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ようこそ吉沢さん
角田大龍
 
 吉沢元治がこの世を去ってから、確実に私の中に宿り胎動を始めた何かがある。
 それが一体何なのか?実はまだもやもやとしてはっきりわからない。
 たとえわかってもそれを文字や言葉に置き換えてしまうと上完全なものとなってしまい、またそれは私にとって正しい方法ではない。
 なぜなら音を出す行為や日常を生きるというライブな状況の中においてのみ、それは息づき、成長し、表現できるからだ。
 
 
 一九九六年七月、藤野「無形の家《でのギャーテーズのコンサートで吉沢元治と初め出会った。
 知人がいま「無形の家《に吉沢さんというベースを弾ける人が居候をしているから、その人にPAのミキサーを頼むといいよ、ということがそもそものきっかけだった。 当時私は彼が高吊なミュージシャンであることなどまるで知らず、それは私にとってとても幸運なことで、だからこそかまえることなく、そのままの吉沢元治と接することができた。
 ヨモギを吸いベースを弾く小柄でひげをはやした頑固そうなおっさん。
 どうやら彼はなぜかギャーテーズのサウンドを気に入ったようで、特に知的に障害があるとこの世から言われている大橋(たいきょう)さんや弘順(こうじゅん)さん、中でもとりわけ大愚(たいぐ)さんのプレイと人柄が気に入り、ことあるごとに「あいつらにはかなわねえよ《とよく言っていた。
 一体何がかなわないのか、私にはよくわからなかったが、ただ音のかもしだす方向性が、いわゆるフリーミュージックや即興というとどうしても内面に向かい易く、その結果必要以上に重い音になってしまったり難解になってしまったり、または独りよがりになる傾向は確かにあって、ギャーテーズの3人の出す音は明らかにそれとは逆行し、ひたすら解放に向かってのみばく進していたからかもしれない。
 
 
 吉沢元治がメンバーとしてギャテーズに参加した期間は約一年半。およそ八回のステージを共にした。それは決して長い期間ではなかったかもしれない。
 しかし吉沢元治がギャーテーズという、知的に障害ある人々を含み、弘願寺という寺院を拠点としているフリーミュージックバンドに参加した後に生涯を閉じたと言う事実は、とても深い意味を持つことだと思う。
 
 
 一九九八年九月一二日。吉沢元治の生命は、まるで彼自身が弓で弦を弾き、その音がフェードアウトしていくように消え去っていった。
 しかし彼は死によって私の中に入り込み、今でも確実に存在している。
 
 
 ようこそ吉沢さん
 人は死ぬことによって何かを伝えていくのだろうか。これからが私にとっての観音の始まりなのだと思う。
 
(角田大龍・・・弘願寺僧侶、ギャーテーズ主宰)

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