滲み始め
八木 雅弘
○一日に、四季より多く季がめぐる。発熱は四季を乱して整える。
○苦しんで、遠ざかってはいけない。苦しむほど近づくがいい。
○生き死には、じつのところ、いのちの問題ではない。
○世界に住んでいる人間など何処にいる。世界に住まれているだけだ。世界が去った後も人間は生き残る。それが問題ではないか。
○苦痛が私ではない。それが私の果てしなさとなる。あたかもその苦痛へ重なろうとして動く。
○顔の中心を(あるいは顔に中心を与えて)出入りするのは匂いである。
○深まるとき、そよぐ。不動のまま、ある向きへ沈み込んでゆくなら、そよぐほかない。眠りを眠る。寝息にそよいでいるのは存在のゆくえである。ときに声に及ぶ。横たわるからだを定めて残し、少しづつ声を捨てな がら、存在のゆくえは存在からさらに(たぶ んほんの少し)深まってゆく。
○地震がおしえるのは、地震よりはるかに激しいそよぎとしてこのからだがそびえている事実である。そびえて、立たず。立てずにたつ。かろうじてそよぐ。つまり、落ちている。落下の最中。
○落下の感覚を欠くに到った、長い長い落下。倒れて、なおも倒れ込む感覚。さらに倒れる先をもたぬまま、もっと倒れようとする。胎児のように丸くなる。
○痛みの持続。痛みがほそく、鈍く、糸のように垂れて伸びてゆく。私が感じている時も、感じていない時も、私の奥深くで、私とほとんど関わりなく持続している痛み。痛みであることを忘れはてた痛み。時おり痛みが私を憶い出す。唄。
○落下を来たすのは外でもなければ内でもない。流れには両岸があり、底がある。滝?滝そのものは激しく耳を澄ましている。落ちるもの、落ちつづけているものは、立っているように見える。
○雨降る、その降るということ。嚥むときさらに激しく私が落ちる。
○厄介な手続きを重ねるぶん、鮮かに来る。そして忘れるとき、さらに鮮かに、与りきれぬくらい鮮かに、それは開ききる。開ききったそれが私を忘れるから、私は知らない。
○熱を、熱だけをそこへ置くことができるか。表面が少し曇る。
○水に落着はない。水の静けさは水の果てしなさである。広がりとしてよりゆくえとしての果てしなさ。
○匂いは口の痕跡なのだ。口は匂いを忽ち忘れる。花とは匂いを激しく忘れる忘れかたである。どこへも辿り着かない。口はひらいて、ひらいたということを忘れる。この忘却が匂いにどこまでも寄り添う。
○残す、去ることの重みと釣りあうため?あるいは去らずに残す。
○滴(しずく)する。静かに決する。生き死には激しさを激しくは見せない。結ぶ。こきざみに揺れる孤立をこそ結ぶ。
○優しさを断念するほどの優しさ。
○この世に墓などない。あるいはこの世は墓でしかない。
○血はあの世で流れる。ここがあの世かと流れている。
○向きを示しても、風は単に向きではない。別の向きでもあるという以上に向きとは別の何かでもある。風が吹いてくる。私へととどくまえに風はもう何かを憶い出している。私にとどいたときにはもう過ぎている。過ぎてからとどく。過ぎたからとどく。とどいたからそよぐ。そよいだから泣く。泣くことができるから笑う。風に応えることはできても風にとどくことはない。笑えば、何がしかの風だと思う。
○匂いを育てる。
○待つ限りの濃緑。