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メコンデルタの4日間
2005年5月末



 
澤村浩行


- 1日目 -

 ベトナム中部の海岸都市フエから20時間列車に揺られて到着したサイゴンは、まだ暗い4AMだった。タクシー組が去った後に残った市バス組は、駅前の椅子100個は並ぶオープンカフェで、アジア最大の生産量を誇るベトナム産コーヒーをすすりながら、始発のバスを待つこととなる。人気のない夜のサイゴン市の路上では、「カウボーイ」と呼ばれる、時には帽子から眼鏡まで引ったくる、50ccバイクを使った盗族が出没するからでもある。やがて赤い薄雲の朝焼け、あっけない程素早く南国の朝が開く。そして地から湧き出た羽虫はむしの群れみたいな50ccバイクが切れ目なく道に流れる。ヘルメットをかぶる者などいやしない。そしてその流れは決して歩行者を避けたりはしない。ハノイ市でも道を横切るたびに我が残り少ない寿命が縮む思いをしたばかりだったから、サイゴン泊を諦めた。
 サイゴン市はずれの中国人街チョロンへは市バス20分ほどで着く。そこの活気づいたマーケット脇にある長距離バスターミナルの窓口で、ミト行きの切符を買うと、満員に近いバスに乗り込んだ。ここからは僕の愛用する鉄道はない。ミトまではの二時間半はアッパー・メコンデルタを東西に横切るから多くの橋を渡る。北部のように森は見当たらず、くまなく張りめぐらされた運河と水田、そして村や街を通り抜けて行く。どこにも人がうごめいている、人口密度の高い地域だ。
 久し振りのバス旅行だったが、僕の腰はやられなかった。それでミトのバスターミナルからベントレに渡るフェリー乗場まで歩くこととした。例のごとく群がっているミクロ(前に客席のある三輪自転車のタクシー)とバイクタクシー(オートバイの後部に客を乗せる)の運転手に道を聞くと、「ここから5キロメートルもあるんだよ。この暑さに無理だ」と彼らの乗物を使えという。確かに暑く蒸れた土地だ。でも真夏のぶんなぐるみたいな激しさはない。ゆっくり行けばしのげるだろうと、僕は見当つけた方角に歩き出した。男っぽい感じのバイク・タクシーのひとりが追って来て「まず二股がある。その右側の道をどこまでもまっ直ぐ行くと、大きな街中に十字路がある。そこに道標もある。右折してしばらく歩けばフェリーだ」と詳しくジェスチャーを交え教えてくれた。すべて、発音が微妙すぎて僕が遂にサジを投げ出したベトナム語だ。だが、旅人への仁義ある男気がジンと伝わってきた。
 僕は彼の言った通りに黙々と歩き続けた。汗かいた身体を日影カフェで乾かしながら、三時間ほど晴れたり曇りの道の上を、荷を載せた乳母車を押して歩いた。
 この地域には、見事なプロポーションと滑らかな肌を持つ女性が多い。そして美しいことが当たり前だから、それを鼻にかけていない。豊かな水と豊かな農産物と魚貝類、そして豊かな人間関係が美しい女性を生むのだろう。かってベトナムを征服したあらゆる人種もその美しさをほめたたえている。途中で休んだカフェのひとつは、夏休み中だと言う女子高校生二人とその小学生の妹が店を切り盛りしていた。英語の本を持ち出して、1500ドン(13円)のジューサーでしぼりたてのアボガドジュースを飲む僕を取り囲むと、しきりに笑い話しかけてくる。その道を歩く外人を見るのは始めてだという。三人の若さがキラキラと僕を照射する。まるで天国でエンジェル達に迎えられたみたいだ。丁度小さな娘を真中に乗せたバイクの一家族も止まって、飲み物を注文した。偶然で束の間ながら、彼等も加わって、僕達は街道の脇で一息ついた。その店で、フェリー港までバスのあることも聞いたが、人に会うのが面白いから歩き続けた。
 フェリーはバイク30台位と小型車7・8台ほどで一杯になる大きさだった。歩行者は無料、二階のふちに沿った階廊に登る。二隻のフェリーが着岸できる港だから、常にメコン河上には他のフェリーが行き交い、両岸の客はほとんど待つことがない。
 河面に出ると、茶色っぽい水が広がりっ放しだ。そこにあらゆるタイプの舟が移動している。砂を山盛りにした細長い船が4・5隻の同じ船を引いて悠々と上流へと向かい、明らかにオンボロのエンジン音に黒煙を巻き上げ、長いシャフト付きのスクリューで走る小型船が、フェリーとフェリーの間を抜って行く。いつの間にか空のほとんどは怪し気な雲に覆われている。時折大粒の水滴が曇天に漂う巨人に手づかみされてばらまかれたみたいに、水面の細かい波の連なりを無数のポイント模様で飾り立てている。

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 20分程で着岸したベントレの港は離れ島っぽく何もかもが、ほぼ止まっている。フェリーの二階で一緒だった大学生の一行50人ほどはすぐ中心街に行くバスに乗り込んだ。
 生活の苦労をにじませていない中産階級の子女らしい初々しい美男美女が、一人路上に残った僕を心配気に見下ろしている。でも僕は今日、寝る場所が見つかるまで歩くこととしているのだ。それも出来たら街外がいい。バイクタクシーの運転手が声をかけたが、僕の「歩く」という意志を感じとると立ち去った。この中州の島には強引な取引関係はない。露天の飯屋のおばさんもしごくのんびりして僕を他の客と同様に扱った。ハノイのいつもだまされているみたいな緊張が嘘のようだ。サイゴンもそうだと言うが、ベトナムの大都市では複雑に仕組んだ手を使って観光客からボル業者が辻々に待ち構えている。僕もハノイでいくら注意していても彼等のワナに何度も引っかかった。
 そして再び歩こうとして立ち上がった時だ。数軒並んでいる港の商店の屋根に「ROOM FOR RENT」の看板が目にいた。矢印はその横の細い道を指し「300m」とある。主道から外れているとは望む所だ、と僕はその細道に入った。とたんに世界は狭く濃くなった。頼りなく寄り添って立つ家々の庭から犬が数匹ヨロリと現われ義務的に吠えかかってくる。300m先にまた看板があり、右への矢印とまた「300m」とある。(アレーこんな田舎でも観光業者のワナにはまっちまったのか?)と不安がぶり返した。その道は自動車とすれ違うのがやっとのような細道で、両側の民家のベランダや庭の様子が丸見えだ。
 ようやく「T.N.Tourist Garden」と書かれた大きな門をくぐった。庭がやけに広く、ガーデンレストラン風のしもた屋が点在し、その奥に母屋、バンガロー風の客室もあちこちにある。庭のリーチの木が2・30個の、幼児の金玉みたいな色形した小粒の果実を、枝のひとつひとつに寄せ集めてぶら下げている。メコン・デルタのエデンの園と言ったところだ。
 突き当たりの母屋に受付があり、ビック・マザー風のふくよかな年配の女性にシングルの値を聞くと5ドルと言う。ベトナムでは観光関係は殆どドル換定で進行する。部屋は大きく前の空き地にはバナナが茂っている。「数日泊まるつもりだ」と言うと一泊4ドルにしてくれた。
 
 部屋に荷を置き、身軽になって村の細道を歩き廻る。伝統的な木造平屋の連なりに突如コンクリートの2・3階建が立っていたり建設中だったりしている。かっての、国民全員が平等に耐乏生活をしていた社会構造に階級が出現しているのは、中国と同じだ。日本の戦後も同じ変革を経た。ここではそれが生々しく始まっている段階のようだ。
 家並みの板壁は雨に打たれて古く見えるが、先祖代々その地に住み着き建て替え続けた物とは違う浮ついた感じがある。このベントレの街も、ベトナム戦最大の会戦である「ベトコンのテト攻勢」に反撃したアメリカ軍と南ベトナム軍の砲火と空爆により、徹底的に破壊されている。
 1968年1月31日のテト(旧正月)前日。年最大の祭りの用意に忙しい南ベトナムの各都市に、それまでジャングルのゲリラ戦しか仕掛けなかったベトコンが、正面切って総攻撃をかけてきた。CIAも予測できなかった全面的な奇襲攻撃だった。サイゴンのアメリカ大使館にはベトコンのコマンドが侵入し館内の激戦が、テレビで全世界に放映された。テト攻勢は、カメラマンが命を賭けて撮影した生々しい市街戦の実態が、新聞やテレビで報道された。映像が世論を興した。それまでは米軍が勝利していると信じ込まされていたアメリカ人が、学生を主として一大反戦運動に立ちあがる動機づけをした。それはベトナム戦のターニング・ポイントとなった。アメリカは二分されジョンソン大統領は立候補を断念し、ベトナム戦を終熄させると約束したニクソンが当選した。ベトコンはテト攻勢では敗退したが、アメリカ国民とNATO同盟国国民による反戦活動を決定的として、戦略的な勝利を収めた。
 ベトコンのテト攻撃にアメリカ軍と南ベトナム軍は圧倒的な火力を持って反撃し、それまでジャングルにしていたのと同じ無差別の砲火と空爆を都市に浴びせた。ベトコンは4・5日しか持ちこたえられず、立ち直り困難なほどの損失を被った。
 中部の海岸都市フエだけは25日間激戦が続き特に犠牲者も大きかった。一昨日まで滞在していたフエの街の郊外は墓場だらけ、中心部のホテルに泊まった僕は、悪夢の連続に何度も起き、時には、その時の恐怖の体験が甦っていのだろうか、深閑としたホテルの夜中過ぎ、誰かのあげたが、ゾッとするほど悲しい悲鳴をあげていた。
 このベントレでも、街にこもったベトコンを攻撃したアメリカン人将校が苦々しく述懐している。「街を救うために、街を破壊しなければならなかった」と。ベトナム戦を通して死亡した兵士はアメリカ軍58、183人(朝鮮動乱の約二倍。アメリカ軍はこのように、戦争の記録を厳密にとっている。地雷設置も数量と位置を記録しているので、撤去も可能であることをカンボジャの地雷撤去活動をしている元軍人に聞いたことがある。また戦線での傷病者のケアーと行方不明者の捜索を徹底し、特に補給作戦が重要視されている。人類の戦史を通じて戦場で人肉を食べることのなかったのは、ローマ軍とアメリカ軍だけであったという説も聞いたことがある。旧日本軍での前大戦の戦史者の7割は餓死か病死であった。)、南ベトナム軍223、748人、北ベトナム軍とベトコン約100万人。そして市民400万人が死亡するか傷を負った。それは人口の10%に当たる。多くは北爆による犠牲者だった。ドレスデン・東京空襲+ヒロシマ・ナガサキの原爆投下による犠牲者の合計をはるかに上回る。
 当時は後の戦争の主流となったピンポイント爆撃は未発達で、絨毯を敷くように4トン爆弾を落下し続けるカーペット、ボンビングが無差別に行なわれ、北ベトナムの全ての橋と道路、全都市と6000あった村の4000が爆撃により破壊された。見通しのつかない霧の多い自然環境であったこともあるが、爆弾は密林にくまなく張りめぐらされた、北ベトナムから南ベトナムへのゲリラ補給戦「ホーチミン・ルート」破壊をも目的としていた。投下された爆弾の6%葉不発弾として残った。

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 全くのこと、ベトナムのどこを歩いても戦跡巡りをしていることとなる。20世紀は「戦争の世紀」と言われているが、ベトナムほど長年に渡って国の隅々まで、戦火にさらされた国はないだろう。
 中国の東南端にある広西チワン族自治区から、中越紛争後にフレンドシップ・ボーダーと名付けられた国境を経て到着したランソンの街もそうだった。ベトナム統一後に社会主義政権が中国系ベトナム人を迫害し追い出しにかかり、南部ではボートピープル、北部では陸路伝いに大量の中国系難民を出したことと、中国の同盟国であるカンボジャにベトナム軍が進攻したのに中国政府が反発し、1979年2月に中国軍が侵入した。17日間に渡る中国軍の砲撃にランソンの街は跡形もなく破壊され、再建された現在の街は砲弾による凸凹の残るその上に建てられたという感じで、足を自然に運べない。
 たぶん土地人の多くが夢の中で戦争の記憶が甦っているのだろう、その夜僕は、まだ幼いままの姿で甦った僕の子供が危険な目にあっている夢にうなされた。以来ほぼ毎晩のようにおどろおどろしい夢を見る。沖縄南部でも似たような体験をしたが、ここでの夢の中に登場する魑魅魍魎の跋扈ぶりには、朝起きて鏡を見るのが辛いほど僕を消耗させている。こういう闇の世界が本当にあるんだということを思い知らされている。
 そして前大戦中の日本軍もベトナム人を過酷に扱い、多数の犠牲者を出した。1940年フランスがナチス・ドイツに降伏すると、対独協賛ヴィツシー内閣は、日本軍のベトナム進駐を認めた。その仏印進駐がアメリカを刺激して、石油禁輸、更には開戦直前のハル・ノートを突きつけて、日本軍の中国満州仏印からの全面的な撤退を要求する対抗手段を取らせた。日本の暗号を解読していたアメリカは、これによって日本は開戦し、モンロー主義以来旧大陸の争いには関与したがらない傾向のあったアメリカ国民は大戦に参加すると予測し、その通りになった。旧大陸で辛酸をなめた末に新大陸に移住して拠点を構えたアメリカ人は、旧大陸から攻撃を仕掛けられると過剰に反発するという深層心理を突いたのだ。この手法は9.11とイラク戦にも使われている。
 日本軍はベトナムの戦略的な場所を占め、ニッケル、タングステン、錫、亜鉛等の鉱物資源や米等の自然資源を取り去った。そして日常的には、それまでのフランス人による植民地経営を続けさせたので、ベトナムは二重の搾取を強いられた。日本軍に抵抗したのは、OSS(CIAの前身)から資金と武器を提供された共産党指揮下のベトミンだけだった。ベトミンの指導者は、30年間海外を大型船の料理人見習いから始まり、庭師、雪掻き人、ウェイター、写真修正師、火夫などをしながら流浪し、その過程で共産主義に目覚め、1941年、51歳となって始めて帰国したホーチミンだ。当時のホーチミンは、アメリカがベトナムの独立を認めるだろうと期待していたらしい。
 終戦を目前にした1945年の春に、日本軍は大量の米を日本に向けて送り、またそれまで麻などの軍需産業用農産物の強制栽培とホ河の堤防決壊による洪水も重なり、当時の北ベトナムの人口1、000万人の内の200万人が餓死した。ハノイの革命博物館に、当時の累々と横たわる餓死者や餓死寸前のベトナム人の写真が陳列されている。「JAPANESE FASCISTの圧制より」と正書きがを付けられて。しかもその米を日本に運んだ輸送船は、ほとんどアメリカ軍の潜水艦に沈められたのだ。だからソ連崩壊を受けて実施された経済開放政策「ドイモイ」以前のベトナム憲法には、敵国としてアメリカ、日本、韓国が明記されていた。韓国はベトナム戦にアメリカ軍に次ぐ人員を派遣し、その凶悪犯罪者も含まれていたと言われるタイガー部隊は、ベトコンも恐れるほどの残虐行為を働いた。
 その大量餓死者に関する写真と記事は、中国各地で思い知らされた後にベトナムに入った僕を(日本軍よここでもか)とガックリさせた。堤防決壊も植民地統治者の怠慢と言えるから、日本人は北ベトナム人の五人に一人を餓死させたこととなる。僕のベトナムの旅も除々に(何故日本人はあそこまでしたのだろう)と、自分自身の日本人的性格と、歴史の流れを、数知れない人との出逢いとまだ手元に残った三冊の歴史書を照らし合わせながら探し続けることとなっている。
 
 紀元前より圧倒的に強い国々に侵略されながらも、ベトナム人は独立闘争を続けてきた。モンゴル人の元帝国が50万人で攻め込んだ時には、北部ホ河の引き潮を利用した巧みな水上戦で打ち負かしている。他に当時最強のモンゴル軍を敗退させたのは、日本とエジプトだけだ。
 1、000年間北ベトナムは中国に占領されていたのに、中国の一部とはならなかった。現代兵器で装備された54万人以上のアメリカ軍にもほぼ人力で立ち向かい勝利した。
 今やベトナム戦後のベビーブームもあって人口8,000万人を超える東南アジアの大国であり、アジア通貨危機もドイモイ政策直後であったので影響も少なく、重工業部門は石油輸出国なのにガソリンは輸入する等の段階ではあるが、軽工業、サービス業の活況、そして農業はドイモイ以来生産意欲を刺激された農民がユイマール共同作業と水牛を駆使して、タイ、アメリカと共に三大米輸出国となった。しかもドイモイ後の二人っ子政策は都市住民と公務員には効果があったが、農村は野放し状態のままで、未登録のため教育も資格も免許証も得られない中国の「黒子」と同じ境遇の人口が多数潜在していると言われ、来世紀には確実に人口が倍増する状況が懸念されている。
 この独立への強力な活力はどこから生まれるのだろうか?その問いがベトナムを訪れるずっと前から、僕に突きつけられている。(あの北部から中部にかけての緑したたる山塊と、その麓に執拗に耕されている水田。日本昔物語風の村落。そして南に広がる悠久たるメコン・デルタ農耕地帯。びしっり詰った街と村。バイクと車ひしめく自動車道。これが、ベトナム戦中に、前大戦で世界中に投下された爆弾総量の6倍の爆弾に破壊されたはずの国なのか?)と。
 
 暗くなってホテルに戻った。そこの庭があたりの、これ以上凝縮できないほどまでにちぢまって並ぶ民家の前庭と比べて、とてつもなく広い王宮の庭のように見える。一泊4ドルながら、平均月収30ドルほどで家族を養っているベトナム人にとって、観光客は王侯貴族並の身分だということになる。食堂にたむろする10人ほどの客の半分ほどは、このホテルにも泊まれるだけの収入のある、国内観光ブームに乗った、ベトナム人中産階級だ。
 ホテル受付に近いテーブルに坐り夕食を食べた。単なる焼き飯でも、ベトナム料理の味はしつこくない上にデリカシーに富んでいる。こういう店では半ドルはするが、道端では20セントで食えるという、旅人にとっては食生活に、恵まれた国だ。
 食後のテーブルの隣にホテルのオーナーらしい壮年の男が坐った。50才代半ばに見えるオーナーの名前は「トラニ」と言う。髪は薄いが正面切って見据える目に口髭は、精悍な元将校のような印象を与える。英語を理解する若い男を呼ぶと何か言った。
 「あなたには誰か世話をしてくれる女が必要だ」と青年が通訳した。突然のことでその意味するところが掴めない。キョトンとした僕の目の前で男は左足のズボンをたくしあげ、サンダルを脱いだ。見れば足の甲から指までの左側半分程が欠けている同類だ。「地雷を踏んだんだ」という意味の、手の平を上に向けてパット開くジェスチャーを男はした。
 「明日村で親族の集まりがあるので一緒に来ないかと言っています」と通訳の青年。村の集まりには興味があるから「OK」をした。
 
(次号に続く)
 

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