薄いが正面切って見据える目に口髭は、精悍な元将校のような印象を与える。英語を理解する若い男を呼ぶと何か言った。
 「あなたには誰か世話をしてくれる女が必要だ」と青年が通訳した。突然のことでその意味するところが掴めない。キョトンとした僕の目の前で男は左足のズボンをたくしあげ、サンダルを脱いだ。見れば足の甲から指までの左側半分程が欠けている同類だ。「地雷を踏んだんだ」という意味の、手の平を上に向けてパット開くジェスチャーを男はした。
 「明日村で親族の集まりがあるので一緒に来ないかと言っています」と通訳の青年。村の集まりには興味があるから「OK」をした。
 




ベトナム中部フエの駅(フランス時代の建物再現) 

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− 2日目 −
 
 目覚めは、久し振りに自然の中で一夜を過ごしたというのに、やけに重いものだった。夜通し、支離滅裂な上に一貫してフリーキーな悪夢に襲われ続けた。ようやく天国に辿り着いたと思ったら地獄への落とし穴が待っていた、という低落だった。気を静めるためにベッドに坐り呼吸法やら瞑想をしばらく続けた。落ち着いてくると、あれはダイオキシン・ドリームとも呼ぶべき夢ではなかったかと思った。
 ベトナム戦中、メコン・デルタ等には、アメリカの新時代の期待を担って登場したケネディー大統領の命令の下に、742百万トンのエイジェント・オレンジ(枯れ葉剤)が撒かれている。遺伝子障害を起こすことが判り中止されたが、今だに果実が充分実らない地域もあるという。気のせいか庭のバナナの木が萎えているように見える。少なくとも大地の磁場は荒らされている。
 そこにオーナーのトラニが窓のカーテンを外からさっと開けて顔を現わした。「今すぐ行こう」とサインする。(そうだ今日村にパーティーがある。)頭にまだおかしなのが残っているまま彼のバイクの後ろに乗った。
 トロトロ走ったバイクは、まず港近くのカフェに止まった。常連らしい3名の男達が、既に車道に面してしとけなく居並ぶプラスティク・ネットの安楽椅子に坐っていた。同じ村の幼友達なのだろう、毎日OB会をしているみたいな子供っぽさと、各々責任有る立場らしい真剣さが交差する、その日一番目のミーティングには、羨みたいほどの信頼感がある。男の会話の山場が過ぎた頃、カフェのオーナーのグラマラスな中年女性も加わり男に負けずまくし立てた。とたんに男全員がシュンとして「その通りです」とうなづく。
 ベトナムの女性の地位はかなり高い。アジアでは例外的とも言える。ここの格言に「主人の命令も内主の言葉に負ける。」というのがある。10世紀に北ベトナムが中国より独立して以来、よりベトナム的な政策がとられ16世紀の後期リ王朝では、法律的にも家庭内では女性に同等の権利を与えた。当時の中国では、纏足による女性の家庭内奴隷化が一般的であったというのに。フランス領時代より続いた長い戦争の間、女性が生業を支えてきた実績もある。ベトコンの戦線でも女性はゲリラとなって貢献した。今や大学卒業生の半分も女性だ。だが彼女達が要職に就くことは希だ。12人ほどのメンバーで形成される社会主義政府の最高指導機関である「ポリトブロ」には、1945年以来1年の女性も存在していない。中国も同じ「アジア的マッチョ体質」の過程を辿った。
 そのカフェの女主人が「もう仕事始める頃でしょ」とでも言ったのか、4人の男達は素直に、バイクに乗った。僕も直ちに「トラニ」の後ろに乗る。ここの男達は何かあるとパッと行動に移るから、そのタイミングに合わせることが肝心だ。
 
 トラニは村の主道を奥へと注意深いスピードで走って行く。主道とは言っても、向こう側から来るバイクとようやくすれ違える位の幅しかない。その両側の細く浅く土を掘っただけの溝には廃水混じりの水が流れ、その向こうには同じようなバナナや果樹数本茂る小さな庭、開け放しの2階には木のベランダとトタン屋根。それが延々と続く。
 そして主道は一直線だ。たぶん運河がまず掘られ、それが交通の動脈として利用され、道はそれに合わせて作られた。主道は限りなく奥まで続いているし、両側の家並みも、その間から横に入って行くもっと細い道も尽きることはない。かなりの人口密集地だ。自転車と歩行者とも次々とすれ違い、トラニは顔見知りとの挨拶に忙しい。彼はこのあたりの指導者のひとりのようだ。人々は親しみを込めた尊敬の念を彼に送っている。彼は暖かい笑顔で答えている。

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ベントレに渡るフェリー上 

 バイクは主道に沿った大きな庭のある家に入った。ガランとした母屋のコンクリート床の土間に大きな長テーブルが置かれ、その両側に5人づつ若い娘や主婦らしいのが向かいあって坐り、4センチ×2センチほどの薄い長方形のキャンディーを油紙に包む作業をしている。長机の正面には経営者らしい中年女性が同じ作業をしていた。若い頃はかなりの美人だっただろう。色白で知性を感じさせる彼女は、トラニの親類らしい。迎え方が、以心伝心の内輪扱いだ。完全にトラニを容認している。かっての日本にもこんな親族関係があった。トラニは無言のままに、僕を紹介していた。その女性は「これはココナッツ・ミルク・キャンディーで、この村の特産なんですよ」とひとつを僕にくれた。
 オブラートに包まれたキャンディーの味は、本物のミルク・キャンディーそっくりだが、植物性のあっさりした感じがより滑らかに舌に伝わってくる。口に収まり易いサイズ、パッキング模様となっている。旅の非常食にカロリー価が高いし、宿の個室で口寂しくなった時用に、40個入り一万ドンを一袋買った。その長方形にパッキングされたプラスチックの袋には、彼女の若い頃の写真と原料の椰子とリーチの実に、コーヒー香るコップの図柄を組み合わせた可愛い表紙が挿入されていた。
 母屋の外の庭には、贅沢な広さを楽しめるカフェがあった。客は誰も居ず、トラニがコーヒーを運んできた。彼より一回り若そうな男も一緒だ。「ブラザー」だと言う。似てはいるが、弟の方が色白で中国系が混じっているように見える。メコン・デルタは、ベトナム人クメール人中国人と、2世紀より14世紀まで中部ベトナムに半ば海賊的な交易で盛えたマレー人やジャワ人の血の濃いチャム人のメルティング・スポットだ。ひとりひとりが違った顔立ちをしている。
 1世紀から6世紀までは、アショカ王に亡ぼされたカリンガ王国の末裔といわれる東北インド系のフナン王朝が運河を建設し米の生産と運搬に利用し、中国、インドネシア、インド、ペルシャ、地中海との交易で盛えた。18世紀半ばまではアンコール・ワットで有名なクメール王朝の領土でもあった。当然それらの民族の血も混じっている。
 フランス領となってからは中国人移民が大量に流入し経済の実験を握ったが、北ベトナム勝利の後に排斥されてボートピープルの発生となった。その時まで社会を持っていた南インド・タミル民族移民も引き揚げたという。
 陸伝い河伝い海岸伝いで簡単に行き来できる地帯だから、民族の盛衰に応じて、その勢力圏も大きく変わる。混血も進む。メコン・デルタに注ぐ河のように遺伝子も次々と流れ込んでいる。
 庭の常緑樹を眺めながら小さなコップのコーヒーを飲む。ベトナムでもラオスでもコーヒーにはコンデンス・ミルクを混ぜるから、濃く甘く、クセになりそうな味がする。今やベトナムはアジア最大のコーヒー生産国となっている。
 そこに西洋人が10数人、声高に話すベトナム人女性のガイドの英語と共に入ってきた。「メコン・デルタ・ツアーだ」とトラニが言った。教師に連れられた小学生のように嬉々とした一行は、ココナッツ・キャンディーの工場を見学した後に、庭でコーヒーを飲む仕組みとなっているらしい。たぶん小さな舟で細い運河を巡っている途中だ。トラニが立ち上がり僕も彼に従った。僕達はサンダルはいて外出するみたいにバイクにまた乗った。
 
 今度は途中から右に細い横道に入った。そこに立つ家は各々広い庭に囲まれた上にしっかりとしたコンクリート製の一階屋だ。どうやらこの地域の余裕ある階層の人達が住人でいるらしい。その一軒の入口から庭にバイクは入った。いつの間にか後ろを走っていたトラニの弟も従った。下車するとトラニが「自分の物だ」と指をそのしっかりと立つ家から自分の胸の真中に当てた。そのまま家の裏庭の更に広がる庭へと歩いていく。
 聖地のような静まった庭だ。手入れも行き届いている。常緑樹の間の細道を通り、突き当たりの寺のように見える小屋に行き着いた。壁はないが、屋根の下の高い土台の上に、棺桶形をした2つの墓が台座に載っている。墓の頭には写真がはめ込まれていた。二人とも美しい女性だ。「マザー」だとトランはその一人に腕を振った。同行した弟が「トゥー マザー」と二本の指を宙に立てると、二人してカラカラ笑った。たぶん異母兄弟なのだろう。父親のことは言葉が通じないし、個人的なことは、相手が言うまでは知る必要がない。僕はただ墓に向かって手を合わせた。
 その家の向こう側でにぎやかなパーティーが開かれていた。庭にもテーブルが数個並び、家のベランダでも大きな丸テーブルのまわりで人が飲み食いをしている。トラニが宙を泳ぐような歩き方で先導した。あの足で杖なしとは、重力離脱の方法でも知っているのだろうか。
 丸テーブルの椅子に坐らされると「ようこそいらゃいました」の日本語だ。話しかけたのは、60才に近い物腰ながら若々しい肌をした彫深く色黒のクメール系に見える女性だ。それから彼女はテーブルに並ぶ豪勢なベトナム料理を皿に取って僕に捧げると「週末なんか500人ものお客が来るようなニューヨークの大きな日本料理店で、30年間ウェイトレスをしてたんですよ。」と流暢な英語に切り変えた。
 「これはどういうパーティーなんですか?」「親戚の集まりよ。私達が里帰りしたので」と僕の隣席の夫だという、これまたツヤツヤとした肌の若々しい老人を紹介した。彼は中国系の血が濃く、もうかなり酔っ払っている。楽しくて仕方ないといった好々爺(コウコウヤ)ぶりだ。「もう少したらこの村に永遠に戻るんですよ。もう家も買ってあるし」と人生の輝けるゴールを目の前としている。ここまで来るのにすさまじい苦労をしてきたのに違いない。「3人の子供たちはアメリカ人になり切っているから無理でしょうけれどもね」と妻が少し寂しそうに付け加えた。

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メコンデルタを流れるメコン川支流をベントレに渡るフェリー 

 「中国語は話せませんか?」と僕の正面の小柄な、純血らしい中国人が話しかけてきた。彼だけがその場のノー天気な雰囲気に染まっていない。国際的に通用する知性を持っている、という彼のスタンスが皆を近寄り難くしているようだ。
 「中国を半年間旅行したのですが、始め筆談が通じたのでそれに頼り、そのままでした。会話もトライしたのですが発音が難しく、ギブアップしたんです。」
 「今進行中の中国と日本のトラブルについてどう考えていますか?」
 (来た!)と思った。中国本土の中国人は、かっての体験から政治的な話題を習慣的に避ける。壁に耳ありだ。唯一の例外は、一人っ子政策の徹底されている都市の、日本や韓国の中産階級と同じ豊かな環境で、我がままに育った若い世代だ。彼等は人の目を余り気にせずに、直接この問題に突こんでくる。排日デモ隊や日中サッカー試合のフーリガンもこのタイプが集団となって形成されていると思う。
 だが一番手強いのが、西欧社会で生まれ育ち、高等教育を受けた後に知的産業に従事している華僑の二世三世の、ルーツ探索中に出くわした時だ。漢字の読み書きも不得意となっている世代だから、まっ先に辿り着くのが現代中国のルーツ、「抗日戦争」だ。それ以前の歴史は、おぼろ気に誇るという程度の実感しかないように見える。このテーブルの向こうの中国人には、年期の入った手強さがある。
 
 その午後のパーティーのテーブルの向こうから質問してきた年配のインテリ華僑にも、中国で繰り返した華僑インテリ相手の話を圧縮して話すこととした。これも過去と現在の日本人の行為のツケ払いだ。
 「私は今回辛い思いをしながら前の戦争の跡を辿りました。そして中国人がその記憶を深く心に刻んでいることも知りました。犠牲者の側は子孫に到るまで傷つくのです。それは沖縄戦、東京空襲、広島長崎への原爆投下も同じ結果を生みました。日本では、ただ勝者によって語られる歴史によって隠蔽されているのに過ぎません。残酷な死、その瞬間の怨念。生き残った者の心に刻まれた傷。私は戦争を反省し、そのメカニズムを理解して平和に役立てたいと思っています。 過去は変えることができません。しかし歴史の最も深い恥部から学ぶことができますと私の滞在中に国共内線以来始めて中国を訪問した、共産党のかっての仇敵、台湾の国民党党首が言っています。日本も中国もこれだけ近い距離に居るからには、戦争より平和的共存の方が互いに大きなメリットがあることは当然です。そして近いからこそ東シナ海の領土問題と領海問題は、今最も警戒すべきだと思います。この前の戦争も領土問題が発端となっています。
 今中国は日本の最大の貿易相手国となっています。そして中国と日本の間を年間400万人の人間が相互に行き来しています。民間レベルでは既にその方向に向かっています。私は、経済的にだけではなく、無数の人間の生身の交流が状況を開く別の回路となるのではないかと期待しています。その流れを広げるためには、旅の体験を書きウェブ・ページやミニコミに発表もしてきました。ささやかな行為ですが、あのような過去を繰り返さず、両国が普通の隣人関係を持つために、私が今できることだと思っています。
 私の中国旅行中に、中国のテレビも新聞も排日キャンペーンを煽あおり立てていたのに、私も、他の日本人旅行者も何の被害も受けず、代りの多くの人に親切にして頂き、たまたまその問題を話した中国人のどちらかと言えば過激な若者たちとも紳士的な対話をすることが出来ました。中国人の個人を大切とする伝統は政府の宣伝よりも優先されているようです。そして年長者に属する私を、それなりの人間的な体験を積んだ者として敬意を払ってくれました。抗日戦、国共内線、建国、大躍進政策、文化大革命、経済開放という激動の時代が続いても中国人は冷静なバランス感覚を失っていません。互いにそのレベルで交流したいと思います。」と伝えた。
 
 他の人も居たのでさり気なく、外交辞令も込めて僕は話した。中国から離れたせいか、よりトータルに見える。その内容をテーブルの向こうの中国人は分析している。と同時にこの席でこの話題をこれ以上続けても良いのか判断しようとしている。その様子が僕の友人のひとりにそっくりだったので、「もしや貴方はコンピューター関係の方ですか?」と聞いてみた。「そうです。それも初期からずっとコンピューター・プログラミングをして来ました」「ベトナムで、ではないでしょう?」「かなり前に、戦争より前に香港に出て、それからはアメリカです」ということはかなりの年齢のはずだが、少し皴がある位で見かけは若いコンピューター技師と変わらない。彼は、幼馴染みの里帰り里帰り中の夫婦とアメリカで偶然に再会し、久し振りのルーツ・トリップに同行したと、少しくだけた調子で話した。僕もヤレヤレと気がほぐれる。
 
 それからは次々と酒が注がれ、ここの風習らしく半分干すと残りを相手に差し出す方式だから、何度もやりとりしている内に酔いが回ってきた。
 そこに里帰り中の妻の方が一人の年配の女性を連れてきた。「私の義理の姉です。彼女の夫は悪い人で子供3人残して消えたんですよ。彼女は一人で子供を育てて、今は孫の面倒を見てるだけ。私達は彼女のボーイフレンドを探してるところなんです」身につまされる話だ。聞けばその僕ぐらいの年齢の女性は、トランの妻の姉であるという。ふっくらとした優しい風貌がそっくりだが、こちらはやはり暗い。(これお見合いさせられているのだろうか?)と思うと急に酔いがさめた。かって僕は女性にも尽くしたがひどいこともした。そして三下り半を突きつけられた末に遁走し続けている、女性からは(死ぬ前に地獄を見ろ)と宣告されたも同然の(悪い男)だ。ベトナムでそのツケ払いをしろということなのか?
 
 夕方に部屋に戻るとカーテンを閉めフケ込むこととした。この前多くの人と飲み食いしたのはベトナムに入る直前の、中国最大の小数民族の首都ナニン(南宇)で、土地の若い芸術家達と飲み明かした時だった。久し振りの集団陶酔に興奮している。そして南北に長いベトナムを二週間で横断した疲れも溜まっている。
 だがベットに横たわる間もなく、トラニがカーテンを開けた。「君に会いたいという人がいる」という風に僕をつれ出した。広い庭に点在する仕舞しもた屋のひとつに、40才前後の男が両側に若い女性を侍らせて飲み食いをしている。トラニが「フレンドだ」と言う。もう一人同席している若い男は、控え目に距離を置いている。彼の助手らしく吸っているタバコは僕と同じ安い奴だ。
 その中心人物はしっかりとした英語を話した。眼科医だと言う。「今日しんどい手術をしてきたのですよ。緊張は酒と女でしかほぐせません。失礼の段はお許しを」とかなりの酩酊状態だ。両側の女性はここでホステス役をしているらしい。若く美しい上に、仕事で疲れた医師を優しくケアーし、次々と酒を運んでくる。「これは蛇の血を混ぜた奴で、これはトカゲを漬けた奴です。昔からの薬酒で体に良いですよ」というのを僕も次から次と飲み干した。炭火に乗った鍋にグツグツと溢れる草魚と野菜がツマミとなる。
 「メコン河の上にイカダと家みたいのが浮いてるでしょう。あれは草魚の養殖場で、家の土台の下の水槽で草魚を育てているんですよ。4ヶ月で育つらしいです。メコンも魚が獲れなくなって、魚料理といったら草魚か海からのエビかイカになりました」でも草魚は時にクルリとした皮の口当たりが気持ちよい。淡泊な身も旨い。
 
 そこで酔いを更に深めていた時だった。仕舞しもた屋の角に一台の黒光する新品のバイクが止まった。その場の全員の緊張したのが目にとれた。下車して帽子と白い覆面を取ったのは、夜目にも鮮やかな美人だった。インド系の血が混じっているのだろうか、それもドラヴィダ系の黒い肌にアーリア系のしなやかな肢体を合わせ持っている。神秘的とも言っても良い気を漂わせて僕達の方に歩いてくる。トラニが途中まで恭しく迎えに行った。
 そして彼女は僕の隣に坐ったのだ。肩まで肌露き出した黒いTシャツの胸元には小さな赤い肌した金髪の女の踊る姿が反射していた。それ以外は足元に到まで黒一色だ。彼女の美はその場を静めた。トラニがひっそりと彼女に話しかけている。それがマントラのように聞こえる。彼女はエレガントに頷いている。肩を覆った黒髪が夜のメコンのように流れている。その場の時は彼女の存在に飲まれていった。僕は彼女に目も当てられなかった。目で確かめなくとも感応しているのだ。しばらくすると酔った勢いに乗ったドクターが明らかに僕のための英語でうなった。「彼女は美しい。しかも金持ちだ」
 僕はどこかで彼女のような存在に出逢ったことがあると記憶をたどっていた。凄味と優しさの両極を行く美。そしていつしか想いはインドに戻っていた。そうだ、ガンジス河のデルタ地帯で圧倒的に崇められている女神カーリ。全裸の黒い肉体をそそり立て、頭上に上げた右手は血塗られた半月刀を高々とかざし、下げた左手は男の首級の髪を握り、ぶら下げ、首飾りも男の首級、片足は仰向けに横たわる彼女の夫シヴァ神の胸を踏みつけている。シヴァは優しい笑みを浮かべたまま昏睡している。ガンジス・デルタの女神カーリ。それが僕の跡に居る。
 とたんに彼女はカーリのように舌を大きく前に突き出した。その肉の赤さが、彼女を血の流れる存在とした。その場の全員がホッとして、再び飲み食いダベリが始まった。彼女の食欲は旺盛だった。そしてその会話が庶民的なウィットに富んでいるのは、言葉を理解しなくとも察せられた。当初息を呑んだ美しさは、その場の気にまぶされて、他の二人の女の子のように皆を盛り上げるために発散されているように見えた。
 
 そして宴たけなわとなってきた時だった。突然トラニが厳かに彼女の手を取った。そしてもう一方の手で僕の手を取り、彼女の手を僕の手の上に載せた。ハッとして彼女の方を始めてみると、彼女は当初の凄味ある美しさをうねらせている。その手は空気みたいに軽く何らの意思表示もしていなかったが、僕はその手の先に連なる肉体が充実しているのを感じ取っていた。
 それからの僕は全くの上の空のままだった。有り難過ぎるほどの光栄に酔いが更に深まった。その場から引き下がっても、彼女の心に感応し続けていた。
 その夜僕は、久方振りに悪夢を見ることなく熟睡した。

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− 3日目 −

ベントレのTNゲストハウスに行く細道 

 目覚めると窓の外には一面にものさみしい雨が降り注いでいる。ベランダに椅子を出し地を打つ雨を眺め続けた。昨日の暑さは消えている。庭のバナナの葉がツヤツヤと生き返っている。土も洗われ、肌をぬめらせている。メコン・デルタは、優しい茶色に染まっている。
 雨は僕の中をも流れ続けた。あれほどの土地を訪れ、あれほどの人達に会い、あれほどの出来事が起こった。その記憶は、絶え間なく流れる宙空の大河みたいな、雨に洗われ続けてきた。それでも地表に居残りきらめいている砂粒の結晶のように甦ってくる。
 たぶんトラニは僕をここに引き留めたいと思っている。最初会った時から、お互いが深いところで感応し会う、言わば神話的な兄弟の関係を認めあっている。彼は僕がこの女と一緒になればここに落ち着くだろうと思っている。それはとても深い旅となるだろう。かって僕は土着的なものの強い土地で、そこの結晶みたいな女との旅にのめり込んだことがあった。勿論若さ溢れる頃だった。一目で運命を感じた男の友人を通してだけ知ることのできた、そして彼を通したから現地社会からも許容された、土着的な凄味のある女と、とことん関わった。互いに、これまで味わったことのない甘露をむさぼり合った。とことん尽くし合いひどいこともし合った。ある日突然、地底の底から押し出されたみたいな旅に出た。その時彼女も僕も生涯に渡って残る傷を負った。友人も僕もすさまじく寂しい思いをした。どうして別れなければならなかったのだろう?
 たぶんその答えはこの豪雨に流れる結晶の放つ光にある。カーリの胸にきらめく首飾りのような結晶。その光の交差する、水の流れに。
 
 とうとう雨は僕を横に倒した。カザフスタンから陸路ジグザクに6000キロメートルは南下し続けた。途中で、止まったのはベトナム国境の手前ナニン(南宇)に10日、ハノイに5日だけだった。他に乗り換えのため1日から3日間ほど数ヶ所に泊まったが、寝台バスと寝台列車を基本としても、往々にして予約が取れずに、硬座と呼ばれるすさまじく混み合った鈍行の座席だけの列車で移動しながら夜を過ごすことも多かった。その疲れが溜まっている上に、極端に乾燥した大陸内部から高温多湿の東南アジアのモンスーン期へと飛び込んだのだから、体質も順応し切っていない。ベランダからベッドに戻るとそのままストンと睡りに落ちた。
 
 遠慮がちにドアをノックする音に目を覚ました。もう雨足の豪音は止んでいる。下働きのクメール人のおばさんが盆にヌードル・スープを載せて外の廊下に立っている。「注文していないよ」「いえ、奥様が心配して」という仕草のやり取りをしながら、有難くそのデリカシーを腹に流した。トラニが「明日は仕事で一日中飛び回っているから」と昨夜言ったのを思い出した。彼の妻が代りにケアーしているのだ。細やかな心使いが身に染みる。
 トラニの妻は観音菩薩みたいにふくよかな容貌と慈悲心に溢れている。僕がミトから汗だくでここに辿り着いた時、最初に迎えてくれたのが、メコンのゴット・マザーと呼ぶに相応しい彼女だった。
 その人柄の料理したヌードル・スープに力を得て、ハノイ以来貯まりに貯まった洗濯物をバケツに放り込み、面倒臭い時にやる足踏みするだけの押し洗いをした。しばらくバスルームのシャワーの取手にぶら下げて水を切った後、扇風機の風の当たる場所にロープを張ると部屋中を洗濯物で飾り立てた。かって自分の家を持っていた時にはインテリア・デザインに凝り、毎日のように飾りや家具の配置を変えて限られた空間に物語性を持たせようとしたものだが、今の僕には雨模様の日に洗濯物を室内に干す位の美意識しか残っていない。
 その旅人の脱いだ、出来の悪い人墨入りの肌みたいな洗濯物を眺めながら、昨日一日だけでも明らかに伝わってきたベトナム人の濃密で常に継続するデリケートな人間関係を想った。街の郊外の集落でさえ、すごく部族的だ。
 
 それから再び寝込んだらしい。起きるともう外は暗くなっていた。部厚い雲と空気に充満した水気が、月も星も町の灯もあらゆる光を吸い取ってしまうから、ベランダの先は奥の計り知れない闇また闇だ。モンスーン期のメコン・デルタの夜。それは、巨大な謎に肉づけられた胎盤のように僕を包んでいる。
 トラニの妻をこれ以上心配させたくなかった。一日一回はレストランに顔を出したかった。旅のファミリーは宿舎のスタッフということになるけれど、ゴット・マザーのいる宿などは滅多に有りはしない。それにベランダから闇に満ちた世界を見つめていると、昨夜のカーリの、胸元にだけ小さく踊る赤い女の図柄をあしらったTシャツの他は黒一色に包まれたしなやかな肢体を出現させた時のことや、僕の隣で舌を突き出した時の激変ぶり、トラニが彼女の手を僕の上に載せた時の心うねらせる美しさ等の情景が、次々と甦ってくるという、旅人にとって最もヤバい女性による分裂症状に陥ってくる。(あれはトラニの仕掛けた冗談だった)と軽くあしらおうとしても、いつしか彼の予告した「次の日曜日には、オール・メンバーで大きなパーティーがあるから」の言葉が駆け巡る。その時に、カーリと再会することを夢見ている。それは明後日のことだ。
 全くのこと、夜ごとに襲ったダイオキシン・ドリームの魑魅魍魎が去ったと思ったら、お次はとびきり危険なカーリの幻影が、目覚めていても僕を覆い尽くしてくるのだ。女に肉体のめり込み、ピロウ・ランッジ(枕言葉)であってもなんとか通じるようにカンを磨ぎ澄まして寝物語をしていた頃の若さは、もはや僕から失せている。カーリーとも昨夜の抽象的な物語以上は進展しないのが判っていながら期待しているのだ。エロスとはかくも執拗に人間を揺り動かし続けるものなのか?
 これは観音様にすがるより外にないと、僕はモンスーンの夜に沈むホテルの庭の敷石と小さな丸い橋を渡った。ゴット・マザーは、先に唯一きらめく電燈の下にいる。
 母屋の格別に広い入口のベランダは、いつものようにテレビが点き、ゴット・マザーは小さなテーブル、娘は安楽椅子に沈み、(あー大丈夫だったのね)と迎えてくれた。
 
 料理の運ばれてくる間に脇の棚に旅行者が置き去った本をまさぐると、日本人のバック・パッカーのほとんどが持ち歩いているガイドブック「地球の歩き方」の古い版があった。僕はこの日本の経済に影響力のある出版社発行の本は(海外をこの程度の安いヴァカンスだけで過ごしなさいね。余計なことをすると危険な目に合うし、余計なことを学習して自分で考えるようになったら日本で再びバイトに精を出せなくなるからね)という、江戸時代に首都の労働者のストレスを発散させた「お伊勢参り」と同じ、ライフ・スタイルへのガイド・ブックだと思っていた。だが、英語のガイドブックでは巻頭にかなりのページ数を使って記述している、ベトナムの歴史政治社会情勢の分析が、この日本語ガイドブックにも申し訳程度に巻末に短くあった。専門家によるものだから読み応えはある。その論文の中に「王の法も村の掟に負ける」と、昔よりベトナムの農民の殆どが自分の農地を持ち、王国より与えられた土地は共有地として管理し、村は大幅な自治権を持っていたことが記述されている。僕はベトナムの農村は列車の窓から見ただけというお粗末な旅をしてきたが、このベントレの街の郊外の村落を垣間見ただけでも、民衆は自分達の居住圏では自由に振舞い決定権も持っているように思える。今だに社会主義国だからイザという時にはお国が絶対的な権力を振るうだろうが、庶民の日常は国家不在の、アナーキーなものだ。
 イギリス人の女性作家の出版した別のガイドブックには、その自治組織がフランス植民地政策の鉱山開発やゴム園等の産業作物の栽培に農民が駆り立てられ、更には、酒と塩と阿片の専売により日常生活まで絞り取られ、阿片中毒者も激増して、それまで殆どの人が読み書きできたのが識字率20%にまで落ち、90%以上が土地を失い、鉱山やプランテーションでの死亡率も異常に高いという悲惨な状況にまで追い詰められたという。その結果流民化した農民が、ベトコンの前身である抗仏ゲリラ組織ベトミンの母体となった、とある。このような記述は「地球の歩き方」にはない。
 それをしたら日本人バック・パッカーが、流民の集団であるという階級意識を持つ。つまり、外人労働者の受け入れを制限し、代わりにフリーターを使うという国策に気づく。更に歴史的に日本軍は米の略奪で北ベトナムに200万人の餓死者を出したことにも言及しなければならない。その論文は日本軍の占領期をポカッと抜かしてベトナム戦に入り、ベトナム軍のカンボジャ撤退後の1992年より日本がベトナムへの援助額の40%を占めるODAの最大供与国となっていると続いている。その裏には、フリーターを兵隊に転用するという国策もあるのでないかと疑ってしまう。
 
 夕飯を食っている頃から隣のテーブルに丸っこい40才がらみの西洋人の男が坐り込み、しきりに缶ビールを干している。酒のせいだけではない赤っぽい肌をして、明らかに普通の白人とは異質の、先住民的で土臭く人間臭い気を漂わせている。しかも知的な気配りをしている興味深い人物だ。彼が何か話したいようだったし僕もそんな気分だった。食後にちょっとしたきっかけで席を共として、他に英語の通じる者のいない空間で、飢えた犬が路上に捨てられた残飯をパクつくみたいに話し合った。
 アイルランド人の生物学者で夏の2週間の休暇旅行中だという男は、まず丸い顔に光る丸い目を更に輝かせて「昨日クチに行って来たんだよ。例のベトコンが籠もった地下トンネル基地。元々農民が逃亡用に作ったものだ。竹カゴとクワだけで掘ったトンネルは全長240キロメートル。そこに3万人のゲリラ部隊が常駐したんだよ。サイゴンというアメリカ軍と南ベトナム軍のヘッド・クウォーターのあった都市から、車で一時間の所に。僕の身体では通りづらい位の細く低いトンネルが縦横に張り巡らされている。司令部といったってハンモックと机だけの質素なものさ。もちろん病院もあるし、地下水を使う調理場もある。その煙はバレないように分散して外に出したんだ。アメリカ軍もの存在を知ってはいたが、最後まで所在を掴めず進入できなかった。枯れ葉剤や貫通爆弾を投下したが柔かな上に引きしまった粘土質の大地の壁は、それを途中で包み込んでしまった。小柄な兵士と犬を使ったクチ攻撃専門の特殊部隊まで養成したんだが、ベトコンはアメリカ兵のシャンプーを使ったりしてはぐらかした。何しろそこら中に、猟獣用の落とし穴が仕掛けられ、そこに落ちたアメリカ兵は、底に突き出た竹や木や鉄の杭に貫かれる。その断末魔の悲鳴を聞いたベトコンはその場所を包囲してアメリカ軍コマンド部隊は全滅の憂き目に合う。たとえクチの入口を発見しても中に何が仕掛けられているかが判らないから、外から爆弾を投げ込む位しか出来なかった。あのムッとする空気のこもる穴に籠もって10年間もゲリラ戦を続け、しかも世界最強の軍隊に勝った。トンネルはアメリカ軍基地の真下まで届いていたんだ。戦略もすごかった。ソ連と中国からの物資を南ベトナムに送るホーチミン・ルートの補給路はどこを爆撃されても脇道を使えるように、アメリカ軍のパイロットが(まるでスパゲッティーだ!)とアングリするほど絡まって作られた。人力ってすごいね。人間の知恵もすごい。何よりも愛国心や民族主義はすごい。クチは世界史に誇る人民の金字塔だ。アンダーグランドな闘争から独立を勝ち取ったベトナム人に乾杯!」
 突然にアイルランドの酒場に紛れ込んだみたいな景気の良さだ。クチは、サイゴンからのツアーでしか行けないので僕はパスしたが、次回は必ず訪れよう。
 
 彼も僕も歴史書を読むのが好きで、その現場を訪れるのはもっと好きだ。そして二人共、歴史を知らなければ、自分自身を知ることが出来ないと思っている。だからその夜の話は、まるで人類史を辿るみたいに、ベトナム戦をきっかけとして、それにまつわる民族主義の流れのめぼしい出来事や冷戦構造、はては第二次大戦からそれ以前の人類史まで次から次へと、逆登って行った。人類史を通じて男は戦い、その栄光を語り続けてきた。だが僕達は個人で旅する者だ。集団的な戦闘を生理的に嫌悪する。話をするにつれて民族は戦争によって発展してきたという重い事実が、あたりの闇につめ込まれていった。(何故人類は戦争を続けてきたのだろう?)という疑問に、アイルランド人は生物学者らしいあっけないほど単純な結論を行った。

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カンボジャ行きフェリー港に行く途中のマーケット 

 「男の遺伝子を読むと、現人類の前の人類の男の遺伝子は全く残っていないという。つまり殺されて絶えた。アフリカ等で発見された彼等の頭蓋骨には大抵武器でやられたような穴が開いているという。チンパンジーもメスを得ると、以前のオスとの間に生まれた子を殺すらしいから、自分の遺伝子だけを繁栄させたいというオスという種の本能なのだろうか?どうやら前の人類は植物の根を採取して平和な定着生活を送っていたらしいが、今の人類は狩猟を主として武器と、集団的な狩猟をするための言葉を発達させ、移動する戦闘集団となった。このあたりに遊牧民が農耕民を襲って支配するパターンの原形があるのかも知れない。」
 「そして勝利した民族は敗北した民族の女を得る。特に強い戦士は多くの女をね。(英雄色を好む)ってやつだ。だからジンギスカンの子孫だけで2000万人は居るだろうと言われている。戦闘的な遺伝子は増える一方だった。トルコからインド西部、中央アジア全域を征服したチムールも、インドにムガール王朝を建てたバブールもジンギスカンの子孫だし、イギリスのチャールズ王子の遺伝子の数パーセントは彼のものだ。ロシアの専制君主ツアーはモンゴル帝国の税金徴収役との婚姻関係で権力を得て、その後イギリス王室とも血脈を通じているからね。」
 「元来ヨーロッパの王族はヴァィキングが主流で、それにゲルマン人やローマ人等のやはり戦争と植民地支配のうまい民族の血統が混じっている。ジョージ・ブッシュもその血統だ。ヘンリー3世、そして祖父はアメリカ軍の将軍だった。マイケル・ムアーがそれを辿りホームページに載せている。」
 
 夜も更けた。テーブルに、彼の飲み干した缶ビール10数本と僕の薬酒のペットボトルの小瓶3本が虚しく立っているだけの静かさだ。あたりの人影も消えた。僕達の声も時折低く漏れてくるだけだ。それも、雨後のドップリ水を含んだ土に吸い込まれてしまう。
 「どうやらシンフェインが武装解除するらしい。今回は本気みたいだ。僕達の北アイルランドもベトナムみたいに独立のためのゲリラ闘争を続けてきた。1970年頃から30年間もね。僕の家族は典型的なアイリッシュ・ビッグ・ファミリーというだけで何ら政治的なものはなかったんだ。それでもある日父親が突然消えて40日間戻らなかった。イギリス人の対テロ法で拘束されたんだ。僕が子供の頃、真夜中にドアーが破られ、完全武装の特殊部隊が母親を連れ去ったこともある。まったく普通の政治色のない家族でこれだ。」
 「僕はイギリス人のジェントルマン・シップというのが好きだ。でも政府は別ものだ。イギリス国民に対してさえも冷淡そのものだ。シンフェインは自治権について政府と交渉しようと申し出た。政府は応じなかった。どんな国家も自分以外の暴力組織を認めないからね。シンフェインはロンドンで爆弾テロを続け、多くのイギリス人が犠牲となった。それでも政府は応じない。そこでシンフェインは全国の鉄道が麻痺するほどの一斉攻撃をしたんだ。そこまで行ってようやく政府は交渉のテーブルに着いたんだよ。つまり国民の命より国家の機能の方がより大事だということさ。」
 紛争地帯で育った者の証言だからリアルに迫ってくる。大雨の後の夜の酔いだ。樹木は闇に見えない触手を延ばして僕を巻き取り、ベットに押し戻そうとする。だが彼は酒に強いアイルランド人だ。 
 

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− 4日目 −


メコンの支流(向こう側、対岸はカンボジャ現地人のみが横切れる国境) 

 空から地へと垂れ込んだ濃い雨雲みたいに、昨夜の酒が頭骨の中に溜まっているままの朝だ。身体が動いているのに気がつくと、生乾きの洗濯物をリュックに詰め込んでいた。洗濯用ロープを部屋から外した。これで乳母車に荷を固定した。
 そこまで旅仕度が調った後は、例のように部屋をウロウロし、ついでに忘れ物をチェックする。
 そしてただベットの端に坐る。囚人が獄舎のドアーを見続けるみたいな時を過ごす。
 外の世界の気配を窺うかがいながら、自分に(あれは幻影・マーヤであったのだ)と繰り返し言い聞かせていた。(誰かと深い関係を持ちたい。コミュニティーに属したい。実生活のノウハウと休める家を持ちたい)と、旅が長引くほどその逆の願望も強くなる。その時に現れるマーヤに手を着けたが最後、僕の旅の地平線は消える。そう自分に言い聞かせていた。何かを得ることは何かを失うことなのだ。そして今の僕には、マーヤの深淵から再び脱け出るだけの衝動的な若さはない。
 だからマーヤから(逃げろ)だ。(でもどこへ?)(メコン河へ。船に乗ってプノンペンまで逆登るのだ)そんな思考が、分厚い雲の隙間を突き抜けた光の筋みたいに、頭骨の中で交差した。そして僕はドアを開けた。マーヤの部屋を出た。
 母屋の受付前のロビーには、トラニを除くホテルのスタッフ全員と昨夜のアイルランド人が集まっていた。(やっぱりだね)と僕の旅姿を迎えてくれる。別れ際にトラニの妻が、前面にホテルの名前の赤くプリントされた、真っ白な野球帽をプレゼントしてくれた。その白さは、カミカゼ・バイク流れ続ける都市の夜道を横切る時に目立つだろう。くすんだ色ばかりの僕の旅の服装に、初めて純白と赤が加わった。
 ホテルを出て細道を行くと間もなく、向こうからバイクに乗ったトラニが近づいてきた。信じられない、と言った面持ちで、「明日パーティーがあるのに」と飲むジェスチャーをした。「パーティーは勘弁してくれよ」と僕は一人身で旅を続ける決断を伝えた。このあたりは感応し合って、言葉で伝えるよりも互いに深く理解した。「どこへ?」「プノンペンへボートで」「港まで送っていくよ」
 リュックはバイクの運転席前の床に置き、畳んだ乳母車は僕の肩にかけた。走るに連れて彼の寂しさが伝わってくる。このまま別れるのは余りにあっけない。彼もそう感じたのだろうか「カフェに行くか」と港の反対側にハンドルを切った。
 一昨日の朝と同じコンデンスミルク入りのレギュラー・カフェにレギュラー・メンバーの男達3人が坐っていた。だが今日はどうしても会話が盛り上がらない。トラニが沈んだままだ。カフェのオーナーのグラマラスな中年女が気を回して冗談などを連発するが、笑いはすぐに冷めてしまう。コーヒーを飲み終わると、トラニが紙に何かを書いた。「メコンを渡った向こうでこれをバイクタクシーに見せるように」とその紙片を僕に渡した。チャオドックの文字、残りはベトナム語だ。それは、プノンペンへの船が出るチャオドック行きのバス停に僕を連れて行くようにと、バイクタクシーに頼んだものだった。
 メコン河を横切るフェリーは着岸していた。トラニはゲートまで歩いて僕を見送った。その時始めて、辛そうに片足を引き摺って歩いている彼の姿を見た。何かを言ったら涙が出そうな二人だった。フェリーは、二人の距離を離していった。
 
 上空は黒い雲に覆われていたが、メコンの河面は明るい茶系統の色を流し続けていた。この河とその水の運ぶ豊かな玄武岩系の土が、メコン・デルタを世界有数の豊かな地域とした。乾季の20倍以上の水量に満たされたモンスーン期のメコン河が、有史以前から繰り返しデルタに水と土を補給し続けてきた。堆積した泥が、湾を陸とした。そして人間は有史以来、運河を建設し続け、この地の豊かさを享受し、その豊かさをめぐって数々の戦争を巻き起こした。
 フェリーのベンチに坐り、人間にとっては歴史の流れでもあるメコン河を眺め続けた。そして、この理想郷にも見える地帯にも落着けなかった自分の人生を、流れに写した。トラニが同情してくれたのは、そんな僕の流れ流れて跡形もなくなる虚しい人生なのだろう。でも跡形の残る人生はどうゆう結果を残すのだろう?家族やコミュニティーや財産や名声を残すこと、その蓄積が権力や武力となってすさまじい管理や破壊をするのではないのだろうか?
 感傷的となって水の彼方を見ている僕に、隣の丸く可愛らしい感じの中年女性が話しかけた。ここにも人の心に敏感な人がいる。「どちらに行きます?」「チャオドック」と答えてトランの書いた紙片を見せた。しばらく紙片を見つめていた彼女は、ベトナム語の判らない僕にどう伝えようかと考えている様子だった。それから、両手を上げ、指を全開とした。3つのゼロを省略する一般的方法で、10本指は1万ドンを意味する。
 そんな二人のやりとりを見ていたのだろう。たちまちフェリー上のバイクタクシー運転手の一人が近づいてきた。陽に焼け切った顔は、ハイエナを想わせる。大都市で群がるバイクタクシー運転手にこの極めてハングリーな素性が紛れ込んでいるが、このあたりでは始めてだ。それは流れに流れる落人おちゅうどのものだ。
 これまでの僕は、「歩く」という彼より更に下のレベルに降りて彼等の接触を避けた。歩く途中で土地の人と気持ちの良い交流ができるという旅を選んだ。だが今回は、トラニのくれたバイクタクシー宛の紙片を役立てたかった。すさまじい眼つきで僕に迫るその運転手に紙片を見せると、2万ドンと2回両手を開いた。こちらが一回開くと両手と片手の1万5千ドンに降り、荷物があるじゃないかと指さした。面倒臭くなったから、「じゃ歩く」と交渉を断った。
 そのやりとりの間に、僕の感傷は吹き飛んでいた。最早、振り返る余裕はない。次の一歩には、対外人ゲリラが待ち構えているかも知れないのだ。外貨で換算すれば一件ごとのボラレ額は少なく見えるが、それを容認したままで行くと、トータルには莫大な支出を強いられる。だから僕は現地レートに固執して、それが駄目なら利用しない。
 間もなくフェリーが対岸に着こうとしていた時、例のバイクタクシー運転手が再び近寄り両手を一回開けて1万ドンを示した。
 30がらみの年令なのに歯が一本しかない顔は芝居がかった哀願の表情に変わっていた。(彼は戦争孤児かも知れない)という直感と、ここまで交渉して断ることは出来ないというコミュニケーションの流れに従って、僕は荷を彼の運転席の足元、畳んだ乳母車を肩として後ろの席にまたがった。彼はここでも珍しいヘルメットをかぶり、フェリーが岸に降ろした先端部を下り街に乗り入れた。歯がほとんど欠けているのは、以前交通事故に合ったからかも知れない。走り出してからは完全に彼のペースとなった。運転席前の僕の荷を揺らす。荷が無賃乗車であることを見せつける。交通量の途端に増えた大きな街で、接触寸前の荒技を振るって僕をヒヤリとさせる。それがベトナムで始めて乗ったバイクタクシーだった。
 20分もして到着した商店街の小さなミニバス事務所のマネージャーから2000ドンの、客を連れてきたコミッションを受け取った運転手は僕に1万5千ドンを要求した。荷物代5000だと、恫喝する様も芝居がかっている。僕は毅然とした態度を取れなかった。彼の続けてきたバレバレの演技に負けた。激動のベトナムをサバイバルしている演技に。僕は彼の言い値を払った。彼は、何も残さない影のように消えた。
 

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イミグレーションのなかったカンボジャに渡るフェリー 

  ミニバスはほぼ満席だった。一様に色黒で頬と肩と腰の張り出しているカンボジャ人の一族7人程が、既に席に着いていた。坐ることもできず二人分の席に横たわっている衰弱した老女を中心にして車内につまっている。彼女の子供達と孫達のような一団は、メコン・デルタ少数民族特有の静けさに固まっている。他に3人のベトナム人がガンボじゃ人一行を無視するかのように素気なく坐ってる。僕が一つだけ残っていた最後尾の窓側の席を占めると、ミニバスは出発した。チャオドックまでは4万ドン。10万ドン札を渡すと「釣りがないから後で渡す」と車掌役に言われた。さっき払った人の小銭が有るじゃないかと言おうとしたが、成り行きを見ることとした。下車する時まで憶えているのは負担だが、これは僕の対応をチックする彼のテストだと思った。移動するだけで僕のアグレッシブな力は費やされている。歳のせいか近年は、成り行きを受身となって観るようになってきた。トラニのように僕をコミュニティーに加えようとするベトナム人もいれば、どんな外人からもむしり取ろうとするベトナム人もいる。双方共に新しい外人関係を模索中なのだ。少なくとも血を流さない関係を。
 ミニバスは、主道とは言っても二車線の、運転に神経を使う混雑した道路を突き進んだ。これは、日本が高度成長に突き進んだ1960年代のものと同じだ。
 車内の7人ほどのカンボジャ人は殆ど口をきかない。生き残ったとはいえ、あらゆるカンボジャ人は心に深い傷を負っている。彼等の内戦は1970年のロン・ノルによるクーデターから1998年のポルポト死亡まで続いたのだ。28年間!その間流され続けた血の記憶は未だ生々しい。仏教僧を含めた殆どの指導者が虐殺されたから、物心両面で立ち直りが難しい状況だ。しかも戦後の軍隊による大量の森林伐採や、政界にはびこる汚職、旱魃に洪水、国連兵士の持ち込んだAIDSの蔓延。国内に埋められたままの地雷に、農地さえも充分に確保できないのだ。
 温和で平和な自然生活を送ってきた国民が、外からの介入に煽られた時に、目も当てられない地獄に突き落された。28年間続いた内戦で少なくとも200万人が処刑と飢餓と病気によって消滅し、1969年から73年までの四年間に渡るアメリカ軍の無差別絨毯爆撃だけでも25万人が死亡した。僕は今回の中国と東南アジアの旅で人間に隠されている魔性に、慄然とさせられることが続いている。そしてその魔性が僕自身の奥深くにも存在していることにも気づいてくる。とてもロマンティックな旅とはなれない。
 
 二時間ほど走行した後に、ミニバスは昼食用のバザールに止まった。余りにもラッシュの道を行くミニバスの綱渡り的な運転に消耗した僕は食欲がなく、フルーツ・ジュースを飲んだまま息をついているだけだった。どこの駅やバス停やフェリーの上でも近寄ってくる宝くじ売りの、おばさんや老人や、子供達の一様にわびしい表情が次々と僕の面前に止まっては流れて行った。そんな僕の頼り気のない様子を、ミニバスの車掌が、遠目から窺っているのが見て取れた。
 食事を終った運転手が絶対君主のようにミニバスに近づいた。客は一斉に乗り込んだ。席に坐った僕に車掌が手を出すと、釣りの4万ドンを渡した。彼の顔には僕の受身の態度に何やら共感しているような表情がにじんでいた。
 
 豪音を立ててミニバスは北上した。再び混乱しながら突っ走る車と排気ガスに溢れ返っている道だ、景色は楽しめない。8000万ほどのベトナムの人口の殆どが海沿いの平野に住んでいる。人口密度が高い上に、人口の65%が30歳以下という若い民族の無謀な勢いが、車の走り方にまで影響している。独立してからの15年間、政府が戦後のベビーブームを放任した結果だ。日本も中国も同じ歴史をたどったベビー・ブーマーの過激な暴走。ベトナムの現在の出生率は2.1人。3人目からは住民登録もさせない、身分証明書も教育も受けられないまでに厳しい政府の二人っ子政策も、農民と低収入で低い教育水準の階層には効き目がない。中国の黒子と同じ戸籍なしの人口をかなり内包しているベトナム現代社会。
 車道の喧騒とは裏腹に、車内のカンボジャ人一行は静まり返ったままだった。前方の席に横たわる老女は、昼食時もそのままで、一族の誰かが代わる代わる付き添っていた。乗車するときにチラリと見た彼女の色黒の顔には、僕をしっかりと見返す意識は残っていた。だが、生命が燃え尽きようとしている人間に共通した青白いオーラが浮かんでいる。たぶん彼女は、息子夫婦と孫達に連れられて生まれ故郷に戻ろうとしている。永遠にカンボジャの大地に戻るために。
 ミニバスはようやくチャオドックの街に着いた。3人のベトナム人が下車した。もう午後もかなり廻っている。ここには国境の街らしい活気がある。バイクタクシー運転手の群がり方も、大都市なみのハングリーさだ。ガイドブックを持たない僕は、いつものように下車する前に念を押した。「ここからカンボジャに行けるのか?」と車掌に問うと「そうだ」という答えが返った。
 そこで荷を降ろそうとした時だ。「プノンペンに行くのですか?」と隣席のカンボジャ人の青年が英語で聞いてきた。それは6時間ほどのミニバスの旅行で始めて発せられた客の言葉だった。「ええ、ここからフェリーが出ているらしいので」「そんな話は聞いたことありませんよ。プノンペンにはこの先のボーダーの川を越えてバスで行くんです」「エッ、プノンペンにはボートで行けないの?」
 そんな対話をしていた時だ。前の方の席に横たわっていた老女が隣の中年の婦人に抱えられて起き上がると、僕の方に何かを言ったようだった。途端に車内は騒然とした。これまで続いた墓場のような沈黙の反動のように、彼女の息子らしい壮年の男性を中心にワイワイ話が飛び交っている。僕には「プノンペン、プノンペン」と頻繁に繰り返される言葉しか聞き取れない。ようやく一人だけ静まっていた隣席の、目の奥に深みをたたえた端正な青年が「皆が、貴方と一緒にプノンペンに行こう、と言っていますよ」と英訳してくれた。
 
 その老女がそうするようにと言ったのだ。自分の命が尽きようとしているのに、異国を一人さ迷う旅人を案じてくれている。僕は、彼女が隣のおばさんに支えられて起き上がり僕を見た時の、心配でたまらないといった目つきを思い出した。そして僕の心は、彼女の子供のひとりとなっていた。この人たちと一緒にプノンペンまで行こう、と決めていた。
 そう車掌に告げると、彼は遠慮がちに10本の指を開いた。隣の青年が(それが相場だ)と頷いた。1万ドンを車掌に渡す。ミニバスは、ボーダーに向かって再び走り出す。
 雨に洗われ過ぎたのか舗装はザラザラとして凸凹が多くなった。ミニバスも道に合わせてスロー・ダウンした。手漕ぎ舟のように揺れるが、自転車より少し早いぐらいの速度で行くから景色は味わえる。車の姿は消え、代りに手車が時折すれ違う。バイクは常に視界に点在するが、まばらだ。すべてがゆったりと走っている。自転車が似たようなスピードで紛れ込む。あたり一面の水田に似合った古き良きベトナムの光景だ。
 最初に通り過ぎた街には、緑と白に彩られた大きなモスクが建っていた。それ以外の家は柱の上に掘っ立て小屋を載せた高床式のスラムだ。それが道の下方の河までデコボコのロング・ハウスとなって続いている。黒い回教帽を被った少年が、本を抱えてモスクに入っていく。「チャム人の部落です。ベトナム中部にチャンパという王国があったでしょ。1000年ほど前にベトナムに滅ぼされメコンに来ました。カンボジャでも湖や河岸に住んで漁をしています」隣の青年は言外に、メコン・デルタのクメール(カンボジャ人)もベトナム人に負けて領土を取られたという無念さを漂わせている。そしてチャム人を見下しているようにも見える。
 ベトナム中部の海岸都市フエで僕の見たチャンパ王国の遺跡は、壮大なヒンドゥーの寺院群に溢れていた。2世紀以来インド・中国間の海上貿易と海賊行為で栄えたチャンパ王国は、メコンを遡り栄華を極めたアンコール・ワットを一時期占領したこともある。インド文明を最初に東南アジアに咲かせたチャンパ王国の末裔は今、掘っ立て小屋に住むムスリムの漁師となっている。道路脇の小さな店の高床に憩うチャム人のルックスは、マレー人やジャワ人に近い、小柄で目は細いかクルッと丸く、僕にはかって南から来た日本人の先祖のように親しみ易い。彼等は、ポルポト下のカンボジャでも、都市のインテリでもないのに異教徒の上に異民族であるという理由で中国人、ベトナム人と共に粛正の主な対象となった。そんな流浪する少数民族の悲哀が、ひっそりとした佇まいに感じとれる。それでも自分達の民族のアイデンティティーを守るために、この地域では異質なイスラムに改宗したのだろう。
 途中もう一つの中産階級的な街を通り過ぎると、人の気配は軍隊のチェック・ポイントだけとなった。ミニバスの内部を兵士がサッと見渡してから通過させる。1989年までカンボジャに出兵してポルポト派クメール・ルージュと戦っていただけに、その目つきには戦場の鋭さが残っている。
 2時間ほどして到着したのは、ミニバスがようやく通れるぐらいの狭さの道路の両側に、安普請の小さな木造住宅や数件の商店がビッシリ互いの壁をくっつけて並び立つ村だった。人影と自転車とバイクだけはやけに多く、ミニバスと擦り付けあうみたいにすれ違う。その曲がりくねった道が三叉路となる。その角が終点だった。
 

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正式のベトナムカンボジャ国境の町 

 カンボジャ人の一行の下車は手間がかかった。老女を壊れ物を扱うように二人の男が抱きかかえ、まず近くの縁台に横たわらせた。彼女の腰は直角に曲がったままである。僕もゆっくりと荷を降ろした。こんな田舎でも数人のバイクタクシーの運転手が取り囲んだ。中にはハイエナ・ルックの者もいる。さすが国境、単なる田舎の村ではない。
 老女は、足を伸ばせないほど身体が硬直しているのに、仰向けに横たわる縁台の上から、僕の不安を感じ取っている。確かに僕の不安はこの村に着くと頂点に達していた。
 その不安はまずここへ来る途中で自動車を見なくなったことから始まった。人も物も自由に流れる国境近くには、必ず乗用車、バス、相乗りタクシー、トラックが通っているはずなのにどこまで行っても小型車さえ見当たらなかった。だがその当初の不安は、ゆっくり走るミニバスの窓から目のとろけるようなメコン・デルタの田園風景を眺めているうちに忘れてしまっていた。
  だが、どうしても解せないのは、この村に入った途端に道は大型車の通れない細さとなったこと、どんな国境でも国威を見せつけるかのように建つ、イミグレーション(出入国管理)や通関のパックされた建築物も見当たらないことである。その掘っ立て小屋に等しい木造の一階屋ばかりがくっきあって並んでいるだけの村に降りたとたんに、僕の不安は一気にぶり返した。
 (そうだ、あの英語を話す青年に聞いてみよう)ミニバスの隣に坐っていたカンボジャ人の青年は縁台に横たわる老女の脇に坐っている。「イミグレーションはどこですか?」と質問すると「それは何ですか?」と答えた。そこでパスポートを取り出してベトナム・ビザと入国スタンプのページを指さした。「ここに出入国スタンプを押すオフィスです」
 彼は始めてパスポートを見たようだった。好奇心が先立ってページをめくってはシゲシゲとそこに書かれた英語を読んでいた。しばらくして僕の質問を思い出したかのように「オフィスなら川向にあります。私達はお金を払うだけでが」と彼は三叉路の下のほうに降りて行く一本の道の方を指さした。その先に水面が見える。そこで荷を彼に預けるとその道を降りてみた。
 河の手前に、かろうじて雨をしのげる程度の掘っ立て小屋があり、その縁台にヨレヨレの緑っぽい制服を着たやけに若く土臭い6・7人の兵士がたむろしていた。赤い筋入りの肩章がなければ、休息中のポーターと見間違えるばかりの、モンスーン期の雨の降らなかった午後のだらけ振りだ。僕はパスポートをまた取り出してベトナム・ビザと入国スタンプを指さし、片手をスタンプを押すみたいにストンと落とした。だが彼等もそれをのぞき込みワイワイ騒ぐだけだった。僕はその中からリーダーらしい少し年長の男を捕え、「スタンプ!」の単語と片手をパスポートのページに打ち下ろすことを繰り返した。年長の男は問いつめられたみたいな表情をすると、アゴを河の向こう側にしゃくりあげた。
 (やはり向こう岸にオフィスがある。たぶん他の旅人や車は、ずっと手前で河を渡っているのだろう。もしかしたらミニバスの運転手が、弱り切っている老女のために、ゆっくりと走れる間道を選んだのかも知れない)
 
 坂道を登るとカンボジャ人一行が、老女の腋の下と膝を支えて運ぶ壮年の男二人を中心として降りてくるところだった。老女の目は僕に(ついてきなさいね)と促している。急いで彼等の後を追ってまた下り道を行くと、50メートルにも満たない河の岸辺にフェリーが止まっていた。小型車一台をようやく運べる程度のちっぽけなフェリーは、あっという間に河を横切った。対岸には数台のバイクタクシーが待っている。老女をそれに乗せられないから、カンボジャ人一行は一団となって坂道を登っていく。
 僕は念のため、まとわりついたバイクタクシーの運転手に「ここはベトナムか?」と尋ねた。「カンボジャだよ」との答えが返った。大地を指して「カンボジャ?」「ウン カンボジャ」と運転手数人が頷いている。間違いない、僕はベトナムの出国スタンプなしでカンボジャに入国している。
 カンボジャ人一行に急いで追いつき青年に「僕は外国人だからベトナムに戻って出国スタンプを押して貰う」と伝えフェリーに戻った。老女のか細い視線が、丘の向こうにその姿の見えなくなるまで、僕に注がれているのを感じながら。
 フェリーに再び乗るとその船長助手らしい少年が「レジストレーション!」と英語の単語を叫ぶと、川下の方角に腕を振った。10才代前半に見える彼だけが僕の問題を理解した上に、僕に判る英語の単語を引き出したのだ。
 ベトナム側に戻ると僕は少年の指示した方角、つまりミニバスで来た方向にダッシュした。雲は夕方に近い色を浮かべている。村の一軒一軒を眺めたが役所らしい建物はなく、人の群がっているのは茶屋か飯屋か酒屋だけだった。そして遂に人ごみも家も尽き僕は湿地の間を抜く車道をひとりトボトボと歩いていた。前方の地平線に至るまで建物なんかありゃしない。500メートルほど先に、かってミニバスを止めてチェックした軍隊の屯所があった。鉄砲を担いだ当番の兵士が奥から引き締まった表情の男を呼んできた。30代半、将校のようだが、そこにたむろする4、5人の兵士の中で彼だけが白シャツ姿だった。僕がパスポートを見せて説明すると、じっくりとそれを調べ、僕の顔写真と僕を照らし合わせると事情を理解したようだった。だが英語は話さない。僕はベトナム語が判らない。結局彼がやりとりの最後に指さした、今来たばかりの村に戻ることとなった。
 そこからの僕は、言葉の話せない幼児が道に迷ってベソかいて歩いているのと変わりがなかった。一体あの掘っ立て小屋ばかりの村のどこに役所があるのだろう?帰宅途中らしい自転車族が次々と僕を追い越しながら、いぶかし気に振り返ったり、笑っている奴までいる。
 村の、歩行者や立ち話中の人の群れと、その間を抜う自転車に時たま走るバイクの隙間を歩いた。こんな僻地にもこんなに人がいる。足元をガキが飛び回って僕を囃し立てた。(クソッここまで来たら恥の上塗りするしかない)僕は一番人影の濃い茶屋に飛び込みパスポートを頭上に掲げると大声を張り上げた。「ジャパンなんだよ。ジャパン!ホンダ、ヤマハなんだよ。これはパスポート。判る?これ入国スタンプ。出国する時にもスタンプが必要なんだよ。レジストレーション!オフィスだよ。レジストレーション!イミグレーション!どこにもないんだよ」最後の方はもう手を合わせている。
 途端に茶屋の床全体が盛り上がった。つまり、それまで夕べの団欒にゆったりと坐っていた客10数人が一斉に立ち上がった。まるで蜂の巣を突っついてしまったかのように、一斉に興奮した声を張り上げた。それは手当り次第に口論でもしているかのようだった。その間にも僕のパスポートは人の手から手に渡り、穴の開くほど見つめられている。
 パスポートが一巡して僕の手に戻った時には彼等の討論は納まり、何やら決断がなされたようだった。僕を押し包むと全員が道に出て、そのまま村の中心部へと歩き始めた。
 
 村の曲がりくねった狭い道を10数人の男が勢いつけて歩くのだから、人目は引くし道は大騒ぎとなる。異状を嗅ぎつけたバイクタクシーが人をかき分け僕に叫ぶ。ガキは祭りの山車でも引くみたいに乳母車にしがみつく。女達はケラケラ笑い、老人が事の成り行きをジッと見つめている。歩きながら一団のリーダーらしきが大声で僕のヘマをアナウンスしている。
 その時僕は突然に、ハノイの革命博物館で見た一枚の写真の主人公の表情を思い出した。それは北爆中にソ連製ミサイルに撃墜されたB52のアメリカ人パイロットがパラシュート降下するやベトナム人兵士と群集に囲まれて、破壊された道路に溢れる人々の注視の中を歩いて行くシーンだった。彼の表情には、当惑と申し訳なさが現れていたが、恐怖は浮かんでいなかった。彼を連行する兵士も民衆も淡々としている。その行進を見守る群集にも憎悪の眼が光っていない。捕虜となったアメリカ兵はホアロ刑務所で終戦まで過ごした。そのフランス植民地軍が建設しベトナム人革命家を収容した場所で、彼等が淡々として終戦まで過ごした日常の写真も見た。アメリカがベトナムと国交を回復して最初に赴任したアメリカ大使は、そのように捕虜となったパイロットのひとりだった。僕の場合はルンルンと飛びながら外貨の爆弾を落とすツーリスト・コースから墜落した日本人だ。生死を賭けた厳粛なものではない。彼等にとっても僕にとっても、意外な、降って沸いたような喜劇となっている。
 ワイワイとやりながら行進した一行は、とある小さな店に止まった。店とは言っても商品は申し訳程度に埃に曇ったショーケースに並べてあるだけだ。品の良い70がらみのおばあさんが奥から出てきて何やら言った。ガキがどこかにすっ飛んでいった。僕を取り巻いていた一行が威儀を正して静かになった。そこにヌーと小柄な老人が近づいてきた。かなりの年を食っている風貌だが、細かい皺が見えない。肌が陽に焼けテカテカ黒光りしている。背は僕の肩ほどしかないが、全身に気迫がみなぎっている。どうもがいても叶わないという男の中の男、鋼の肉体と精神の持ち主、ベトナム原人の揺るぎない強い存在とも言える。僕は完全に気を飲まれていた、中国系の血の濃さそうな彼の細かい眼に射抜かれたまま、僕はこれまでしてきたのと同じの、パスポートを出してスタンプを押す真似しかできなかった。老人は明らかに表紙の(日本)の漢字を読んで「ジーペンか?」と凄味のある声で正した。明らかに徹底した反日家だ。憎々しげに僕を睨み付けている。こんな時はどうしたら良いのだろう?ただ恐縮しているより他ない。
 そして彼は何か言った。その決断に満ちた声は訛りの強い中国語のようだった。だが悲しいことに僕にはその意味が判らない。それを知らせるために、人差指の先を一方の耳の穴に向けて頭を振るジェスチャーをした。ところが老人はそれを僕が耳が遠いと言う意味に捕えたらしい。ツカツカと僕に近づくと、両方の手をメガホンのように口に当て、僕の耳の間際で大声を出した。
 一瞬にして僕の脳は粉々となった。それはあたりに爆弾が炸裂している戦場であろうともはっきり聞こえるほどのド迫力ある大声だった。そして何も聞こえなくなった。あらゆる音が真っ白となって死んでいる。降参だ。
 老人の一喝に祭騒ぎは吹き飛んだ。全員が緊張し切って動きを止めた。直立して彼と話し合っている様子は軍隊の作戦会議のように見える。そして老人は結論を下した。会議の輪が散った。誰かが叫んだ。3台のバイクタクシーがスッと僕の脇に来た。たちまち僕の荷は一台にくくりつけられた。そしてもう一台に僕を乗せようとする。だがその運転手の顔を見て、僕は尻込みをした。あらゆるバイクタクシー運転手の肌は、陽に晒されて極端に日焼けし、スピードと風がそれを更にゴワゴワとする。過酷な運転と不安定な生活に、彼等の一人一人が各々の信奉する動物に似てくる。彼は典型的なハイエナだった。そして残りの一人はハゲタカだ。そして僕の荷物をバイクにくくりつけた巨体の男は熊だった。かろうじて残っていた僕の本能が動きを止めた。その場が再びフリーズした。      その時だった。あたりに群れる人やバイクのわずかな隙間を抜って一台の黒いバイクが進入すると、僕の脇に音もなく止まった。白シャツに品の良い黒系統のズボンを着けた端正な表情の若い男が乗っている。彼の目は(こいつらに乗るな、これに乗れ)と言っている。僕の迷っている様子に助け舟を出した村の由緒ある家の息子のように見える。もしかしたら老人の孫の一人だ。強い意志力が共通している。目も細いし背も低い。そしてインテリだ。肌が白っぽいから、バイクタクシー運転手ではない。
 (他に取る手はない)と、とっさに僕は判断した。彼のバイクの後ろの席にまたがると、すべてが流れ始めた。
 

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正式のベトナムカンボジャ国境の町
ここからフェリーで河登してカンボジャの首都プノンペン郊外にまで行ける
 

 村中が笑って僕を見送っているようだった。それから彼等は家族で夕食をとりながら、ドジな日本人のことを話してまた笑うだろう。その頃僕は、どこにあるのかも判らない国境のイミグレーション事務所にいるだろうか?先のことは全く判らない。
 バイクは村の郊外のチェック・ポイント2ヶ所に止まった。双方が道路に張り出したキャンバス製の屋根の下で白シャツ姿の将校を中心とした円となって坐り、日のある内に夕食を取っているところだった。円の中心に僅かな野菜の煮物が置かれただけの、質素な夕食だ。バイクの青年が丁寧に事のいきさつを説明した。僕はその脇に立ち彼等の食事振りを見ていた。彼等の方が僕より格段に粗食の上に逞しい。この生活水準で、ビーフステーキを食べ、冷蔵庫から飲む、アメリカ兵と戦ったのだ。
 チェックポイントをパスしたバイクはスピードを上げた。次々と帰宅途中のバイクや自転車や牛車を追い越していく。豪雨に打たれ洗われて表面を削いられた舗装道路には大きな凸凹がある。午後に通ったミニバスは舟のようにゆっくりと上下した。バイクはその倍のスピードで突っ走って行く。それなのにバウンドをしないのは、運転する青年がその凹凸の間に僅かに繋がる水平の線を伝わって行くからだ。まるで魔法使いの帚に乗ってるみたいにスムースな弧を描きながら、バイクは街道一番のスピードで走り続けた。振り返ると、僕の荷を積んだもう一台のバイクの姿は道の後方に消えている。かなりの年期の入ったバイクだったし、運転手もやけに古びてでっかい身体をしていたから、引き離されたのだろう。
 途中止まったのはガソリン・スタンドのみ。フル・タンク2万ドンはここの生活水準にしてはかなり高価だ。原油を輸出してガソリンを輸入する国なのだ。代金は僕が払った。ついでに(荷運びのバイクはどこ?)と身ぶりで聞くと(後であちらに来る)と青年も身ぶりで答えた。彼のそっけない態度には疑念をはさむ余地はなかった。
 それにしても長い距離を走っている。僕は途中で脇道にそれるかと思っていたが、バイクはどこまでも直線の道路をチャオドックの街の方角に突き進んで行く。そのスピードが僕の全身を風のように正体不明のものとした。運転席の青年も風の子と化している。今日の午後に通過した小さな街もチャム族の村もアッと言う間に後ろに飛んだ。そして始めて車の走る街外れに差しかかった。
 バイクは左折して、夕方の人と自動車とバイクの上下する下り坂をゆっくりと降りて行く。河の匂いが濃くなった。
 (荷運びのバイクをここで待つ)と青年が合図して止まったのは、河岸のフェリー乗場の入口の、鉄パイプで作られた柵の手前だった。
 向う岸から甲板に乗客と自動車、バイクを山盛りとした、通勤客専用らしいフェリーが近づき、船上の人と二輪の山を、パクリと開いた口から吐き出した。通勤ラッシュに出くわす度に、これほどの量の人たちに仕事を作り出す人間の社会に、驚異の念を抱かざるを得ない。フェリーの中身が下船すると鉄パイプの柵が開き乗船組がドッと中に殺到する。僕とバイクの青年はその柵の脇に立ちフェリーが着岸し離岸を繰り返すのを黙って眺め続けた。青年は下船する客の間に彼の親しい知人を認めると遠目で笑顔を交わしている。中には鮮やかに咲いた妙齢のベトナム女性も何人かいる。いずれも教育を受け知的な職業に就いている人種に見える。
 空は薄暗くなった。河風もひんやりとしてきた。400メートルほどの幅のある河は重く流れている。その上を例のごとく大小様々な発動機船が上下して、頻繁に横断するフェリーの間を抜って行く。しかもここには、立ったまま二本の櫓を漕ぐ小さな木造船も、発動機船の立てる波を乗り越えながら行き来している。その影絵のように黒づんで行く数々の船の姿が、街道の風を突っ切って来たバイクの旅の後の僕の目に、優しく浸み入ってくる。メコン河は今日も暮れなんとしている。
 何回もフェリーが往復した後に、僕の荷を運んだバイクが、運転手ともども息絶え絶えとなって到着した。対岸の水上レストランらしきが玉電球の照明だけをチカチカ始めた頃だった。よくぞボロエンジンと、40才代半ばと思わせる、バイク運転手としては高齢の肉体がここまで持ったものだ。
 
 僕達はバイクでフェリーに乗り込んだ。船上では宝クジ売りの列が待っていた。例のごとく、栄養不足の老人、子供、母親達が幸運を売りつけようとする。それが一巡した頃にフェリーの到着、対岸の坂を登ると、地中海のヴァカンス村をアッという間に作り上げたみたいな見かけ倒しのホテルやレストランの並ぶ大通りがあった。
 その通りの一軒の大きなホテルにバイクは止まった。もう間違って入境したカンボジャより戻ってから、僕は完全にベトナム人に任せ切りとなっている。どっち道国境はもう閉まっているだろう。ビザもあと二日ある。そしてフェリーの上からは、この岸辺のホテルの裏には、河床から柱を立てて、安普請の部屋をその上に乗せているのを見ている。入口は格式の高そうなホテルだが、バックパッカーの受け入れもしているだろう、と受付の英語を操る若い女性にバス付きシングルの値を聞いた。6USドルはこれまで泊まった宿の1.5倍だ。でも一年前の東京で友人のバイクの後ろに乗って以来の長距離バイクの旅の後だ。若くない肉体を考えると、もう横になったほうがいい。
 泊まることに決めたが、その前にバイク代を払わなくてはならない。乗る時に混乱していたので、アジアでは常識である事前の値の交渉もしていない。事によったらかなりこじれるだろう。受付の女性に相談すると通訳してくれるという。
 外のバイクの席で待っている運転手を呼んだ。年配の大柄な運転手ひとりだけが受け付けまで来た。「幾らだ」と問うと「二台で30万ドン」だと言う。受付の女性が驚いて「エー」と声を上げた。僕は「今日あの村まで行くミニバスに1万ドン払った。バイクタクシーはその5倍ぐらいだろう。だから二台で10万ドン」と言い返した。だが相手は理屈の通用しない事情があるらしく、「30万ドン」をマントラのように繰り返している。
 この運転手はベトナム人としては群を抜いた巨体だが、これまで一度もアグレッシブな態度をとったことはない。一貫して温和で今もその性格はそのままの愛すべき人物なのだが、金に関しては真剣な目をした石造りの熊みたいだ。そこで「では帰りの分も付け加えて二人で20万ドン」と僕は一気に倍増した。彼は受付の女性の言葉も聞かずに「30万ドン」を言い張っている。かなりハードな交渉となった。
 僕がこういう場面で一番怖れるのは、もしこちらが簡単に折れたら、噂はたちまち駆け巡り、あたり一体のバイクタクシーが外人に法外な値を吹っかけ続けるという悪習慣が生まれることだ。
 「それならこれがラスト・プライスだ。僕はもう一人の青年に燃料代を2万ドン払っている。だからその額も君に払おう。二人で22万ドン。君は12万ドン取ればいい」僕の申し出を受けた熊みたいな男は受付の女性の通訳に「そのことを彼に聞いてくる」と伝えると、巨体を揺らして外に出た。ホテル前の道路脇には、僕を乗せた青年が静かにバイクに坐っている。彼はバイクタクシーを職業にしていないから、金の交渉には一切タッチしないつもりのようだ。彼の姿は遠目にも、困っている外人を助けるために乗せたのだから幾らでも構わない、という無欲のままに見える。燃料代について聞かれたらしい青年は無言で頷いた。それから年配の運転手は、巨体を屈めてエンジン・カバーを心配そうに抱えてみせた。僕の視線を意識したパフォーマンスのようだった。
 受付に戻った年配の男は「確かに君は燃料代を支払っている。だから2万ドンを差し引いた28万ドンだ」と来た。もう受付の女性もウンザリとして通訳している。僕も話すのを諦めて彼をただ見ていた。彼も穏やかに見返した。そして両手を前に出すと、ハンドルを握りスロットルを回すふりをした。(あのエンジンのピストン取り換えなきゃならないんだ)という意味が、率直に僕に伝わってきた。それは演技ではなく、彼の本意だった。
 この対岸のフェリー乗場にかなり遅れて到着した時の彼とオンボロバイクが、職務に限りなく忠実な心打たれる姿だったのを僕は思い出した。そして金の交渉に見せた態度は賢い大人のものだった。僕の内ポケットにはベトナム通貨が丁度30万ドン残っていた。この金額も彼に見透かされていたとしか思えない。28万ドン払えば2万ドン残る。明日銀行が開くまでの食費は確保できる。
 
 28万ドンといえば18USドルだ。少なくとも3日分の旅費を2時間の旅に使うというのは、明らかに僕のポリシーに反している。しかも相場を荒らす罪も重なる。だが、僕は今日まで一度しかバイクタクシーを使っていない。ベトナムではその業界で生きる者が余りにも多いというのに。彼等は日々道に命を張って生きる仲間なのだ。しかもそれで日銭を稼いでいるからには、僕とは比べものにならない本物の道の人だ。そんな道行くプロにまとめて金を落とせということなのだろうか?
 僕を乗せた青年は、村人の対応ぶりやチェック・ポストでのやり取りやフェリーで降りてくる知人との挨拶を見れば、地方役人のようだ。だから自分の管轄で起こった事件に乗り出してきた。今も金に関しては一切介入しないという節度を保っている。役人の月給は50ドル。その額では、対岸からのフェリーを下船して登る坂道の途中で、明らかに愛のサインを送り、彼もクスリと笑い返した、艶やかでありながら聡明なベトナム美人とのデイトに出撃するバイクの燃料代にも事欠くだろう。
 そして僕は、ベントレの街で僕を無条件に受け入れてくれたトラニを想った。最初から運命的な兄弟愛を感じる神話の世界の出逢いみたいだった。肉体的にも、彼は地雷で僕は人身事故で同じ左足をやられている。そして彼はコーヒーショップで仲間を紹介し、親族の商売を見せ、アメリカ帰りの親族のパーティーで僕と話の合う人々と見事な料理を逢わせ、その上に友人の飲み会と、あの凄味のある美女カーリ。トラニの妻は一度(あの、夫の使っていない家を気に入った人に貸したいみたいですよ)と匂わせた。彼と彼の弟の、二人の母の墓の並んで祭られた美しい庭に立つ家を。
 もし僕が過去に何回かの女性との破綻を体験していなければ、もし僕が残り時間の限られた人生を、世界のどこかにでも行って誰とも会い、その土地の状況とそれに到るまでの歴史とこれからの展望を、僕なりの体験と学習を積んで掴み、僕なりに公に報告することに捧げたいという意志が固まっていなかったなら、僕は彼のオファーに飛びついていただろう。しかも彼はあれだけの好意を僕に注ぎながら、何の代償も求めなかった。
 カーリにしても、僕の心の起伏を読み取りながら、その自然の流れを彼女の魅力で左右することはなかった。この年配のバイクタクシーの運転手も、貧困の問題さえなければ、素晴らしい心の通いあう関係のはずだ。
 決断を下す前の数秒間に、これほど多くの物語が、逆巻き下る意識の流れに洗われ磨かれていた。
 今や穏やかなきらめきを放ちながら、もはやこれ以上削られようのない結晶となって、大河の底に横たわりつつある。
 
 年配のバイクタクシー運転手に、現金残らず30万ドンを渡した。彼は2万ドンのツリを返すと、乳母車ごと僕の荷物を軽々とかかえ階段を登った。長い廊下の果てにある僕の部屋まで、愛しそうに荷を運ぶ大きな背中は、多くの子供を育てた父のものだ。部屋の床にソッと荷を置いた男は、静かな川風のように消えた。何事もなかったかのように。僕はまたひとりとなった。
「 完 」

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