No87 home No89

苔の生すまで

● ひとりひとり、誰もがその母をもつ。ということが、ひとりひとり、その首にたとえようもない花環をかける。

● 去ったものは薄れる。薄情に思える。だが薄らいだのは自分のほうだ。情は傷みに逆らって立つべきなのに、傷みに寄り添っては傷みに融け、情として薄らいでしまう。怨恨はどんなに激しくとも情の薄れなのだ。自分に寄り添ってしまえば自分は薄れる。

● 数というものがあるせいで合わなくていい辻褄が繰返し合ってしまう。

● 光は、それぞれの物において差す向きを取る。それぞれに差し、それぞれの物の内部でただちに屈折を得、差す向きに逆らった向きへはたらき始める。

● 群れているというより煙っている。

● 顔で顔をなぞる。顔で顔を蹂る。蹂って追いつくものでなし。

● 隙きまから全体は見えない。眼はわずかな隙きまではないだろうか。隙きまがなければ見るということは生じない。眼はわずかな隙きまではないだろうか。隙きまから身を離し、ほんの少しでも退ってみよ。

● ゆっくりと味わえば、ねんごろに弔うに似る。

● この瞼は他人の記憶がうつるゆえに私の瞼なのかもしれない。

● 仄白いものが皆な雪に見えてしまう。私ではない速度で走っているあいだ。

● 流れて住いを割る。

● 住いで割る。流れ敢えずに流れるよりもはるかに流れ。

● 指で指を数えてはならない。

● 火は消えるのではなく、憶い出すような可能性を消すのだ。

● 滲むに於ては、失せることと満ちること、失うことと満たすことは、ひとしい。

● 目の支(か)てとなるあらゆる風景を殺す。

● 差し障り、顔が、あらゆる差し障りへの、差し障り。

● 食べることは戦。闘争。食べ物にありつくことがではない。食べた物に打ち克ち従えなくてはならないのだ。

● 賑わって四時を祝い、雪は四方へ手向け。

● からだは借り物。いつかは返さなければならない。が、その前にからだに返さなくてはならぬ時間があるだろう。

● 拝借。ということは始めからないのか。ないものをあることにするための借りか。

● 舞い落ちる一片の雪を座として正座する。天地をまわして己れに正対する。

● 遠近は疎密となり、視点は相へ移る。そこでは、つまりここでは、互いに漏れあい、互いに漏らしあう、どんなに軋んでも相としてはなめらかな流れをなす。

● 見ると見ないを閉じて、眺めを合わせる。

● 見ると見ないを合わせて、眺めを閉じる。

● この世の最大の暴力は安住の地である。

● いちまいの霹靂をへだてて流れる路すじ。

● 涙には路がある。目を溢れ出てからのではなく、目へ溢れるまでにからだのどこをどう通ってくるかの路すじだ。数え切れぬほどの路が考えられる。だが、ふと、前にここを通ったと思われる路すじを経てくる涙がある。同じところから生じた涙なのだろうか。

● 去られることが悲しいのではない。互いに動くことなく、見つめあいさえしながら、ゆっくりとすれ違っている速度がいつか不意に露わになる予感に胸がふるえるのだ。 ● 空全体を聴く心地。音→響き→余韻→さらにその余白のひろがり。空全体を聴くのは、自分の皮膚をぜんぶ聴くことに響く。皮膚の余が皮膚を余とするまで聴く。骨肉は皮膚の内か外か。骨のありかに響きはへだたる。皮膚を出入りするものを皮膚が出入りするほど。

● 聴く行為の発する響き。聴くことの響き。食べることがからだをつくるように。聴くことが空である。身体とはすなわち聴くこと。聴くことが立つとともに聴くことに取りまかれる。その消息を呼吸している。

● いちいち呼吸を憶えてはいない。呼吸が呼吸をめくる。忘れるほうへめくる。絶えまないものにより絶えまを差し挿む。繰返して忘れる。忘れて継ぐ。

● その顔が私の瞼に先んじてこの目を閉ざす。

● おれが膏肓を出てゆけばいいのだ。

● うたは声を束ねる。が、うたを俟たなくとも声は束なのだ。私の知らぬ祖と余所がこもごも束ねられる。火のように激しく入れ替わりながら。声は私よりも遠くから来る。つまり私は私よりも遠い。声はその消息をおしえる。

● 端坐してしずまれば、その余もすべて鎮まる。しずまりすぎることには耐えておく。額をわずかに伏 せ、頤(おとがい)で左右に掃いて後ろへ退いてゆく。身は坐したまま、退いてゆくものは何だろう。退くほどに一途にしずまる。

● 濡れたところから実体となる。

● あらゆるしぐさ、あらゆる音声(おんじょう)、あらゆる呼吸が愛の試み。それは弛(たゆ)みなく動くことと、動くことがそれじしんに届くこととの落差。

● 滝のように落ちつづけることで立っている。

● ふれて、ふれた私を通じて晴れはじめる。空ばかりか。みるみる映えてゆく。ひとつずつ具(つぶ)さに。

● かすかなものは奪わない。目も耳も、露知らぬものが与えている。物皆な熄(や)むとき、奪わぬものが奪うとき。奪われたのをすぐにも忘れ、些細が支え。熄むほどを、ほそぼそと露(あら)われる針の震 え。もとより針はなく、震えもたちまち紛れる。一旦は震えに奪われ、ついで震えを奪われ、奪われを忘れ、忘れに疲れ、泥のように冴えてくる箇所に、おそらく目のようなものが生じ、耳のようなものが生じる。

● 生きているということは何かに近いということであり、それが取りもなおさず寂しさにほかならない。何かに遠いことが寂しさなのではない。

● 風だ。べつの時間が入ってくる。時間がかわる。

● 光にひそめば光が消える。

No87 home No89