prev No57-top next



「即興の鬼《ベーシスト      吉沢元治に捧ぐ
山崎史郎
 
  一九九八年九月十二日午前二時十八分、吉沢パパこと、吉沢元治は来たるべく二十一世紀を待たずして逝ってしまった。世情は混沌として、まさしく世紀末の様相を呈してきた。享年六十七才だった。
 
  私が始めて彼を知った時も現況とは違う意味で混沌とした時代だった。それは遡ること約三十年前のことである。ちょうど十八の頃だったと思うが、私の佐世保時代、アメリカの空母「エンタープライズ《の帰港反対闘争の洗礼を受け、受験のために上京してまもない頃、時は六十年代後期の安保騒動の渦中だった。その頃のジャズシーンは乱流ではあったが実に活気のある時代だった。そして学生運動とともにあらゆる事象が、個々の実存との関わりを内包していた。ジャズもその例外ではなかった。それは単なる流行の音楽としてではなく、当時の若者の精神性と強く結びつき、その後の人生の方向性までも作用した時代でもあった。そしてその全ての拠点が新宿という街に凝集していた。当時の私は学生運動の大きなうねりの中で、疲弊した肉体とその精神を癒やすかのように、新宿の街を彷徨い歩き、足は自らいつものジャズのライブハウスへと向かっていた。そしてその時、ピアノトリオでの吉沢元治を聞いた。始めての出会いであった。いつものとは違う、そう突き抜ける様な何かが脳裏を走ったのを記憶している。その後何度か聞く機会があった。
 
  阿部薫、高木元輝、沖至、山下洋輔等もいた。私の佐世保時代は米軍の基地があったせいで、中学、高校の時からジャズをよく聞いた。モダンジャズ全盛の時代だった。殊に何故かベースが好きだった。確か札幌管弦楽団のコントラバス奏者の人だったと思うが、その人から練習様のチャキ製のベースをもらって見様見まねで弾いて遊んでいた。
 
  それから高校の先輩でもある、通称“ジョーさん”が、基地の前で営業していた“ダウンビート”というジャズバーにいつもたむろしていた。そのバーで、海兵隊の連中が持ってきたレコードを聞き漁っていた。中でもコルトレーンはもちろんの事、セシル・テイラー。エリック・ドルフィー。オーネット・コールマン等のフリー系のジャズを好んで聞いていた。その頃、吉沢元治は東京を中心としたジャズシーン中できっとアグレッシヴなベースを弾きまくっていたに違いない。その後私は前述の様に上京し半ば必然的に新宿の街で吉沢元治とであったのである。
 
  しかしながら、七十年に入ってから、私は混乱した世情の中で、希望と蹉跌の葛藤を繰り返し、いつしか己の実存の旅へと思いはつのっていった。それから数年の放浪の旅が始まった。七十年代も半ばになると、ジャズシーンもモダンからフュージョンの時代へと移行していくにつれて、私も次第にジャズから遠ざかってしまった。そして時と共に私の心中に潛かに侵入していた吉沢元治もどこかにいってしまった。
 
  それから経ること十数年後に、私は移り住んだ神奈川県の西端、津久井の地で彼と再会した。あの時の挑戦的な風貌は消え失せて、白髭混じりの好々爺の様な穏やかな笑みを浮かべての登場だった。しかも傍らにトンボ眼鏡めがねに竹トンボの帽子を被った何ともキティな女の子を連れていた 御存知“メグちゃん”である。その頃から彼女をマネージャーにベースソロ活動を始めていた。音も以前とは変化していた。私も最初はエフェクター等を使った電機音に異和感を覚えたが、除々に彼の確かな音楽性に裏打ちされたその多様な音質にひかれていった。 
 
  まもなく九十年には、吉沢氏との出会いの場を作ってくれた建築家の天野翼氏の音頭で藤野の地で一度限りの“砂の曼陀羅音楽祭”が、その頃藤野に住みつき始めたアーチスト達の協力の元に催された。素晴らしかったその音楽祭も吉沢氏の尽力が多大であったことはいうまでもない。その時、私も藤野在住の石沢幸延氏等と“ルクシュタイン”という石沢氏いうところのコレクティブジャズバンドを作って参加していた。三日目の最終日に吉沢氏の“一緒にやろうよ”という彼のその一言で臆面もなく共に演奏する機会を与えてもらった。以来、私のジャズ熱に又火がついてしまった。しかし殆なくベースの基礎もないままにフリーに弾いていた私に当然の如く大きな壁が立ち塞がってしまった。その時、手が動かない私に彼はこうアドバイスしてくれた。“基礎とかテクニックとか小難しいことはあまり考えないほうがいいよ。とにかく肩の力を抜いて好きに楽しくやっていれば自然にテクニックもつくし、一番大切なのはあなたの感性をいかにして音楽に表現するかなのだから”・・・と。しかし彼のアドバイスの元に好きに楽しく弾いてるが一向に私のベースは上達しているとは思えない。才能なき者は辛抱強くやるしかないという事なのだろう。
 
  それから数年、吉沢パパはメグちゃんと精力的にコンサート活動を消化していた。しかしその頃から肝臓ガンという重大な病いが彼の体の中に巣食い始めていた。だがその事とは裏腹に彼の音楽に対する情熱は益々上昇し充実しているかの様だった。彼の手で作り上げられたあの見事なオリジナルのエレクトリックベースは正にその結晶であるともいえる。そのベースを携えてベースソロという音の限界に果敢に挑戦している姿は、ミスターベースマン吉沢元治の真骨頂とでもいえる姿であった。傍題に揚げた「即興の鬼《といわれた頃である。
 
  その後の病いの進行とともに除々にではあるがコンサート活動も減少していった。が、彼の持ち前のクリエィティヴな姿勢は全く衰えてはいなかった病いをおして様々なパフォーマーやミュージィシャンとの共演を重ね海外でのコンサートツァーもこなしていた。それなりにガンとのつきあい方も会得しているかのようであった。その後の彼の頑かたくなともいえる是々非々主義は、これから病いと共に音楽活動をして行くためにはには必要上可欠なことであったかも知れない。昔の彼を知っている人は少々脆弱に感じたかも知れないが・・。
 
  二年殆前九六年に長野の大町から山梨の上野原に引っ越してきたが、その前の一時期、大町での上便さもあって(身体の限界も感じていたと思うが)藤野の柳田氏の“無形の家”に寄宿していた。爾来じらい、私との関係もさらに密になっていった。しかしそれは音楽家「吉沢元治《というよりも、人間「吉沢元治《とのつきあいの方が多かった様に思える。その頃から病院への入退院も頻繁ひにぱんになってきた。何度もいうようようだが、彼はいつもポジティヴに物事を考え、何事にもましてベースを演奏するということを優先に考えてきた。
 
  それは最後の海外ツアーとなった米国での一ヶ月の演奏活動に象徴されている。彼の死後、良き理解者でもあった主治医の杉浦先生に聞いた事であるが“実は米国でのツアーは彼にとって自殺行為の何ものでもなかった”と。しかし彼はそれを承知で、無謀ともいえる一ヶ月の演奏旅行へと旅立っていった。パートナーのメグちゃんも随分悩んでの結論でもあった。最後のツアー地ニューヨークでのコンサートは二週間殆どの間私も共に行動したが、その時ガンは彼の右肩と左足の大腿骨の部分に転移していた。その満身創痍の身体で強い痛み止めの薬を飲みながらの演奏であった。彼はニューヨークでは何故かいつも怒っているかの様だった。きっと思うように動かない身体と必死に格闘しもがき苦しんでいたに違いない。その中で全体を見透して淡々と演奏している彼の姿に一種の感動にもにた深い感慨を覚えたことを記憶している。
 
  帰国後、無理がたたったのか吐血入院そして退院。又入院と繰り返し病状は次第に悪化していった。その後の経緯は皆、周知の事だと思う。彼は亡くなる二ヶ月殆前、別れていた息子である明男さんと二十七年ぶりに再会を果たした。その時、又彼の精気が蘇ったようにおもえた。そして一ヶ月殆前には二年前から共に活動していた弘願寺の角田大龍氏の率いる“ギャーテーズ”のライブ演奏もこなしていた。そして次回の“生前供養コンサート”へと突入する予定であった。しかしその三日前に今まで上死鳥のように蘇ってきた彼もついに力尽きてしまった。
  最後の病床では、いかにも吉沢元治らしく無意識の中でもなおベースを演奏するかのように逝ってしまった。その後、彼と今まで親交の在った多くの人たちと“お別れ会”“葬式”“追悼コンサート”“富士山での散骨式”と彼に関する追悼の行事を行ってきたがその全ての行為が実に自然で素晴らしく輝いていた。 彼の最初の弟子でもあった岡本希輔氏の言葉がその事実を言い放っている。それは、吉沢元治氏と時空を共有したもの達だけが感じる“ふつふつと発酵する魂の有り様であり“在りたい容かたちの自分が確かに此処に在るという時空への存在証明なのである。彼は生前にもまして亡くなってからもさらに多くのメッセージを残してくれた。私達が彼の死に付き添った何ともいいようのない、満たされた思いは死の悲しみを超越した、死者による大事なメッセージの様でもあるし、それは生き残ったもの達がどれだけ濃密に死者にかかわれるかにかかっている。又葬式は「死の儀式《ではなく「生《の延長上にあり自分を表現することができる「生の儀式《であるともいえる。まさしく「生き方《=「死に方《であろう。生きてきた事を証明する肉体が灰となり骨となる。その肉体が目前から消えてしまうという事は残された者にとってはたえ難い悲しみであろう。しかし彼は残された我々に深い癒やしを与えてくれた。自然には始まりも終わりもない。人生も又然りである。私達はその一瞬を見ているだけなのかも知れない。それはその一瞬に人生をかけた吉沢元治の生き様でもあった。
 
   最後に私の拙句を三句。
        冬山家コントラバスと棲む男
        寒月光造化の神と会ひにけり
        寒雷や幽音法師現るる
                  史郎
 
   吉沢元治さんの一句。
        囀さえずりやカザルス裸足でにげてゆき
                
   戒吊
        虚空院幽音徹巖居士
                   合掌

prev No57-top next