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ヤッサン、小野さん山小屋の前で   

 お兄様
 五月の中葉、ヤッサンをつれ山梨の白州に行った。昨秋建て増しをした小野さんの山小屋の手直しのためである。温泉と何より青葉を絵描きのヤッサンは喜ぶと思ったからである。この人、大工仕事で一緒になるのだが、僕より年上なのに、この年まで少年の魂を失わずに居るのは可愛らしいなであるが、しかし、困ったことにそばに居ると、「高速道路はなぜまっすくなの?」「あの鳥の名前は何?」「あの花は・・・?」と目に見えるもの思い付くものを、まるで十歳の少年の様に聞いてくる。実に困ったお話魔なのである。
 
 この山小屋、逗子の小野さん夫婦が、枕木で作り始めたのだが、十年ぐらい前から、難しいところを僕が手伝うようになった。母屋は彼らだけで作った、そこに風呂、トイレ、炊事場の棟を立て増すところから手伝った、昨年は更にもう一部屋立て増した。材料の枕木がなくなるに従い、普通の材木屋の材料を多く使うようになってきたのだが、なんといっても、素人の彼らが最初に作った母屋は、まるで童話の世界に出てくる森の家のようで、とてもいい雰囲気がある。

ヤッサンが山形でおもしろいもの見つけたと
送ってきた携帯写真の小学生の人形。

 案の定、ヤッサンも大喜び、母屋が一番気に入ったらしい。さんざん家の感想を言った後、デッサン場所を捜しに外に行った。しばらくして、庭の一角にイーゼルを構えスケッチを暗くなるまでやっていた。そばに居なければ、彼の「なぜなぜ攻撃」から逃れられる、その間に僕は仕事をしようという計算である。
 
 夜、近くの名水公園にある「尾白の湯」という温泉に行った。この温泉はホッサマグナの東端あたり、濃いナトリューム泉である、舐めると塩辛い。体の疲れがドッと出てきて、帰りの運転が億劫になる程である。ここで今回最高におもしろいことがあった。二人が中には言ったら、受付の女の子が「御兄弟ですか?」と聞く。僕は答えに詰まった。そして、「エッ、そんなわけなかろう。」と声にならない声で返事を返した。
 
 翌日はあいにくの雨。彼は母屋でデッサン、描きながら「なぜなぜ攻撃」をかけてくる、僕はだんだん不機嫌になり、「仕事仕事」と耳を塞ぐ。
 午後、清里の方まで足を伸ばし、「高根の温泉」に寄り帰路に着いた。その間も全く止む気配を見せない「なぜなぜ攻撃」。拝島駅に着く頃には僕は全くの無口になって、彼を降ろし、別れの挨拶する気力もなくなっていた。
 
 それ以後、僕はヤッサンを「お兄様」と呼ぶことにしている。なんでも人に聞いてくる性格への対抗策である、少しは大人に成長するかも知れない。でも、彼の頑強な「少年」に対しては無駄な抵抗かも知れないが。(笑))

青梅にある公園の花菖蒲

 憲法論議あれこれ
 総理大臣が、今年の年頭「憲法改正」に言及したことからにわかに憲法論議がさかんなった。ただ、総理大臣を含め日本の保守派の改憲論は、アメリカの保守派から要請された印象が拭い切れず、いたたけません。
 憲法制定当時の資料がいろいろ出てきて、GHQから、「天皇制の継続」と「平和主義」と引き換えに、当時の保守派が押し切られた事は今まで言われてきたことですが、その平和主義を含め多くの部分は、GHQが日本の民間の憲法創案を丸呑みした事実もわかってきた。GHQにそんな短期間に、しかも他国の憲法を作る能力がなかったのです。
 今の憲法は、当時の、極東委員会などの国際政治と、GHQと日本政府と戦争はもうやだという世論との政治的産物です。
 
 日本の保守派、今日まで、GHQに押し切られたと言う部分を強調し、創案を民間の学者が起草したことや、当時の庶民が歓迎したことを無視し続けている。僕が思うに、戦後のこの経済成長は、この平和主義のおかげです。それを縦に、経済活動に邁進出来た結果です。この憲法の果たした役割は非常大きいと思います。
 
 それから半世紀、世界は大きく変わりました。「憲法改正」してもいいのかも知れません。護憲を天下の宝刀のように思う考えは間違いです。ただ、しっかり考えてほしいのは、21世紀前半のこの地球上で、日本や日本人がどういうあるべきかといったビション、夢の上に憲法は改正なされるべきだと思います。
 これから時代は更に激しく変わります。アメリカが世界の世界のリーダーという時代も長く続かないでしょう。国家間の戦争はなくなる方向に進むでしょう。軍と言ったものが、国際平和活動といった、一国家の安全と言うより、地域紛争の調停、世界全体の安全を守ると言ったもの活動が多くなるでしょう。環境問題が、世界の最大の懸念問題となるでしょう。ますます相互依存が強くなり、国のあり方も変わらざるを得なくなります。そういったそうされる見らを考えるべきなのです。
 
 かってのアメリカの憲法やナポレオン法典(憲法ではないが近代の民法の始まり)や長続きしなかったがドイツのワイマールの憲法とか、世界の法律の目標になるような法律論争をしてほしいものです。世界に冠たる経済力や技術力を持ち、日本の影響力は国内で考えるよりはるか大きいのです。もう日本人だけの日本ではないのです、世界に対する責任があるからです。

青梅にある公園の花菖蒲 

 今の憲法は、戦争に負けて日本が極限状態で作った憲法です。ですから、すばらしいものが出来たのです。冷ややかに見れば、確かに時代にあわなくなっているの少しはあるけど、「憲法改正=悪くなる」と見ておいたほうが良いでしょう。今の政治家の下心を見れば「良くなると」思えなし、人間は追いつめられて、初めてすばらしい力を発揮するものだからです。敗戦や革命といったすべてを失ったとき初めて、国家の骨組みが見えてくるからです。だから今は、時代あわない部分のみの小さい変更が、現時点では最良の方法と思います。
 大切なのは、憲法改正ではなく、憲法の議論をたくさんすることです。あらゆることを想定して、何が一番大切で、何か永続的に必要なものかと言った議論です。時代が激しく動いているからと言って、基本法にすべきことはそんなに変わらないはずです。
 戦前、少なくても日本の憲法学者や知識人が、世界の法律の研究や議論をしていたと言うことですし、それが現在の憲法成立につながったと言うことで、敗戦という混乱を短期間で回避できた背景だと思います。
 そして大幅な改正は、そうしなければいけない時期が到来した時にすればいいのです。

青梅にある公園の花菖蒲

 選挙
 五月は憲法改正で盛り上がったのに、年金問題が再浮上して、何やら波乱含みの様相を呈してきた。もういい加減にしてよ、といいたくなる。おかしな奴はどんどん落とし、良いこと言う奴は若くてもどんどん当選させてやらないと、どっちが主人でどっちが使用人か分からなくなります。何十年も自民党の独裁じゃ、北朝鮮と同じじゃないですか。
 最近はマスコミ受けする奴がのさばっているけど、もっと物事を透かしてみるほしいですね、政治家は特に性悪説で見るべき、そうしないと、痛い目をあうのは皆さんです。権力を持ったら、人間は悪魔の囁きに弱いのです、人間は変わってしまうのです。人間は弱い生き物、弱い政治家を正しい方向に導くのは皆さんの力です。
 
 
 ほたる
 僕の借家の前の通りが「ほたる通り」という名前が付いている。多摩川のほうに歩いていくと奥多摩通りにぶつかる。その先は崖になっていて、細い道でしたに下りることが出来る。崖の下にほたる公園がある。地下水を汲み上げ蛍を養殖している。
 六月半ばにこの通りで蛍祭りをやっている。今年は6月16日の今日である。後で顔を出してみよう。二三日前夜公園に行ってみたら、蛍より人間の数が多かった。
 本当に蛍は居なくなった、水路がコンクリート覆われるし、水質は悪くなるし、夜が明るくなくなりすぎてしまった。闇を失った現代人は、心の闇の持ち場まで失い、陰湿さを増した、いじめや犯罪が多発するようになった。
 蛍の光のような、日本人の曖昧な文化、「yesかnoか分からない」文化の悪いところばかり指摘されてきた感があるが、この曖昧さが、「極端に走る」ことに一定の緩衝を与えてきたことは確かだ。
 いまさら、失ったものは取り戻せない。しかし、数万の蛍が闇夜を飛び交う姿は、この季節の日本人の原風景です。残せるものは少しでも多く残して欲しいものです。


贈り物
六月の末仕事から帰ると、宅急便の不在通知が入っていた。翌日とどいた段ボールにじゃが芋と大根が入っていた。本当にちっちゃいじゃが芋だけが袋に別にまとめられていたり、芸術的な形の大根だったり、手作りだとすぐ分かり嬉しい。送り主は上野原の守屋忠史君。ありがとう。早速煮っころがしにしたり、切り干し大根を作ったりした。
それから四、五日して、ポストに大きな封筒が入っている。さわるとぐちゃぐちゃしている。鎌倉の香織ちゃんから今年も梅干しが届いた。自分で漬けたものは味が違う。梅干しは大好きなので嬉しい。 
 

 訃報
 六月僕の知り合いが二人逝きました。

 一人は星野修三さんのお母さん。お兄さんの冤罪事件の集会で一度お会いしただけですが、長い戦いの人生でした。ご冥福を祈ります。

あり日の森さん

 6月24日未明、相模原在住の森政一さんが亡くなりました。享年53歳の若さです。ここ五年は闘病生活で、入退院の生活でした。いい笑顔をする人で、同世代なのできついものがあります。
 僕とは1990年の藤野町のキャンプ場でやった「砂のマンダラ」というイベントからの友達です。当時よく行なわれた山の中でのお祭りでは欠かせないメンバーの一人でした。
 「絵を売らない画商」と自称していたように、何か作品を作る人ではなく、裏方に廻る人で、芸術家だけ集まっても何もでなず、彼のような人が支えて始めて面白い企画が成立したのです。
 当時の天野宅での集まり、その後の無形の家での企画、水眠亭でのコンサートと囲炉裏を囲んでの飲み会や団欒を懐かしく思い出されます。
 ご冥福を祈ります。

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