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鈴木ヒデ100歳を祝う
菅野 幸江
 
 私の祖母鈴木(旧姓・武藤)ヒデはこの平成21年5月15日めでたく満100歳の誕生日を迎えた。
 この日、午前10時から自宅で行われた「賀寿の会」には町役場関係・福祉関係・村中・親戚関係・地元ケーブルテレビ取材陣等々、50人近くが集まった
 車椅子ながらも、赤い帽子とちゃんちゃんこを身に着けた祖母は、床の間をバックに緊張しながら花束・表彰状・記念品と100万円のお祝い金をもらい、約1時間弱の式典をこなした。この日のために練習した「ありがとう」「うれしいです」の言葉は、残念ながらはっきりとは発せられなかったが、人前に出るのが大の苦手な祖母にしては精一杯の舞台だったことだろう。困ったような顔のアップが地元のニュース番組で放映されていた。 
 
 祖母は明治42年5月15日西会津町芹沼に生まれた。 
 幼い頃に父親を病気で亡くし、鉛筆一本も買ってもらえない、ろくに学校にも行かせてもらえない困窮した幼少時代をすごしたという。
 21歳で山口村の小作農民、鈴木亀松に嫁ぎ、舅・姑・小姑に仕えながら次々と女の子を産んだ。(うち、一人の子は早世してしまう)
 家族も増え、嫁としての立場も安定し、さあこれから力を合わせて家族の絆を強くしていこうという矢先の昭和11年「日支事変」が勃発。日本が中国侵略戦争へと進み始めた事件だった。運の悪いことに早速夫・亀松に召集令状が来た。祖母はそのとき4番目の子を身ごもっていた。
 翌昭和12年、あろうことか、亀松は満州の地で名誉の戦死をとげてしまう。35歳だった。彼は自分の4番目の娘の顔を見ることなく逝った。
 祖母ヒデは若干29歳で戦争未亡人となってしまったのだった。
 6歳を頭に幼い3人の女の子を抱え、祖母は再婚もせず、戦時下を生き抜き、戦後も馬車馬のごとく鬼夜叉のごとく働き、家田畑を守り、子ども達をひとりで育てた。
 赤貧洗うが如し――の諺どおり、3度の飯にも事欠くずいぶんな貧乏ぶりだったようで、母などは小さい頃から学校どころではなく、家事全般・子守・農作業の手伝いと、祖母の右腕のように働いたものだと、今、誇らしげに振り返ってみせる。
 これまで祖母は世間から「気性が激しい」「頑固者」「負けず嫌い・きかん気」と、負のイメージで語られることが多かったし、確かにそのとおりなのだが、私は祖母の生きてきた背景を考える時、そうしないと生きてこられなかったのだと思っている。
 私の知っている祖母は、厳しいところもあったけど好奇心旺盛な前向きな性格で、家族愛に満ちた人だ。祖母はいつも家族を全力で守ろうとしていたと思う。
 
 私が子どもの頃、駄菓子屋でこっそり買い食いをしようとしたら、祖母に見つかり、橋から逆さづりにされてこっぴどく怒られた記憶がある。浪費癖がつくといけないという理由だった。しかし同時期、祖母に「小学生新聞」「たのしい小学生」等の雑誌や新聞を取り寄せしてもらって(村には本屋がなかった)定期購読していた記憶もある。たいして役立つ楽しいものでもなかったが、無学な祖母は、孫が村の子ども達に本をすらすら読んで聞かせているのが無性にうれしく自慢だったようだ。
 テレビが「一億を総白痴にする」と言われ、まだ一般にそんなに普及していない時代、私が学校の友達と話題が合わないから家にもテレビが欲しいとねだったとき、父の反対を押し切ってテレビを買ってくれたのも祖母だった。「ゆっちゃがむずせべ(ゆきえがかわいそうだろう)」と言った。孫には甘かったようだ。
 養蚕や山菜の現金収入を大切に貯めて、祖母は古くなった自宅を少しずつリフォームするのも楽しみにしていた。ポンプでギィコギィコ汲んでいた井戸水をモーターで汲み上げて水道にし、台所も土間から板敷きのフラットにした。広くて寒い囲炉裏の間を半分に囲み、戸を立て、炬燵のある居間にした。当時はまだ珍しかった総タイルのお風呂場が出来た時、私たち子どもは「天皇陛下が入るようなお風呂だ」と狂喜したことを覚えている。
 つましい暮らしをしていたが、祖母は決してケチではなかった。親戚、村中の冠婚葬祭、節季の礼などはどんなに家計が苦しくてもちゃんとやった。義理を欠かすことをひどく嫌った。お金に対して一本のスタンスがあったように思う。
「金は堅くして貯めろ」「他人様に後ろ指さされるような真似してはならね」が口癖で、明治・大正・昭和・平成と、清く正しく潔癖に生きてきた日本女子の鏡のような人である。
 
 現在、子3人、孫12人、曾孫16人、玄孫6人という子孫繁栄ぶり。
 100歳を迎えてさすがに一日中うとうとしていることが多くなったが、三度の食事はきちんと摂り、介護する母相手に楽しそうにおしゃべりすることもある。一族の中心にあるどっしりとした存在感がある、元気なヒデばあさんである。
 私は祖母にとって初孫であり、18年間ひとつ屋根の下に暮らし、大切に育ててもらったが、不遜にも彼女の愛を疎ましく思った時期があった。家を出た時、縛りから自由になったと信じたが、それは思い上がりであったと50を過ぎたこの頃思う。
 私は祖母からとても影響を受けていたと感じる。そのくせ祖母の生き方、根性、哲学には今も遠く及ばないし、生涯この人を越えられそうにないなと、今回改めて自分のアイディンティテーを見つめなおした。祖母には、どうかいつまでも元気でいて欲しいと心から願っている。ヒデばあちゃん!100歳おめでとう!  H21・6
 

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