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“御挨拶”  八木雅弘

 客なくば主なし。無事不在の挨拶に立つ。不在を似てこの閾(しきい)に立つ。無言のまま以下の手順を口上に代える。

   器を傾ける。できるだけ目いっぱい傾けてみても、注げる量は器に限られている。それにこの器は充分満ちていない。ただでさえ少い量を惜しむつもりはないが、傾けるべき時が満ちるまで、期(ご)に及ぶまで、器を濫りに傾けない。わずかに、ごくわずかに、自分でさえ気づくか気づかぬかに傾けておく。その傾けかたが正しかろうと誤っていようと、そのほんのわずかさに有(も)てる全てを賭けるならば、傾きに順したがって器はわずかづつひらけるだろう。器に順って量はひろがるだろう。量に器が順うのではない。満ちるために器はわずかに傾かねばならない。ひらけるために器はわずかな傾きを持ち堪(こ)たえぬかねばならない。傾いたまま器が静かなとき、空は映って裏返る。量をわずかでもひろげたならば、映じた空はつぶさに深まる。その一生は、その一生を。目をつぶり、澄み切るまで立ち尽くして器とも知らず器をのぞくなら、真直ぐ空にのぞかれるまま空となって高まる。空ばかり高まり、空ばかり明けてひろがる。誰かが影を傾けてそれと知らず器を直し、縁(へり)を踏んで音もなく去る。

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