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踏み心地      
八木雅弘  
 
◆俺は俺の血を伝う。俺のほうこそ滴だ。血を、すなわち与えられた高さを、簒奪からなる逆立ちした高さを、どこまでも伝ってゆく。事もなく。その事もなさに少しずつ息苦しさを募らせながら。笑うか、さもなくば叫びたくなるのはそのためだろう。血が騒ぐほど俺はもの静かに伝ってゆく。笑いも叫びも神妙さを損なうことはない。
◆乾いているほど、ほんの一瞬の、わずかな一点に滲みを賭ける。そこで結べなければ絶えてしまうという切実さは、激しいスコールなんかではない、ささやかな数滴となって、そそくさと注ぐのだ。
◆あなたは背をもつ。あなたは必ずやどこかへ背を向けている。そのことを軽んじてはならない。
◆光が下から照らすならそれは待つことではないだろう。そして上から照らす光はない。
◆費やす。口の費えを食い止めて、口から深くたたずんでゆく。
◆たたずんで木を汲む。曲り角で、道よりもそこに植わった木の幹に即(つ)いて足なみは空へと曲りかけ、差し伸ばされた枝々をはるかに見はるかす。
◆無事とは、備えても備えぬにひとしい日。「未だ」がありえない日。まるでもう済んでしまっているようにして、済ませようのない日。
◆風は絶えず複数である。複数に揉まれる。組む。私を。入り日に向って。
◆錆びで錆びを洗う。血のなかの比較的浅いところ。
◆独りで飢えているから意味は単一なのであって、共同で飢えるとき、意味は複数に裂ける。
◆呼吸するたびに、呼吸だけではなく、息をつくらなくてはならない。
◆夜を夜に固定し、昼を昼に固定してしまうことで、私たちはつねに一方を麻痺させている。めぐらすために、導入に見合った破棄を、導入でも破棄でもある見晴らしを、世界へ返す必要がある。からだが社会である前に世界であることを確めるための穴はどこか。
◆動いているものが動きつづけること。動いているものが動きを止めること。動かないものが動き始めること。
◆それからは道のために道をあける。
◆壁は少くとも二つの異る速度のあいだで軋む。むしろ異る速度が営まれること自体が壁である。こちらに生活の経緯があり、あちらに生活の経緯がある。それで充分なのだ。互いの経緯がざらざらと曝らしあわせて砂のようなものがやがては立ち上がることになる。壁はそれ自体が響きからなっている。
◆声はからだの内から外へ向ってのというよりも、からだの内が外にほかならないという出来事。内は内にとどまらず、外も外にとどまらぬ。おそらく、魂はどこにあるかではない。季節がどこから来るかではなく、どこにもとどまれぬから来るのだということ。それを季節とは呼ばず、季節にたとえるほかないものだとしても。いくぶんかでも存えてしまえば、そこに季節が無いということはない。とどまりはしない。拒めば拒んだなりに、求めれば求めてもなお、どこまでも経てゆく。その声に寄り添いたいと願うのは、その声までがとめどなく、その声からが更にとめどないとしても、その声が鮮かである以上に、その声によってじぶんのとめどなさが鮮かに経てゆくだろうと感じるから。
◆からだの最も深いと思われるところに、すりむいてひりひりする感覚を与えることで最も露わなものにしてしまう、声。
◆乞われて壊れる。
◆清めることがちからとなるのではあるまい。濁から清へ、清から濁へ移るところにちからが生じる。
◆脱いだり着たりすることじたいが挨拶である。
◆生きてることを当り前と思う感覚と、生きてることは当り前なんかじゃないと思う感覚とのあいだに血が通っていない。血を通わせるためにどうするか。血は時に対して流れる。時は血に対して流れる。
◆高きを低く、空を脱ぐ音。
◆毛の一本が水際である。一本ごとに水際である。
◆食いつなぐ。食ってつなぐというより、食うことのあいだをつなぐ。
◆王を知らず。頂上は空を躙る。時節を知らず。己れを知らず。齢を知らず。
◆忘れることが、家。
◆生きるために私は死者を私のなかに捨てる。
◆死者のほうが生者よりもこの世界に対して強い関心を(さらには渇望を)抱いているのでは。私よりも死者が。私よりも、私たちが。死者のまなざしは、生者のそれよりもはるかに切実で、際限がない。私たちはまなざしの切実を通して死者に近づく。死者を通じて世界に近づく。近づいたぶん、何から遠ざかったか。死者は死に気づいたろうか。死者が己れの死に確信をもっているとは限らない。死者にも渝(かわ)らぬ習慣が、生活があり、それは生者よりはるかに断片的であるとは限らない。私たちは気づいたろうか。私たちは確信をもっているだろうか。
◆宿れば宿す。宿せば宿る。水ながら立つ。土ながら、石ながら。ゆきついて息をかえ、かわる息が通えば、先んじて火は沁みこむ。つつがなくば毀ちて返し、保ちて返る。坂とともに坂に横たわり、坂とともに坂に立ちはだかる。上下を失って首を返し、前後を失って踵を返す。掌(たなごころ)をくぼめて似せ、ひらいて伏せる。「往生に際なし。物の際ことごとく往生す」
◆道を洗うという発想が、唾棄を唾棄たらしむ。
◆のぼってゆく人の姿の前に、青空じたいが立ちのぼっている。
◆においを避けることはできても、よぎることはできない。においを渡ることはできない。においにあって何ひとつ省くことはできない。自らにおいとなって渡るならば、においを振り返ることなどできない。著しい時間などなく、ただ歳月が知らず知らず著しくなってゆく。においを柩へおさめることはできず、においはむしろにおい自体のほうへ向いている。皮のように剥けることでほろりとこぼれ出てしまうものを秘めもつ。永きに亙って届くことも届けられることもなかった無垢のものを、蝕みもせず、護りもせず、においはただ纏わる。においをただ、据えず、浮べず、動いていって、消える。においが消える前に、においに対して消えている。そこで、初めてのように笑うのだ。
◆どのみち痴呆に至らずにはいない老耄へ、この上ない意味と価値を与える宗教が、いずれ現れる。
◆確かに重ねたはずがずれている。我身の寝相に布団がずれる。我身もずれる。揃ってなければならないか。四隅はばらばらでも、ともかく重なっていれば嘉とするわけにはいかないか。からだはどこからずれたか、冷え切っている。ずれたところがからだなのか。
◆この世界はお前に似合うか。この世界にお前は似合うか。お前はお前たちか。それでも着替えることができると思うなら着替えてみるがいい。着るにせよ聴くにせよ替えるだけ。替えて似せるだけ。こぼれたのはお前のからだのほう。その他、おびただしいその他、際限のないその他があふれて世界は盛り上がる。盛りまがる。盛りまわる。奪われたと思い込む。世界に世界を。客を取ったつもりが客に取られたか、客を取られたか。客は似合う客とは限らない。またしてもこぼれたのはお前のほう、またしても。その他あふれて、せめて測ろうとする。距離のようなものを、距離に似せようとする。だが。測ったつもりが私が動いてしまっている。動いた私はお前じゃないのか。動いたのはお前じゃないのか。
◆閉めたはずだが、閉まっている。立てたはずだが、立っている。静まっている。とっくの昔に。どちらからともなく。もろともに静まる。静まって、荒ぶる距離を伝えている。静まりを、強調したのでもなければ強調されたのでもない。近づいたのだ。だが近づいただけだ。
◆私の量を何が決める。これだけの歳月ではないのかも知れないこれだけの歳月に、私と私の量とどちらが耐える。どちらがということでもないのか。糧と糧を盛る器の前に、私に欲望を配るものは何か。欲望は後か。前後に歳月はない。私の食べる量を何が決める。糧には糧の、器には器の歳月。私の量を決めるのは私ではない。私の量は私ではないところから来る。私の量は私ではない。歳月は歳月を託す。託された歳月しかない。食べるのもそのためだし、歳月は歳月を託し、託すことへさらに託し、託すことで耐え、与え、補い、失う。託すだけが必要となる。存否は問わぬ。幾重にも託すことが折り重なって発端は名ばかりとなる。
◆花散って行方は骨に混じるべし、杭のなかばに水の干(ひ)た痕。
◆揺れながら網が降ってくる。自若としたままの背を透けてくる。

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