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      無題
岩渕 聡      
 
 あの日から何故か忙しくなった様な気がする。吉沢さんが亡くなったあの日からだ。音楽や生き方に対する諸々のことは本当のところまだあまり触れたくない。直後であれば、勢いや義務感からでそうしたことも考えなしに突っ走れた様なものだが、今は中途半端な時期という感じがどうしても抜けない。逆にあれやこれやの思い出が想像(妄想?)を伴って脳裏を過ぎるため、それが果たして正しい答えなのかの見当さえ付かない。そうした事情もあって以前発表した原稿の改訂版でお許し願いたい。
 
 “空を聴く(くうをきく)”ということ   

吉沢元治の音楽   初稿・平成5月9月発表
              
 心地よい音楽を聴く度に常々感じることがある。それは何も無いはずのところに、むしろ何も無いが故にはっきりとと浮かび上がってくるものがあるということ。もちろん欠落が埋められたことを指すものではなく、ましてや気のせいではない。意識が解放された場が開かれることが重要なのだろう。とりわけ良い音楽には全てを包み込んでしまう「何か《が在るのではないだろうか。そんなものを持っている演奏者の一人として吉沢元治は存在した。当然に音楽(の解釈)とは現在進行形で変化するものであり、たとえ演奏者が存在しなくても個々の意識においてはその事実は重要ではない。説明するほどのこともないが、記憶は後々の経験の積み重ねによって様々に形を変えるということなのだろう。
 これから書くことは、もしかすると誤解している部分もあるかもしれない。願わくば曲解で無いことを前提にして、私の吉沢元治に対しての理解である。と、同時に即興に対しての現在の理解であり、そうしたものに触れようとする方の理解の助けになればと思っている。
 
 ■ 感じることの大切さについて

            =そして備えること
 
 かなりくどい話になるのに加え、改めて声を大にして言う必要はないとも思われることが多いのだが、そういったことにも触れながら話をさせてもらおう。何故なら吉沢元治のことを説明する上でも、また即興芸術一般について私がとても大切だと思うことを理解していない人が多いのではないかと思うと気になって仕方がないのだ。そして知識が豊富な方の中にも少なからずいわゆる「わかっていない人《がいると思うし、逆にわかってもらえなければ、特定の人にしかわからないものとしてしか、本原稿が成立しないのだから。もしくはその場限りのものとしてしか言葉が広がってゆかないので、敢えてこの場では「聴こえること《「見えること《を含めて「感じられること《*創造力(あるいは想像力)があること*についての才能に関して触れさせてもらうことにしたい。もう少し限定的に言うならば、音楽を含むアートと対峙するとき、次に挙げる混同され易い事象を肉体の言葉として区別できることが大切だと私は思っている。
 
 発明と発見
 
 存在とテクノロジー、若しくは技法との融合。言葉そのものの意味は今更説明の必要は無いと思う。つまり吉沢元治が考えてきた(こだわってきた)ことは自己表現欲求に追いつくテクノロジーがあるかどうかということだろう。普通なら、あそこまでアコースティックな表現を極めているのだから、そこで満足してしまう(留まってしまう)人が多いということ。そして何よりもひとつの自分を見つけることがとても楽しいことだと感じている人だということ。簡単な様でこれは本当はなかなか出来ることではない。加えて他人の中に自分を投影出来ること、こういうことは生きていく上でもとても大切だと思う。発見といえば、吉沢元治がワークショップを始めるとき、「自分が教えることは基本的に無い。それぞれの中で見つけて欲しい《みたいな意味のことを言っていたように記憶している。
 
2 インプロヴィゼーションとアドリブ
 
 即興と即興的であることの違い、クリシェを持つか否か。このことをわかっている人は意外と少ないのではないだろうか。つまりは演奏する上でひとつの軸を持っているかどうかということで、けっして一定の決められた枠の中で表現するのではないこと。モチーフはあっても予定調和に走らないこと、同じ様に廻りもそれを期待しないこと。この場合、湧き出てくることであって、垂れ流しで無いことが大切なことだと思う。むしろ速度よりも密度、音の数ではなく凝縮された時間・空間を生み出せること、強い磁場を持った音が在ること。意味も無くスタイルを変化させるということでは無く、自分にとっても他人にとってもフレキシヴィリティがあること。これらをバランス良く備えていた演奏家の一人として吉沢元治は存在した。
 
3 創造と想像
 
 クリエーションとイマジネーションの違い。自らの中から湧き出て来るものと他人の中から引き出すための方法。この場合の他人とは、第二、第三の自分をも指せるものだが、そのことに多くの期待をかける人はいないだろう。ただし基本となるものは常に自己の中にあるということ。これが新たなる発見となり、驚きとなり次に進むステップとなる。そして他人との理解のための道具となる。
 
 存在と存在証明
 
 置き換えれば、記憶と記録の違い、演奏と作品、生演奏と著作物。目の前に存在することと存在したことの違い、如何にして現場と関わるか。いつも言いたいことは、生の演奏に触れること。再現性のあるものとは、本質的には即興演奏ではない。場の持つ空気は記録できない。ひとつの音も聴き漏らすまいと思う緊張感は聴き手としての感性も育ててくれるものである。出来る限り生まれ出る音の立会人となって欲しい。
 
5 フリーとアヴァンギャルド
 
 自由であることと拠り所が希薄であること。出発点としての解放と帰結としての解放。少し限定的な意味になっている。フリーであるということは自分(主体としての人間)が解放されていること。アヴァンギャルドとは作品(客体としての演奏)が解放されていること。状況と状態との違いとも言える。
 
 これだけではないが、もうひとつとても重要なことがある。知らないことを理由にして開き直らないこと、自分を正当化しないこと。知るということにおいて過ぎるということはないと覚えていて欲しい。ただし取捨選択が出来ることが前提となるが・・・。
 言葉でわかる必要はないが、私が感じていること、吉沢元治の演奏を聴き、見、そして話して理解しえたことの取りあえずのまとめとしてこの原稿は成り立っている。だから進化するし、後々には当然のように違うことを言うかもしれない。
 
 ■ そして“空を聴く(空を聴く)”

            ということ
 
 吉沢元治の演奏を聴く度に感じることがある。楽器の性質以前の問題だと思うが、大きな空間がいつも吉沢元治の背後に見えるのだ。今は自作のエリクトリック・バーチカル・ベースにエフェクターを繋いで演奏しているのだが、空間の拡がりそのものは以前のアコースティックなときと変わらぬテイストを保っているのだ。これは亡くなる一年程前からアコースティックな表現も並行して行なう様になって再確認した。
 一言で言うと音の中に自己と他者とが常に並立して存在している様なのだ。しかもナルシスティックになり過ぎずにいることが何よりも驚きなのだ。演奏を通して伝わって来る意識の速度が変わらないのかもしれない。そして密度も同様に。自分の中の増殖した自分と遊んでいるかの様に感じる。そこに常に驚きと発見があり、そのことがもしかするとひとつの推進力になっているのだろう。そして何よりも邦楽を聴くときに強く感じられる「間《といったものが、いわゆる「タメ《とは異なるものが感じられる。
 また特定のイメージを想起させるテーマを持っていない。これが通常は核的なものの上在として現出しがちであるが、吉沢元治においてはこれが感じられない。創造のパワーが破壊のそれよりも勝るためなのだろうが、誤解を恐れずに言えば、故・高柳昌行の演奏が解体へ向かう演奏の極限とすれば、両者は対極に位置するものとして存在するのだろう。
 何も無いはずのところに何かを感じるとき、それは紛れもなく至高の時と言えるのではないだろうか。これは本来言葉で表現されるべきことではない。あたかもエクスタシーとはどんな状態か、ドラック体験の自己描写などを強要されている様であまり楽しいことではない。またまとまりのある言葉になるとは思えない。高柳昌行が、「どうせ(気に入らなければ)二度と聴かないのだから、騙されてと思って(自分の演奏を)聴いてごらん《と言っていたことが思い出される。まさにその通りだと思う。
 多分、これからも何度か書かなければ全てを表わすことは出来ないだろう。人間そのものが多次元の立体として、混沌を抱えつつ存在しているのだから。その度に吉沢元治の音楽の捉え方も変わってくるのだろう。     
(岩渕聡・PSFレコード)

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