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メモランダム1966
その三 


 蝶が花から花へと移り行くように、丸い真鍮製の大皿をかかげた女達や老人達が、楚々として夜道を歩いて行く。その皿からつまみ出された灯明や線香や米や花弁などの供え物を偶像に捧げるや念仏らしきを唱え、次の偶像へと渡って行く。通行人の中からも、フイと気の向くままに手を合わせる者がいる。信者達の想念を吸い取る度に、偶像は灯明に揺らぎあたりを威圧する。
 いつの間にか雑踏に甘い唄声が通っているのに気がついた。オルガン、タブラ、シンバルも絡んで、歩行者の足並みをビートに乗せている。その音楽の発生する開けっ広げの集会場みたいな縁台の前に、俺達は止まった。楽器を奏でる数人の中央には、あばた顔した中年の男が甲極まったソプラノ・ソロを絶唱中である。その切々とした声に、あたりに溜まった人影は静まり返っている。
 左手で小箱形の手風琴を操りながら右手は鍵盤をなぞっているその歌手を見ながらガンジャ・マンが「あの男、仕立て屋」と呟いた。カルマ・ヨガの行者がここにも居る。
 バンドが激しく突っ走り始めた。興奮気味の合唱をタブラ、シンバルの連打が押し上げる。ソプラノ・ソロがそれを更なるエクスタシーに引き上げて行く。担いだリュックサックごと俺達は揺れている。頭上にそそり立つ五重の塔が、ビートに乗って天を突き上げて行くかのようである。舞台の楽士も俺達も歓喜極みに辿り着こうとしている。その瞬間、旅の道で身に着けた、どんな状況でも油断はしないという本能が目を覚ました。なんと、俺達以外の観客は素知らぬままなのだ。舞台の熱演とはまったく関わっていないかのように、その視線はあらぬ所を漂っている。無感動、あるいは平静のままなのである。俺達みたいなうさん臭く身元不詳の旅人に対するのと同じの、無関心な態度のままなのである。演奏が終わったとて拍手ひとつおこるわけでもない。
 判らないまま歩く。不規則に七つの細道が交差する辻は、人いきれでふくれあがっていた。剥き出しの土から湧き出たみたいな野菜の山々に、売り子の掛け声が飛び交っている。角に立つ金箔屋根の小寺では、参詣人が列となって鐘を打ち鳴らしている。その合間に顔を出す祈りの声も共鳴し、俺の頭骨の内部で増幅している。屋外なのに反響効果抜群のドームの中に入ったかのように、世界はグワーンと響き渡っている。ここでも露店商のケシロン・ランプの裸の灯が渦をなし、参詣人が捧げる植物油の灯明、線香の煙も交わり、すべての存在が互いに関わっている。ただひとつの異分子は、俺達だけだ。
 
 黒く沈んだ一本の道に入った。ガンジャ・マンが止まっている。歩行者だけのラッシュ・アワーの潮は引いた。あたりは深閑としている。月光もないし街灯もケシロン・ランプも灯明もない。星も未舗装の道から登った埃か湿気に隠された。ただ一枚の看板に電燈が細々と灯り、GLOBE RESTAURANTの字が読み取れる。この街で初めて出会ったローマ字だ。
 看板など見なくとも、グローブ・レストランであることは、入口からモクモクと吐き出される、あのツンと来る煙の勢いで判っていた。それは、嗅ぐだけで生唾ダラダラ流れるほどのハシッシ、大麻樹脂のものだ。これほどの量のハシッシを吸う集団は、ムスリム行者ファキールかヒンドゥー行者サドゥー、そして現代社会をドロップ・アウトしたビートニクだけなのだから。グローブ・レストラン。大陸を行き来するビートニクの折り返し点に着いた。
 
 最初西欧人のビートニクに会ったのは、アフリカ中南部の内陸の国ザンビアだった。その二年ほど前に独立した新興国の首都ルサカで、日本製品を売り込むための商品見本市の通訳兼アテンダント、日本人商社マンと現地役人から使用人までをコーディネートする雑用仕事が舞い込みナイロビから駆け付けた時だった。その郊外の会場、明らかにジャズ漬けの長髪カップルと会ったのだ。白人だったが、俺も新宿でジャズに漬かりっ放しの後であのビート、あの旋律、あのスピリットが恋しくて耐まらず、ストレートに(お前の所でジャズを聞けるか)と尋ねた。彼らもストレートに(家に来いよ)と招いてくれた。毎夜仕事が終わる度にその家に入り浸り、日本製のオーディオ機器でジャズを聞きまくった。南アフリカ製だという大麻を御馳走になりながら。大麻をやるとジャズがより深く染み入ってきたのは、新鮮な発見だった。
 ジャズという抑圧されながらも主張するアメリカ黒人のスピリットと白人のスピリットが融合した過程は、酒や煙草まみれのジャズ・ホールだけではなく、その裏に大麻も廻されていたのではないかとその時察っしたのだった。目からウロコが落ちたのは、休日ドライブをして、彼らの秘密の聖地だという郊外の小さな滝で一服した時のことだった。水のしぶきの一粒一粒が空に散り風に流され輝くのを見た。草木がその輝きに呼応してエールを送っている。シャーマニズムの一端を垣間見る思いをした。シャーマンとはこうして、地上から宇宙に到るまでの全存在と交信しているのではないか、と。大麻だけではなく、あらゆる植物,鉱物のエッセンスを取り入れるのではないか、と。同時に、帰りの車の窓からは、アフリカの大地が植民地時代いかにプランテーション、単一種栽培に破壊されたかもあから様に見えて来た。その傷を見たら仕事は続けられない。現代の仕事は、多かれ少なかれ自然を食い尽くすことに加担している。俺が日本商品売り込み業に潜り込んでいるのもその一環だ、仕事なしには生き延びれない、とその日ビートニクと大麻に別れを告げた。
 ヨーロッパでもビートニクに時折会った。長髪に長い髭、くすんだ服に包まれてムッツリとハシッシを燻らす哲学的で神秘的な存在を尊びはしたけれど、俺は50ccバイクで移動する旅人という労働者として、当たらず触らずの距離を置くだけだった。慣れない刺激物を取って肉体がやられることを何よりも怖れていた。
 それがイスタンブールのグラハネ・ホテル屋上あたりで遂に仕事を諦めてからだ。紙巻きのジョイントが廻ってきたら俺も吸うという付き合い程度だったが、徐々にビートニクと馴染んできた。彼らが禅やタオに関心を示しても、俺は何ら反応できない貧しい東洋人だった。代わりに、彼らがバイブルのように持ち運んでいだビートニク詩集を読む機会得た。同じ仲間じゃないかという共感。それまでひとりで世の流れに背を向けていたつもりだったが、実は中途半端で孤独だったことに気づいたのだった。あれからひとり旅をした。ヨーというオランダ人のビートニクの生き様と旅を共とした。アフガニスタンからは毎日のようにヨーや偶然出逢った旅人と吸ってきた。勿論土地人ともだ。彼らを仲間と感じるようになってきた。それは深く優しく、そして厳しく頑健な上に、各々のキャラクターは千差万別な人間とあらゆる存在が交わる世界だった。
 
 グローブ・レストランの店内は、濃厚なハシッシの煙が裸電球に反射して、まるで白い胆盤の中に入ったみたいだった。その底の方には、テーブルにへばり着いた人影が沈澱している。ほぼ満席の二十数人。このかけ離れた山奥にこれほど多くの西欧人ビートニクが溜まっているとは。と一瞬あっけにとられて立ちすくんだ俺達を、その中でも特に重厚な肉体を長髪に髭で覆ったひとりが睨みつけた。俺達のヒッチハイカーじみた軽薄な乱入振りを咎めている。事実、ヨーを除いては皆二十代前半の、まだこの先どっちに転ぶか判らない頼りなさが見え見えなのだ。そのビートニクの眼光に、ビルが巨体を張って応戦する。精神主義者と体育系の運命的な対決である。その二人の間の煙を抜って、小柄なチベット人の老人が現れた。黒い前合わせのチベットシャツ、身のこなしは能の仕手みたいに静まり返って滑らかである。音もなく、空いていたひとつのテーブルに椅子を次々と運び俺達をそこに座らせるまでの一連の流れは、遊牧民特有の旅人に対する優しさに満ちている。イラクの砂漠、アフガニスタンの土漠でも、彼らにこのように受け入れて貰ったことを思い出した。俺がここまで辿り着けたのも、彼らの優しさに出会ったからでもある。カトマンズの土地人の無関心さと違うのは、チベット高原のだだっ広く解放された生活圏の御蔭なのかも知れない。だが、彼もその天地を追われたチベット難民のひとりに違いない。
 
 1959年のチベット反乱、ダライ・ラマのインド亡命から七年経っている。それ以前の1950年、東では朝鮮動乱に百万人の紅軍義勇兵を派遣した中華人民共和国は、そのドサクサに西ではチベットを占領したのだった。世界最大の人口、陸軍、秘密警察を相手としたチベット人は、長い苦難の歴史を覚悟しているようだ。その戦略のひとつとして国外に出たチベット人難民は十万人余り。インドに最も多く難を逃れているのだが、例えインド生まれの者であっても、軽薄なチベット人には会ったことがない。そこまで徹底して積み上げてきた密教のシステムには舌を巻く。世界には千数百万人の避難民がサバイバルしている。その中でも十数万人のチベット人避難民が、人間としての評価が高く、世界的な影響力さえ発揮している。それは、その場の最も重厚なビートニクさえ、チベット人の老人が現れるやいなや元通りに静まり返ったことでも明らかである。
 
 椅子に座ったらホッとした。と同時に猛然と腹が減ってきた。前夜仮眠した峠の茶屋をトラックが出発する前に、一杯のミルク入り紅茶、チャイを飲んだ後は、旅する土地人の常食、チューラと呼ばれる平べったい乾飯をかじってきただけだ。熱く甘い汁に飢えている。英語のメニューを見たひとりが「ミルク・ライス!」と叫んだ。残りも一斉に「ミルク・ライス!」となった。その注文を待っていたかのように、瞬間にして湯気を立てたドンブリがうやうやしく運ばれてきた。ここでは、時が手品師の手にかかってきたように突然に消えたり現れたりするらしい。俺達は熱いミルク・ライスをストレートに掻き込んだ。胃の腑がジンワリと暖まってきた。旅の至福は、歩く道と休む場にある。そこで良き連れに恵まれれば、人生の宝となる。勿論、俺達と同類のガンジャ・マンも、俺達全員が割り勘でミルク・ライス・パーティーに招いてある。その場が明るくなってきた。
 
 いつも気が緩むと、ようやく、という吐息が出る。食った。休める場所に居る。ようやくのことだ。そんな俺達の様子を窺っていたかのように、例の入店した時に睨みつけてきたぶ厚いビートニクが、椅子を手にして俺達のテーブルに割り込んできた。「ヘイ マーン」と。ヘイ マーン。それが当時のビートニクの挨拶代わりだった。近くで見ると大柄の上に髪は腰まで、髭の脇には長年口をへの字に引き締めてきたらしい深い皺が刻まれていた。もしかしたら1950年代からのビートニクかも知れない。その世代の詩を読みその足跡を聞く度に、足元にも及ばないという思いが俺にはこびり着いていたから、とたんに身が引き締まった。
 
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