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私信。音への私信。・・・
八木雅弘
 
私信。音への私信。音楽を私信として受け取るための。
お互いの私で私を信じるための。聴くことへ向けて聴くための覚え書き。
音は聴くことによって往来を得る。一コの音がまさしく往来、往であると同時に来でもある。音を発てた物を出入りし、聴く物の耳を出入りし、さらに音そのものを出入りする何かがあるようだ。時あってそれはあたりいちめんに繁る。無数の葉のようなものがびっしりと繁みをなし、ざわざわと騒さやぎ、ありもせぬ風にそよぎ、ありもせぬ光に照り映え、まばゆいばかり燦きらめきわたる。視覚とも聴覚ともつかぬ、恐らくまた五感へと分化されない感覚の根に出来しゅつたいする何か。だが問題は、そのような恍惚、神秘的、啓示的な感覚をひたすら追求することなどにあるのではない。そうした経験を経、そこを過ぎてからの日常が問題である。最も手強てごわく、最も未知の領域としての日常。音楽を聴き終えた耳は何を終えるか。終えてはならぬ何がある。終わりようのない何がある。聴いてないときの耳を、そこにない音楽から遠く、終りようのない何かを以て問うことができる。音楽は終る。あらゆる意味に於て音楽は終る。終ることしかできない。終ることへ向けて確かであるばかりだ。そこから先に何があるか。だがいずれにしろ終るところまでは音楽は音楽でなければならない。音楽に出入りされつつ、私たちは音楽を出入りする。音楽を伴い、音楽に伴われ、到るところで物の境を出入りする。知らず知らず、夥しく入り組みあった大小さまざまの境。音楽は節を帯び、しかじかのゆくたこの挙句、節目をなす。節目とは己の謂であり、己へ託される限りでの節目にほかならない。
物の境はひとかたならぬ。己もへちまもありはしない。境めは張りめぐらされ、生活を無傷のまま切り刻む。物を見、物に触れるたび、己がその境をどう踰え、どう渡り、どうまわり込むか、どうくぐり、どう仕切られ、どう刻まれるか。それが我身と何の関わりもないような厳然としたかたちで存在し、果てしなく連なっていることに、せめて慄然としてみる。この戦慄を、乖離の鬼気の如きを、埋没ではない日常の、埋没ではない習慣の裡に繰り返す試みを呼ぶ。このとき音は、ありとある音は、遠い呼び声にほかなるまいが、それは私を呼ぶ声ではないのだ。私はそこに劇しく打たれる。音は私ではないし、世界は私でない。聴いている私も私でない。だが私は残る。なすすべもなく残る。一切が私を空けることで私を指していればこそ、呼び声は上空にとどまる。私は私の声を探しにゆかねばならない。
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人間の意志と万象の運動。いずれがいずれに高めらめられてか。いすれがいずれに降りてのことか。ふつつかな阿鼻。大いに葛藤し、大いに融和すべく、また以外がある。葛藤も融和も離れ、肯定も否定も離れ、遠い微光のように流れて移る境がある。この上なく危ない野をなし、最も取りとめなく、最も酷むごい試みを課す境。あてどなさだけが限りない懐かしさを負わせ、かつ追わせるものの、負い敢えず、追い敢えぬ。そこが日常のすさび、はてしないすさびの巣。境には、主をも知れぬ巣の夥しく、巣から巣へ、得体のないほどけた声や褪せた影が入り混じり立ち混じり移り栖むと言う。
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手の届くところこそ触れ難いと。届かぬところへ触れていると。知らず触れ、知らず離れ、遠近をみだして神々ごうごうと日を重ねる。日をさらに知らず、秒を秒で切る。
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・・・・・甦りを賭ける。そのつどの演奏、その一度に甦りが賭けられるにしても、一度で果たされるのでない。一度で果たされる演奏の際立ちを暗に要求しがちな我われ聴きてに対してあなたは謂わば礼節を以て一度の演奏で果たそうとするのだが、あなたの甦りはあなたを裏切って一度では決して果たされない。一瞬に生きるようとするほど、一瞬はそれだけでは一瞬をなさなくなってゆく。甦りが偶発的なその場その場の出逢いによって一挙に果たされるならばという願いを裏切るのは、甦りの困難よりも、甦りへの持続の困難ではないのか。聴くときに甦りうるものが、聴かぬときにも甦りうるのでなければならないなら、聴きてと同じ立場に演奏者は立っていることになる。聴きてとして欲するのはより異ったものとしての演奏(者)の姿だろうが、必要としているのは或る共通の立場、そこから限りなく岐わかれて行くことのできる共通の根のありかではないのか。
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断たれたのにそこに在る。世界か。これが世界か。整然と断たれ、たえまない上意として連なる。
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世界の軋み。おれは軋みだ。世界の軋みの目だ。軋みを求める軋み。軋んで確かめる。何を?
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せせらぎがせせらぎを隠す。幾条すじもの布施。群れとならずに流れ、おれの影を返してやる。場所が場所でない。何もないところなどなく、さらにそこに伏せられて流れをなすものに未いまだ触れ、身を静かに替えるぼき一隅。ありかを聴く。行方を聴く。おぼえを聴く。
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じゃしゃ。お前の横顔が静かなとき、おれは風に耳を澄ます。風に耳を。耳が澄む以上に風が澄んでいる。困惑の生涯をひとつかねの骨に恕し、あらゆる慟哭から遠く、今はただ風となって風を渡ってゆく。願いは届いたか。じゃじゃ。誰のものでもない、純粋な願いそのものとなって、お前はお前自身に届いたか。この青空を、おれはおれに託す。お前がおれを追い越すために、おれのまわりに描いた円を、じっと目をつぶり、おれはもう憶い出すことができない。
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花になぞらえて境を跨ぐ。
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一条ひとすじのものがよ捩よじれて出来る縒りの瘤ではない。複数の条すじが綯いあわさろうとして、縺れたりはぐれたり、絡まったりちぢれたりする運動なのだ。一人が一条なのではない。一人がすでに夥しい条の複合からなっている。その複合に富んだものこそ、豊かな条の展開と収束を演じることができる。そこでは条とは何か。息づくもののうちに、伸縮を繰り返しながら絶えず張っているものは何なのか。リズムとは刻む何かでなく、振動の伸縮にほかならぬ。空白などない。最も緊密なとき、その白熱が空白に似るのだ。私たちが聴いたのは熱であり、光に至る微細で弛みない振動の叢らがりである。もう少しで光が生まれる地点へ、私たちは何度か迫ったように思う。あそこに漲っていたのは、何かが漲っていたのではなく、漲りそれじたいだったのだ。条とは何かという問いが改められる。条状をなした出来事が起こったのであり、出来事を構成するのは個というより世界であって、かりそめの個を世界がちから強く通りぬけたのだ。条とは何かでない。私たちの内外に振動する条によって、ただ「何か?《と問われているのだ。弦とは条にほかあるまいし、息さえ条にほかなるまい。だがそれだけではない。啓示のような一瞬は一瞬に過ぎない。ひともわれも、それ以外の厖大な時を支えぬかなくてはならない。
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最後に水はいちまいになる。

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