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SILENCE=DEATH
 
 
 
 これが「VISUAL AIDS(目に見えるエイズ) A DAY WITHOUT ART(アートのない一日)」のスローガンだ。アメリカでその疑いが最初に発見されたのが81年。10年たつと50%が発病することのわかった91年に私達はいる。
 沈黙イコール死。それは、エイズに表わされた現実に対して声を上げなければ文明の門は永久に閉ざされるという方程式だろう。
 89年の統計では、22才から45才までのアメリカ人の死因の第二位はエイズによる。ちなみに第一は不慮の事故と殺人だ。
 エイズはハードドラックとホモセクシュアリティーにのめりこんだアーティストの世界を一掃する勢いとなり、全米のアート関係者は前述のスローガンの下にエイズ危機啓発の運動を89年にはじめた。多くの運動が、このままでは、アートが滅びると、という意志表示のために、WHOの決めた国際エイズ、ディの12月1日には閉館し、ドアにその趣旨の文章を張り出した。
 日本でも昨年より同じ日に同じ啓発を始め、4月16日にも早稲田奉仕園で二回目が催されたので私も参加した。なにしろアメリカ人の300人に1人、アフリカ人となったら40人に1人は感染しており、また統計のとれていないプラジルではそれ以上の猛威をふるったと言われている。それは、南アのアパルトヘイトやインドの不可触賎民より深刻な差別間題が突然に浮上したことをも意味しているのだ。
 先ずドキメントビデオ「ハーヴェイ・ミルク」が上映された。サンフランシスコの市議会議員ハーヴェイ・ミルクが当選に到るまでと、マイノリティーやゲイの権利のために戦う姿、そして元警官の議員に当時の市長マルコー二と共に射殺されるまで。彼はユダヤ人のゲイで、明らかにエイズの症状を表していた。それからAIDS医療センターの桜井氏のリアルな話、美術批評の椹木氏の、ハードドラックとホモセクシュアリティーをぺ一スとしたニューヨーク・ア一トがそれまでのマッチョ的男根芸術への反発であるという講義、現代美術の平川氏の世界的なエイズの進行などが続いたのだが、時間に制限があったためか文明史にエイズを位置づけるまでは納得できず、予定されていたフリーディスカッションもないままに満ちたらない心を抱いて帰路につく結末であった。
 しかし、そh以来どこかでその問題をフォローしてきたのだろう。原稿の依頼があったときに、ふとそれを文字で確かめたくなった。
 
 アートは狂気に到るエクシタシーであったと私は思う。それが今や花に致るエクシタシーとなった。この際アートを美術のみには限定しない。創造と破壊の両極に振れる根源的エネルギーを指している。増々分断化されてゆく世界で、アートであろうと何の分野であろうと切り離しでとらえろ行為自熊が言い分けのバブル・ファションとなる。
 旅が注気のエクシタシーにふさわしいライフスタイルだと直感したのだろうか、私は60年代半ばよりユーラシア、アフリカの旅を続けてきた。性行為のエクシタンーをもしのぐ解放惑で成長ようする赤ん坊のように競い、順応して、共存してきた。春は青く、夏は赤く、そして白い秋の時代の旅をも背負っていたこととなる。
 タイ北部のチェンマイから一寸とバイクのケツに乗って着いた河を渡れば、昼なお陽光も届かないみっちりしとした熱帯雨林があった。それが次々と開け、今や一面の赤土を白い光が直撃している。戦乱で血に染まったアフガニスタンやイランには白骨だ。森の密度が農すぎてジン二スカンの軍勢も前大戦のアメリカ軍も進入できなかったドイツ深奥部の丘陵地帯には、スケスケに死んた白い樹木の墓標が立ち並んでいる。
 そんなネガティプ・プロセスがたとえ眼前で進行していようとも私には関係ない者と切り捨てて、まだ美味しい花の咲く土地だけを求めて旅していた私を打ちのめしたのは、あのチェルノビルから飛来した白い雲だった。イタリア西部の牧歌的なトスカーナの丘で山菜を摘んでいた5年前の4月26日。すでにエイズも世界的に拡まっていた。
 
 違け続けてきた私の旅は、沈黙イコール死のエクシタシーをたどっていたのにすぎなかったのだった。私はそれにふさわしい北の端に行き着いた。アイスランドとノルウェーの丁度中間に浮かぶファロー島いう絶海の弧島だ。陸地から余りにも離れ、あたりは激しい海流の流れと強風により隔離され、十二世紀にノルウェーのバイキングが漂着するまでは、鳥に哺乳類は一匹も存在していなかったほどのバージン・アイスランドだった。ただ、戦いに疲れた彼等にとって鳥と魚と流木の信じられないまでに集中された島の環境はユートピアにも思えたのだろう。それから500年問彼等は持ち込んた羊だけを生活の糧と友として外界との交渉を完全に断った。
 夏は雨が多くく、海面より槍ようにそそりたち羊によって丸裸にされた山腹は、木一本生えていない。私はそこで羊飼いをしながら、行き止りの旅でホゾを固めるつもりだった。10月に私の羊の半数である40頭が屠殺されたときも、淡々と選別しはものを振るうプロの手助けをしながら、意図して殺し、食ってきた人類の歴史のツケを一度に払うべき今の時代を再認したのたった。
 その直後、北極圏のえんえんと続く黒い冬に入った。唯一の外界との連絡路である二重窓に写る光はない。ほとんど常時吹きまくる嵐は、ぶ厚い石造りの小屋さえもゆるがした。私は、オリのなかのクマのようにグルグル部屋を歩ぎ廻り、その足音だけが私の命の時の秒針となってかすかに聞きとれた。一番近い家までは三時問の歩きでも、吹雪けばまずたどり着けない距離だ。同居していたのは、冬性交させると寒い季節に子供が生れて死んでしまうために、メスの群れから引き離された7頭のオスの羊のみ。時計もない、ラジオもなくとも、空腹の時刻には彼等が騒ぎ立てた。そのたびに草と水をやるたけの日々・・・裏に立つ羊舎に入ると、うらめしく私を見上げる雄羊たちの眼球が、ランプの光に反射する。
 
 そんなときオーロラが現れた。常になくやけに静まり返った闇に飛び出した私は、極瑞な冷気にしびれたまま流麗に広がり舞う光の姿に龍が現れたのかと立ちつくした。それは希望の光のようでもあったが、しばらくすると私を置去りにして消え去るのだ。光が手の届かぬ世界のものであることが、ページェントの繰り返されるたびに痛感されるのだった。
 だが、見事にもはかない多彩な光の帯よりもリアルな存在が部屋に住み着いていた。冬に入ったとたんに引っ越してきた野ネズミの一族ばかりではない。私がランプを消して寝つこうとすると、必ず奇声をあげて踊りまくる鬼としか思えないカオスの革勢だ。その羊銅い小屋の下方は、岩が海底からキリのように突き出した難所だったから遭難した船の亡霊であったかもしれない。あるいは私自身の血が記憶している罪の意識がそのように踊り出したのか、やけに野蛮で冷酷なエネルギーが闇に渦巻いて私を休眠させはしなかった。
 ついには、怖れるままにペットに伏せていた私の首根っこをつまみあげてると、頂点に達した乱舞のまっただ中に放りこんだ者がいた。真暗闇のはずなのに、その男の腰までたれる長髪と、タール状となるまで厚くススで覆われた顔をしたエスキモーみたいな姿を確かに見た。ついに来たいけにえとなる時に観念してうづくまった私。そこに上から覆いかぶざってくろ男は、屠殺のプロが羊のノドを切る直前の姿でもあった。
 ところが両の手の平を凹状にして耳の後ろにかざした男は、そのまま顔を仮画のように取り外して私に差し出した。顔の跡はあたりの闇より暗い空洞となっていた。思わず張りあげた私の声がその空洞を突き抜ける。そして、私は声の先端が始めて闇から抜け出た開放感に宙を飛ぶのを聞いていたのだ。それは光となって舞っていた。
 
 初声うぶごえには、けして後には引かないものがある。声は究極のブラックホールに吹いとれるまで走り続ける命の時間帯なのだ。たとえあたりが放射能とエイズ・ウィルスに埋めつくされようとも、声を出す意識がある限り君には存在がある。君のサバイバル・アートの真価を試す時がまだあるということだ。
 数日前には関電会長宅デモで、JRのただ中でも意識の声を張り上げてきている。絶望の闇に沈黙していられない時なのだ。その壁を抜いた声だけがオーロラの龍となるだろう。君も私もその多彩な光の帯に乗って舞う。この時代の先にかかる虹の渦と一体となる。
 
5月10日  澤村浩行

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