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当時の写真集あり

メ モ ラ ン ダ ム 1 9 6 6
1 ミスター・ビートニク
澤村浩行
 
 
 ようやく止まったトラックの荷台からリュックサックごと俺達はずり降りた。誰かがとたんに身体のあちこちをパタパタとはたくや、他の者もパタパタとやったり顔を擦ったりした。パタパタとやるたびに小麦粉の白い埃が立ち上った。しょぼくれた旅人のしょぼくれたオーラ。行き止まりの車道前方には、中世風都市の黒い塊。数十本の五重の塔がシルエットとなって突き出た空の高みにはまだ青い空が広がっている。
 
 丸二日間というもの、俺達はそのオンボロトラックに山盛りとされた小麦粉袋の山にへばりついたまま、ヒマラヤ山脈の前衛を越えてきた。海面下数メートルのインド、ネパール国境テライ平原から、すざまじい蛇行を繰り返しながら千数百メートルの峠に登り詰めた。エンジンを冷やすための仮眠を数時間した後、脱力したみたいに下り続けて着地したのがこの標高800メートルの盆地である。荷台で歯をガチガチさせながら耐えていた、世界の屋根の寒風は消えた。地上の土を全てかき集めて押し上げたみたいなヒマラヤ山塊のどまん中に広い平地が横たわり、その中心にはぶ厚い都市が居座っている。夕餉の火が立ち登る頃である。群なして住む人の気配が湧き上っている。全身を未だに小麦粉にまぶされたまま、俺達七人の男達は街に向かって歩き始めた。
 
 1966年は暮れなんとしていた。俺達の一部はその年の夏、イスタンブールで最も安いグルハネホテルでも特別に安い屋上素泊まりをしながら、西へ戻ろうか東に向かおうかと、その日暮しをしていた頃からの顔見知りだった。皆が文無しに近かったし、東への道はかろうじて、そちらから戻ってくる者からの話でしか判らなかった。それでも俺達は再び一人ひとりとなってボスポラス海峡を渡ったのだ。そして途中でまた誰かと会ったり別れたりしてきたのが、折り返し点のカトマンズで偶然みんなが一緒となったという訳だった。
 
 世界もてんやわんやの、見通しが立たない時代だった。乾季の夏のグルハネホテルの屋上では、中国の紅衛兵の若者が、一千万人北京に集結し毛沢東の祝福を受けたとのニュースに涌いていた。と共に、誰かが持ち込んだアメリカのグラビア雑誌ライフには、LSDと称する幻覚剤を使ったアーティストの作品がデカデカと載っていた。当時アメリカでは、その前年に始めたベトナム戦の拡大、北爆に抗議する若者がドラッグに勢いづけられ、反戦運動に突っ走り始めていた。公民権運動は黒人に始めて投票権を与えざるを得ないまで盛り上がった。ヨーロッパでは怒れる若者達が街を埋め、ドラッグとロックが互いの間にあった貴族対平民の壁をも打ち破っていた。世界中の若者達が互いに連絡を取りあわなくとも、その数と新しい時代感覚を武器として、何時ピカドンが地上で連続して爆発し人類滅亡するかも知れないという、冷戦構造やらその代理戦争、個の崩壊を隠蔽するかのような管理社会と中産階級の冷たさ、見る見る無惨に壊されて行く自然の姿に憤り、抗議の声を上げていた。
 たぶん、その時の俺達は、文明の行く方を旅に占おうとしていたのだと思う。その為には、歴史を逆登って検証したかったのかも知れない。俺もその2年ほど前、フランス郵船でアフリカに直行したのだった。1ドル360円では、1964年の東京オリンピックで運転手として猛烈に働いても、片道の船賃にも足らなかった。外国の財団に論文を出し、運良く当たった奨学金で東アフリカの大学に短期留学できたのだがその後は、お決まりの運転手兼ガイド、時には、見本市やら通関やら外国船の甲板員の仕事を渡り歩き、そのツテで北アフリカでも同様の生活を続けた。そんな仕事漬けの後、北から南までのヨーロッパを50ccのバイクで旅をした。ようやくイスタンブールに到着し、グルハネホテルの屋上で、ひとりとなって社会から抜け出た同じような仲間に出会った時にはホッとした。彼らのモットーは「We don't work. We just live.」-俺達は働かない。ただ生きるだけ。-だった。そこで、俺も求職を諦め、行き当たりバッタリの、偶然に身を任せるせることとなったのだ。当時のヨーロッパで日本人の得られる仕事は、日本料理店の皿洗いのみだったこともある。
 俺は、日本人の影の薄い所の方が希少価値が生じて、面白いサバイバルが出来ることを、それまでの経験で知っていた。そして日本を飛び出したのが、短い人生を通じて感じてきた、人間の営みへの反発と、同時に人間の営みの多様な素晴らしさへの憧れの両極が原動力となっていたのではないかと、気付いたのだ。まずベイルートに列車。それから金は本当に底を突き、ヒッチハイクで食い繋いだ。あれから半年、その日その時をやりくりしてここまで辿り着いた。
 


 黒い山波のてっぺんが赤く反射した。北方には氷の峰が連なっている。氷が夕日を投げ返す。濃い藍色に染まった空にもサーモンピンクの光線が走る。闇は既に盆地の鍋底に滑り込み、街並も存在を消している。灯りがポツリポツリと点き始めたが、それは電灯ではない。赤っぽい裸のケロシン・ランプである。それが闇に生きる何者かが舌を出しているように、チラチラと俺の神経にまとわりつく。道が狭まると、俺達は絶えることない人の群に紛れ込んで歩いていた。背が低い背広姿の男が多い。腰まで覆う前合わせのシャツに腰をふくらませたズボン下風。頭には短い鳥帽子をチョコンと載せている。
 たまの女は、白いショールを羽負った黒っぽいサリー姿である。顔の表情を見極められない暗さだが、人と街の匂いだけは嗅ぎ取っている。イスタンブール以来お馴染みの、香辛料と穀物、野菜肉類に、汗と小便がまぶされたやつだ。脳の芯にツンと来るのは、日当たりの悪い裏道のレンガにこびり着いたカビと、高地の樹皮を素材とした線香か。それがこの街の特徴のようだ。売り子の声が一斉に湧く、夕飯前のバザールが先にある。何段にも積み上げられた石段の上に五重の塔が聳えている。そのあたりから街燈がポツリポツリと立ち、滑らかな石畳の道が喧騒に向かって開いていた。もう互いの顔形も確かめらる電気時代の明るさの中に居る。
 
 だが、俺達の廻りを魚の群が回遊するみたいに歩く土地人は、誰一人として俺達に反応しない。同じ道を歩きながら、異次元の壁で隔てられているみたいに、互いは存在を認識していないかのようである。
 これまで通ったどの国でも、異邦人の姿を目ざとく捕らえてチェックしてくる人種がいた。警官、ヤクザ、乞食、地主、暇人、学生、遊び人、宗教者、商人、好奇心旺盛なまったくの普通の土地人等が群集の中から飛び出してきた。例えばアフリカでは「ジャンボー!」と大きく振り下ろされた手が握手してくる。アラブなら、旅人には慈悲深くとのコーランの教えのままに「アッサラーマ アレイコム」だ。個人主義と白人優越感で覆われているヨーロッパでさえも、チラッと触れ合う機会を拾いあげれば、ストレートに心が開いて来た。インドときたら、道を歩けば数百の視線が全身に張り着き、徐々に細胞の内側や心のヒダの間にまで忍び寄ってくる。それから「ナマステ ジー」「あんたどこから来たんかね。どこへ行くのかね。」に始まって、職業、学歴、家族構成、つまるところカーストを見極めるためのマンダラ問答が一巡する。互いのやり取りの間に、土地人は外界の風に当たり、旅人は土地の波動に染まる。
 陸伝えに流れた文明やら民族の興亡の歴史の中で、旅人がその流れの兆し、言わばウィルスのような役目を果たしていることを、彼らは身をもって知っている。そんな触れ合いの間に、お茶やスナックの御馳走となり、無料で泊まれる巡礼宿に案内されたり、時には居候先やささやかな密輸品の売り先にまで手引きされることもあった。俺達にとって、土地人とのコミュニケーションがサバイバルの要なのである。だがカトマンズには、その気配がまったくない。
 
 俺達は7人。全員が男。異邦人の上に、その日暮らしで地を這ずり廻ってきた臭いやしぶとさをプンプンとさせている。この盆地の中だけをグルグルと回遊している人種にとっては、縄張りも無くさ迷う獣の一群みたいに目立つはずなのだが、誰として一瞥さえしないのである。そして俺達にとって、カトマンズの人間は、空気が固まったほどの実感しかない。
 
 「オイオイ、俺達は存在しているのかよー?」
脇を行くゴッツイ巨体が呻いた。元アメリカンフットボールの選手だったというカナダ人のビルである。アラブやインドの街角なら、並外れた彼の巨体をしげしげと眺める土地人は必ずいたものだった。背の低いネパール人の間では更に目立っているはずなのに、誰も彼に関心を払わない。
 「人生、これ幻なのさ」石器時代の洞穴から返ったみたいな声の主は、ごつい岩が肉体と化したとしか思えない、彼の相棒のハンツである。西ドイツで炭鉱夫をしていたという、普段はまったく無口な男だ。この二人には何度か世話になった。
 
 当時、イスタンブールから東に向かった文無し同然の旅人が最初に目指すのは、レバノン、イラクという親西欧的な趣のある国々をヒッチで食いつなぐことだった。それから先のクウェートの病院で血を売ると一寸した資本となった。しかも自由港が近くにあり、腕時計が格安で仕入れられる。当時の腕時計は輸入規制をしている中東、インドまで運べば貴重な利益生んでくれた。
 そのお定まりの病院と市場コースを行く内に、既に2年間インドとトルコの間をそのようにして行き来していたオランダ人のヨーと知り合った。俺は兄貴みたいな旅の先輩を求めていたし、彼は東洋人の若者に関心を持った。俺達はヒッチを組んでイラクのバスラに戻った。ところが国境はコレラが発生したからと閉鎖中だった。仕方なく、チグリス・ユーフラテス河の岸辺でテントを張って、ただシンドバットの時代以来そこを航海している帆船、ダウが愁々と行く様を眺めるだけの日々を過ごしていた。
 その時、ビルとハンツも隣に住み着いたのだった。図体がでかい彼等は連日近くの農村まで遠征し、デイツを運ぶ仕事を請け負った。帰りには賃金代わりに得た大量のデイツの分け前を、キャンプの俺達にも分けてくれた。再びアフガニスタン国境で出逢った時には、タフなアフガン人と石の砲丸投げを競って勝つ度に、食糧や大麻樹脂、ハシッシを俺達の分まで稼得してくれたのだった。だから、俺とヨーがネパール入国した最初の町ヒタウラで、一日中ヒッチを試みても「金が無けりゃ歩け」とすげない運転手ばかりなのにウンザリとして巡礼の宿の床でふて腐っていた時に、やはり同じ結果でそこに舞い込んだ二人にまた会った時には、運命的なものを感じたのだった。翌日トラックの荷台を団体割引で交渉した。
 彼らの持ち金が足らず、丁度俺達はデリーで売った時計の金があったので図合してやったのだ。そのトラックの荷台には既に、やはりどこかで会ったことのある三人の旅人がへばり着いていた。こんなに多くの旅人が一緒になるのはイスタンブール以来だった。
 
 「飢えるかトンボ返りをするかだな」ストリート・ミュージシックで食ってきたというアンディーが、肩から下げたギターのケースを不安気に揺り動かしている。
 俺とヨーはインドからトランジスター・ラジオの部品を運び込んでいる。クウェートのフリー・マーケットで仕入れた腕時計の残りをインドのブラック・マーケットで売った時に、そこの親父が薦めてくれたネパール用の商品だ。ところがこの一国の首都の中心地であるはずの街角には、これまで通ってきた平原の街には必ずラウド・スピーカーから鳴り響いていた、アラブのやるせない恋歌や開けっ放しで恋を讃えるインド映画の主題歌のオンパレードは、消えている。
 あの騒々しさに慣れた耳には、沈黙しているのに等しい街だ。たぶんトランジスター・ラジオの部品は売れにくいだろう。つまり、わずかな街灯の他には、電気文明が存在しないのである。一寸前別れたトラックの運転手が呟いた「この街では、王様と大臣しか自動車を持っていない」の通り、どの道も百パーセント歩行者天国である。
 
 「Let's see what happen」ヨーの口癖の(さてどうなることやら)が出た。風化したメタル・フレームの眼鏡が引き締まって見える。かってジャーナリストをしていたというインテリは「たぶん鎖国が長過ぎて、自己完結したままなのだろう」とのコメントをした。彼だけが年長の30才前後でアラブ、インドの旅も2年間続けているからか普段は沈着だが、カトマンズは初めてだ。その手応えの無さには戸惑っているようである。
 
 「Going Globe Restaurant ?」再び街灯の途絶えた暗い道で初めて土地の男が話しかけて来た。ブロークンながら英語である。そうだ「カトマンズのグローブ・レストランで会おうぜ」がイスタンブールから旅立つ者が言い残す捨て台詞の定番だった。それはガイドブックのない時代の数少ない旅人が溜まるという、チベット人難民経営の飯屋である。
 「ヘー、この地の果てでガイドかよ」ビルがアメフト流のダイナミックな身ごなしでその声の発生源に飛んでいた。
 
 目を凝らさなければチリが貯まったとしか思えない男だった。荒れた長髪と無精髭をボロ市で頬かぶりし、肩には汚れ切った毛布を羽負っている。街灯も絶えた通りだし、人ごみが埃を立てているから年令の当てもつかない。だが(どうせ俺達同類だろう)との親しげな眼光だけがトロリと漏れている。
 「Me Ganja Man」ガンジャ・マン、と男は律義に自己紹介をするや、手にした何かを差し出した。一昔前の日本で売られていた納豆そっくりの砲弾型したワラの束である。それを一寸割って中身を見せた。ツンとしたお馴染みの芳香が走った。それはガンジャ、大麻草。それも選び抜かれた雌ばかりのセンサラミである。俺達は確かに同類だった。
 


 ガンジャ・マンはグローブ・レストランへと先導する。俺達はリュックを揺らして追いかける。こちらは七人だから、道に溢れる人の流れには乗り憎い。が、彼を見失うことはない。ガンジャ・マンには物心ついた頃より吸い続けてきた大麻の匂いが染みついている。それにアカだらけでもある。俺達もアフガニスタン以来、その煙に浸り切ってきた。巡礼宿や寺の縁台、時には公園に辿り着いたら大麻を吸ってバタンキューと、靴を脱ぐのも稀な旅を続けてきた。互いの臭気が絡まりあって、離れ離れとなっても俺達はひとつの塊のままである。
 夜のとばりが降りたばかりのカトマンズは、裸の石油ランプと植物油の灯明に飾られていた。俺達は、その灯りにうつろう人や家や寺や偶像の一部となっていた。まるで巨大な走馬燈にまぎれ込んだかのようである。何もかもがきめ細かな上にねちっこく廻り廻っている。
 六、七階建てにしては背の低い家並みの間を行く。その一軒一軒には見事な木彫が施されている。透かし彫された木の窓枠から漏れる赤茶けたランプの灯。夕餉の団欒、料理の匂いが道にも人にも覆いかぶさってくる。蜂の巣状に密集したひとつひとつの部屋から吐き出される人気が、外壁のひなびたレンガまで揺らしているかのようである。良く見れば、どの壁も元々曲がっているのだったが。
 剥き出した土の街路を踏み固める無数の男の頂きには、いずれも白かピンク混じりの小さな鳥帽子がのっている。歩き方に幾つかのパターンがあるのに気がついた。圧倒的に多いのは盆地の内側だけをヒタヒタと歩く町人風。そして見事に天秤棒の調子をとる百姓風。腰をキュッとひねっているのは、平地に不慣れな山人だろう。チベット人はマントを腰にはしょって颯爽と歩く。暗い流れに時折優雅な風がなびくみたいな女達の白っぽいショール。その下の黒っぽいサリーの縁には、金銀の刺繍が光っている。黒髪に刺された花だけが、夜目にも命の潤いを与えてくれる。
 まるで、ほと走る水を享受する異なった魚の群のように、混然としながらも一体となった人、人、人が歩く。道、道、道が次々と交差する。時折、グズな牛が流れを曲げるだけの道に、人が流れ続けている。
 迷路を抜けた先に再び石畳の道があった。人影が益々濃く見えるのは、再びポツリポツリと現れた街灯のせいでもある。その道の両側を、両手幅ほどの商店がビッチリと埋め尽くしていた。一軒一軒の内側には、裸のケシロン・ランプが異次元の生物の卵みたいに光っている。こんな山奥にこれほどの商品がある。黄金色をした真鍮の食器や神具、怪物めいた影を落とす木彫、地中から噴出したみたいな穀物類、赤、黄、黒などの色なす香辛料。主役は商品の向こうに居る居る!魔術師めいた売り子達である。いずれも小柄な身体を折り曲げて道行く者をねめ廻している。たぶん、この盆地の先住民たるネワール人だろう。カトマンズが、チベット、中国、インドとの交易で栄えてきたのも、これらの製品を作った職人の腕と、それを取引したしぶとい商人のたまものなのだ。唐の時代には五重の塔を首都長安に出張してまで建設したというから、国際的な水準である。
 
 ワクワクと劇場化したバザールを行く俺達は、通行人からも商人からも無視され続けたままである。「つまり、俺達みたいな風来坊とのコミュニケーションの必要は無しってことだ。それにしても街中にとんでもないトリックが仕掛けられている」クールなヨーが総括をした。
 彼とはクウェート以来半年間ほど正に一体となって旅をしてきているから、特に説明しなくとも意味することはピンと来る。それは偶像の群のことだ。路上のあちこちと寺の入口には、足をからめとらんばかりの石像だらけ。寺のハリの一本一本には、木像がベッタリと張り着いている。ひとつひとつの寺の奥にも石や金属の偶像が灯りに浮かびあがり、その足元には、素焼き製の小さな灯明の群。和紙をよじった線香の煙。すべてが揺らぐ中で、最も怪しいまでに生々しいのは、偶像の額に塗られた紅の真っ赤な色である。まるで、雨月物語の世界に紛れ込んだかのようだ。
 その偶像も千差万別だ。特に人間と動物が遺伝子交配されたみたいな半獣半人の像が、際立って親しげな波動を送ってくる。顔が象、身体は太った人体のガネシュ神や、猿が円球つきの棍棒を振り上げているハヌマン神、半鳥神のガルーダあたりまではインドでも見慣れていたが、得体の知れない偶像もかなりある。特に悪魔めいた黒い裸身を踊らせる巨大な偶像が、やけに俺にまとわりついてきた。立ち止まったまま痺れている俺に、ガンジャ・マンが引き返し「これ バイラワ」と言った。たぶん死や破壊を司る神だろう。
 ようやく歩き始めた先の石畳がポッカリと空いていた。その中に居座っているのは、グニャリとゆがんだ岩みたいな偶像だ。表面には、黒い油がベッタリと塗り付けられている。そしてこれにも紅がアクセントをつけ、赤い目をして俺を下から睨みつけているみたいだ。(これも神なのか。)幻惑されてまた立ち止まった俺の顔をガンジャ・マンが覗き込んだ。原モンゴル人の歴史が深い皺となって刻まれているガンジャ・マンの顔を間近で見ると、(これも神なのか)と益々世界が判らなくなった。
 (あまりにも神が多過ぎて)言葉にならない思いをこめて彼を見返しても、ガンジャ・マンはキョトンとしているばかりである。彼にとっては当たり前の世界なのだろう。と同時に暗闇に彼の存在が勢いをつけ、俺の思いを掴みとり彼の思いを投げ返してくる。(カトマンズの人、カルマ・ヨガやる)(そうか、カルマ・ヨガか)
 
 カルマ・ヨガ。人は喜怒哀楽に翻弄されるままに生きて死ぬ。そして同じような生をまた受ける、とヒンドゥー教徒は信じている。その慌ただしく辛いカルマ、すなわち輪廻を越えるために生きながらにして死んでいる出家、ビクやサドゥーの道を行く少数の者がいる。その一方で、人生のあらゆる行為を祈りの行として苦楽を受け、祈りによって浄化して行く多数の者がいる。カルマ・ヨガを実践する行者カルマ・ヨギである。一般的な日常生活の隅々が祈りに満たされ解放に向かって行くのである。職業も家族生活も修業の場。俗世にまみれて悟る道のことである。でも一体悟りとは何だ?解放とは?この人類の業がこれほどまで積み重なった時代に。というのが俺の抱いてきた疑問、禅で言う公案となって来ている。
 カトマンズでは、未だカルマ・ヨガが機能しているらしい。明らかにこの土地の者は、朝から晩まで家屋や街の隅々に立つ無数の偶像に祈り続けている。年の三分の一は、寺子や街人が総出で祝う祭が催されているという。勿論、出産、成人、結婚の節目にも、通過儀礼がある。ひとつひとつの儀式を踏みしめ続けた先に、その成果を試される死が待っている。苦楽のないあの世に永遠に生きるか、下等の動物、あるいは様々なカーストに生まれ変わって振り出しに戻るかの、スゴロクみたいな決断が下される。だから葬式は人生の大きな目標となる。
 これは、あらゆる伝統的な宗教に共通している仕組みである。信仰の世界に生きる世界の人々を見るにつけ、彼らの平安な心、恐れを知らぬ毅然とした態度が、そのような死の瞬間に備えた日々の積み重ねによって育まれているように思えてきた。だが俺達は信仰心が失せたか、体よく利用されてきただけの社会に生まれ育った無神論者である。どうしても悟りの道を歩いているとは言えないのに、どこかで憧れているチャランポランな存在に過ぎないのを、旅の途上でもどかしく感じて来た。この地では、そのギャップがとてつもなく大きくなっている。
 


 蝶が花から花へと移り行くように、丸い真鍮製の大皿をかかげた女達や老人達が、楚々として夜道を歩いて行く。その皿からつまみ出された灯明や線香や米や花弁などの供え物を偶像に捧げるや念仏らしきを唱え、次の偶像へと渡って行く。通行人の中からも、フイと気の向くままに手を合わせる者がいる。信者達の想念を吸い取る度に、偶像は灯明に揺らぎあたりを威圧する。
 いつの間にか雑踏に甘い唄声が通っているのに気がついた。オルガン、タブラ、シンバルも絡んで、歩行者の足並みをビートに乗せている。その音楽の発生する開けっ広げの集会場みたいな縁台の前に、俺達は止まった。楽器を奏でる数人の中央には、あばた顔した中年の男が甲極まったソプラノ・ソロを絶唱中である。その切々とした声に、あたりに溜まった人影は静まり返っている。
 左手で小箱形の手風琴を操りながら右手は鍵盤をなぞっているその歌手を見ながらガンジャ・マンが「あの男、仕立て屋」と呟いた。カルマ・ヨガの行者がここにも居る。
 バンドが激しく突っ走り始めた。興奮気味の合唱をタブラ、シンバルの連打が押し上げる。ソプラノ・ソロがそれを更なるエクスタシーに引き上げて行く。担いだリュックサックごと俺達は揺れている。頭上にそそり立つ五重の塔が、ビートに乗って天を突き上げて行くかのようである。舞台の楽士も俺達も歓喜極みに辿り着こうとしている。その瞬間、旅の道で身に着けた、どんな状況でも油断はしないという本能が目を覚ました。なんと、俺達以外の観客は素知らぬままなのだ。舞台の熱演とはまったく関わっていないかのように、その視線はあらぬ所を漂っている。無感動、あるいは平静のままなのである。俺達みたいなうさん臭く身元不詳の旅人に対するのと同じの、無関心な態度のままなのである。演奏が終わったとて拍手ひとつおこるわけでもない。
 判らないまま歩く。不規則に七つの細道が交差する辻は、人いきれでふくれあがっていた。剥き出しの土から湧き出たみたいな野菜の山々に、売り子の掛け声が飛び交っている。角に立つ金箔屋根の小寺では、参詣人が列となって鐘を打ち鳴らしている。その合間に顔を出す祈りの声も共鳴し、俺の頭骨の内部で増幅している。屋外なのに反響効果抜群のドームの中に入ったかのように、世界はグワーンと響き渡っている。ここでも露店商のケシロン・ランプの裸の灯が渦をなし、参詣人が捧げる植物油の灯明、線香の煙も交わり、すべての存在が互いに関わっている。ただひとつの異分子は、俺達だけだ。
 
 黒く沈んだ一本の道に入った。ガンジャ・マンが止まっている。歩行者だけのラッシュ・アワーの潮は引いた。あたりは深閑としている。月光もないし街灯もケシロン・ランプも灯明もない。星も未舗装の道から登った埃か湿気に隠された。ただ一枚の看板に電燈が細々と灯り、GLOBE RESTAURANTの字が読み取れる。この街で初めて出会ったローマ字だ。
 看板など見なくとも、グローブ・レストランであることは、入口からモクモクと吐き出される、あのツンと来る煙の勢いで判っていた。それは、嗅ぐだけで生唾ダラダラ流れるほどのハシッシ、大麻樹脂のものだ。これほどの量のハシッシを吸う集団は、ムスリム行者ファキールかヒンドゥー行者サドゥー、そして現代社会をドロップ・アウトしたビートニクだけなのだから。グローブ・レストラン。大陸を行き来するビートニクの折り返し点に着いた。
 
 最初西欧人のビートニクに会ったのは、アフリカ中南部の内陸の国ザンビアだった。その二年ほど前に独立した新興国の首都ルサカで、日本製品を売り込むための商品見本市の通訳兼アテンダント、日本人商社マンと現地役人から使用人までをコーディネートする雑用仕事が舞い込みナイロビから駆け付けた時だった。その郊外の会場、明らかにジャズ漬けの長髪カップルと会ったのだ。白人だったが、俺も新宿でジャズに漬かりっ放しの後であのビート、あの旋律、あのスピリットが恋しくて耐まらず、ストレートに(お前の所でジャズを聞けるか)と尋ねた。彼らもストレートに(家に来いよ)と招いてくれた。毎夜仕事が終わる度にその家に入り浸り、日本製のオーディオ機器でジャズを聞きまくった。南アフリカ製だという大麻を御馳走になりながら。大麻をやるとジャズがより深く染み入ってきたのは、新鮮な発見だった。
 ジャズという抑圧されながらも主張するアメリカ黒人のスピリットと白人のスピリットが融合した過程は、酒や煙草まみれのジャズ・ホールだけではなく、その裏に大麻も廻されていたのではないかとその時察っしたのだった。目からウロコが落ちたのは、休日ドライブをして、彼らの秘密の聖地だという郊外の小さな滝で一服した時のことだった。水のしぶきの一粒一粒が空に散り風に流され輝くのを見た。草木がその輝きに呼応してエールを送っている。シャーマニズムの一端を垣間見る思いをした。シャーマンとはこうして、地上から宇宙に到るまでの全存在と交信しているのではないか、と。大麻だけではなく、あらゆる植物,鉱物のエッセンスを取り入れるのではないか、と。同時に、帰りの車の窓からは、アフリカの大地が植民地時代いかにプランテーション、単一種栽培に破壊されたかもあから様に見えて来た。その傷を見たら仕事は続けられない。現代の仕事は、多かれ少なかれ自然を食い尽くすことに加担している。俺が日本商品売り込み業に潜り込んでいるのもその一環だ、仕事なしには生き延びれない、とその日ビートニクと大麻に別れを告げた。
 ヨーロッパでもビートニクに時折会った。長髪に長い髭、くすんだ服に包まれてムッツリとハシッシを燻らす哲学的で神秘的な存在を尊びはしたけれど、俺は50ccバイクで移動する旅人という労働者として、当たらず触らずの距離を置くだけだった。慣れない刺激物を取って肉体がやられることを何よりも怖れていた。
 それがイスタンブールのグラハネ・ホテル屋上あたりで遂に仕事を諦めてからだ。紙巻きのジョイントが廻ってきたら俺も吸うという付き合い程度だったが、徐々にビートニクと馴染んできた。彼らが禅やタオに関心を示しても、俺は何ら反応できない貧しい東洋人だった。代わりに、彼らがバイブルのように持ち運んでいだビートニク詩集を読む機会得た。同じ仲間じゃないかという共感。それまでひとりで世の流れに背を向けていたつもりだったが、実は中途半端で孤独だったことに気づいたのだった。あれからひとり旅をした。ヨーというオランダ人のビートニクの生き様と旅を共とした。アフガニスタンからは毎日のようにヨーや偶然出逢った旅人と吸ってきた。勿論土地人ともだ。彼らを仲間と感じるようになってきた。それは深く優しく、そして厳しく頑健な上に、各々のキャラクターは千差万別な人間とあらゆる存在が交わる世界だった。
 
 グローブ・レストランの店内は、濃厚なハシッシの煙が裸電球に反射して、まるで白い胆盤の中に入ったみたいだった。その底の方には、テーブルにへばり着いた人影が沈澱している。ほぼ満席の二十数人。このかけ離れた山奥にこれほど多くの西欧人ビートニクが溜まっているとは。と一瞬あっけにとられて立ちすくんだ俺達を、その中でも特に重厚な肉体を長髪に髭で覆ったひとりが睨みつけた。俺達のヒッチハイカーじみた軽薄な乱入振りを咎めている。事実、ヨーを除いては皆二十代前半の、まだこの先どっちに転ぶか判らない頼りなさが見え見えなのだ。そのビートニクの眼光に、ビルが巨体を張って応戦する。精神主義者と体育系の運命的な対決である。その二人の間の煙を抜って、小柄なチベット人の老人が現れた。黒い前合わせのチベットシャツ、身のこなしは能の仕手みたいに静まり返って滑らかである。音もなく、空いていたひとつのテーブルに椅子を次々と運び俺達をそこに座らせるまでの一連の流れは、遊牧民特有の旅人に対する優しさに満ちている。イラクの砂漠、アフガニスタンの土漠でも、彼らにこのように受け入れて貰ったことを思い出した。俺がここまで辿り着けたのも、彼らの優しさに出会ったからでもある。カトマンズの土地人の無関心さと違うのは、チベット高原のだだっ広く解放された生活圏の御蔭なのかも知れない。だが、彼もその天地を追われたチベット難民のひとりに違いない。
 
 1959年のチベット反乱、ダライ・ラマのインド亡命から七年経っている。それ以前の1950年、東では朝鮮動乱に百万人の紅軍義勇兵を派遣した中華人民共和国は、そのドサクサに西ではチベットを占領したのだった。世界最大の人口、陸軍、秘密警察を相手としたチベット人は、長い苦難の歴史を覚悟しているようだ。その戦略のひとつとして国外に出たチベット人難民は十万人余り。インドに最も多く難を逃れているのだが、例えインド生まれの者であっても、軽薄なチベット人には会ったことがない。そこまで徹底して積み上げてきた密教のシステムには舌を巻く。世界には千数百万人の避難民がサバイバルしている。その中でも十数万人のチベット人避難民が、人間としての評価が高く、世界的な影響力さえ発揮している。それは、その場の最も重厚なビートニクさえ、チベット人の老人が現れるやいなや元通りに静まり返ったことでも明らかである。
 
 椅子に座ったらホッとした。と同時に猛然と腹が減ってきた。前夜仮眠した峠の茶屋をトラックが出発する前に、一杯のミルク入り紅茶、チャイを飲んだ後は、旅する土地人の常食、チューラと呼ばれる平べったい乾飯をかじってきただけだ。熱く甘い汁に飢えている。英語のメニューを見たひとりが「ミルク・ライス!」と叫んだ。残りも一斉に「ミルク・ライス!」となった。その注文を待っていたかのように、瞬間にして湯気を立てたドンブリがうやうやしく運ばれてきた。ここでは、時が手品師の手にかかってきたように突然に消えたり現れたりするらしい。俺達は熱いミルク・ライスをストレートに掻き込んだ。胃の腑がジンワリと暖まってきた。旅の至福は、歩く道と休む場にある。そこで良き連れに恵まれれば、人生の宝となる。勿論、俺達と同類のガンジャ・マンも、俺達全員が割り勘でミルク・ライス・パーティーに招いてある。その場が明るくなってきた。
 
 いつも気が緩むと、ようやく、という吐息が出る。食った。休める場所に居る。ようやくのことだ。そんな俺達の様子を窺っていたかのように、例の入店した時に睨みつけてきたぶ厚いビートニクが、椅子を手にして俺達のテーブルに割り込んできた。「ヘイ マーン」と。ヘイ マーン。それが当時のビートニクの挨拶代わりだった。近くで見ると大柄の上に髪は腰まで、髭の脇には長年口をへの字に引き締めてきたらしい深い皺が刻まれていた。もしかしたら1950年代からのビートニクかも知れない。その世代の詩を読みその足跡を聞く度に、足元にも及ばないという思いが俺にはこびり着いていたから、とたんに身が引き締まった。
 


 「ヘイ マーン。ブッダみたいな悟りを得たかね?」と彼は静かに語りかけてきた。
 「なんだよ。食ったばかりだというのに、禅問答か。ミスター ビートニク」ビルがとたんに腹を立てた。
 「誤解するな。そのミルク・ライスこそ、ブッダが激しい修業をし続けたのに悟れず、絶望して洞窟を出て倒れていた時、村娘スジャタが捧げた食物だ。それに力を得たブッダは、ブッダガヤの菩提樹の下に座り悟り、ニルバーナに到達した。つまり、悟りの原動力を君達は食ったという訳だ。」
 「なるほど。ともかく、うまかった。きつい旅の後だったしな。」
 「ところでどうだ。俺達流の通過儀礼、イニシエーションは」そうミスター・ビートニクは、コブラが頭を上げた姿を浮き彫りとした大きな陶器のズンドウ型パイプ、チムルをビルに渡したのだ。
 「まずは、イスタンブールの夏に東に発った三百人の内、ここまで持ったのは三十人。その偶然のカオスの渡り歩きの成就を祝して、ボム!」と彼はマッチの火をビルの掲げたチムルに近づけた。
 
 それからは、俺達のテーブルめがけて次々とチムルが廻ってきた。店全体が、高速度で回転するマンダラみたいに、世界のあらゆる想念がチムリの煙に入り混じってきたみたいだった。俺達はそのマンダラの最中で、母乳をむさぼる赤ん坊や蜜を集めて飛び交う蝶、風に乗り雲を抜いて飛ぶ鳥のようになってハシッシを吸った。俺にとっては、それほどの量をぶち込むのは初めてだった。
 
 それからどれだけの時が経ったのかは知らない。「コングラチュレーション」とヨーが言っている。これまで見ることのなかった明るさ一杯の笑みを浮かべて。「おめでとう」と俺に言ったのだ。あたりの皆が同じように、俺に向かってニコニコと祝福しているのにも気がついた。(ここはグローブ・レストランのはずだ。でもなんという変わりようだろう)
 入店した時に見たのは煙にくすんだ人影だけだった。今、そのなごりはまったくない。中央に下がる一個の裸電球の光量が数万倍にも上がったかのように、室内は燦然と輝いている。でもその光はまぶしくない。光はあくまでも優しく柔らかに俺達の細胞の隅々にまで滲み渡っている。
 チムルの嵐は収まっている。ハシッシの煙はテーブルの高さまで降りている。俺の正面に浮かぶ雲のような煙の層の上に、三人の姿が集っている。チベット人老人を中心として、左右にガンジャ・マンとミスター・ビートニク。他の者達もそれぞれ相応しい煙の雲に浮かんでいる。互いに適度の間隔を保ちながら。たぶん、俺もそのように浮かんでいる。
 
 静まり返った夜更けの街より、遠い過去の記憶を呼び戻そうとしているかのような野犬の遠吠えが届いた。その長い余韻に合わせて、チベット人の老人が両掌をゆっくりと開くや孤を描いた。その孤が野犬の遠吠えの意味する世界であるかのように見えてくる。
 闇の永遠に深まって行く盆地の街を「チリーン チリーン」小さな鈴の音が澄み渡って行く。その日最後の祈りに廻る老人のものらしいヒタヒタとした足音。「チリーン」それから生と死の狭間に吹きそよぐ声明。グローブ・レストランの閉まる時が来た。ミスター・ビートニクが、レンガの床にゴロ寝できる格安な宿を案内してくれるという。今日やり残したのは、横になってひたすら眠ることだけである。
 
 一歩道に出ると星がまばたいていた。どうやら埃は、夜の大地の湿りに吸い取られたようである。灯明の油も燃え尽きた。勤めを終えた偶像も、石や木や金属に戻った。半ばとろけながら歩みを進める俺達と揺れるリュックサックの他には、活動している存在はない。六・七階建ての家並みが、深い寝息を立てているだけである。
 だがカトマンズのトリックは何重にも仕掛けられていた。その星明かりだけに照らされた街のあらゆる道は、野犬の群に占拠されていたのである。それが前後左右から襲ってきた。骨盤がハゲた皮を突き上げるまでに痩せ細ってはいても、群なせば地獄の魔王ともなる。憎悪に燃える野犬の目の群が、足元に食らいつこうとして迫る。皺だらけの鼻、毒々しい口からは死臭が放たれている。家並みの谷間の道は闇に近い。野犬は夜目が利くというのに、俺達は間近に奴らが迫ってからようやく気付くという有様だ。
 
 ビルがリュックサックを振り回して盲滅法に追っ払おうとしたが、返って騒ぎは大きくなった。野犬の群は益々膨れ上がった。
 「むきにならないで。これは深夜のセレモニーなんだから。奴らは脅しているだけで、こちらがクールである限り噛み付きはしない。ただ自分達の縄張りをデモンストレーションしているだけなのさ。ひとつひとつの縄張りを静かに通り抜けて行くしかないんだ。この街は、人間のためのものだけじゃないんだから。」ミスター・ビートニクの忠告通りに俺達は、身震いしながらもゆっくりと無言で歩いてみた。なる程、野犬の攻撃の勢いが引いた。適度な距離を置いて威嚇しているだけのようだ。それでも時折足元まで迫ってくる。脂汗が背中にジットリとへばりついている。
 
 そんなパニックの最中だった。ミスター・ビートニクが、絶え間のない犬の咆哮にも構わずに俺に話しかけてきた。
 「ヘイ マーン。輪廻転生、リエンカーネイションを信じるか?」
 「俺達自身が子供を作って遺伝子を残さない限り、死んだ後には何も残らないだろう。生まれる前は両親と先祖の遺伝子があった。あるいは、例えば今ここで俺が死ねば、犬に食われてその一部となる。土葬されたら死体は腐る。バクテリア、虫、植物、草食獣、肉食獣と次々とその一部となって振り出しに戻る位しか考えられない。」
 「それは生理的な堂々巡りのことだろう。俺は心の遺伝子がどう繋がって行くかを考えているんだ。偶然の連続としか思えない意外な系譜のことだ。」
 「親や先祖の性格と、生まれ育った環境や人間関係の他に、人の心を決定する何かがあるというのか?」
 「そうだ。先だってチベット僧と深夜歩いた時から、もしかしたらあると思い始めた。この野犬の群が、そのチベット僧にはまったく吠えないどころか、クンクンと慣れついて来たのを目の前としているからだ。どうしてなのか聞いたら、あらゆる人間の心は動物の心であったことがあるし、また動物の心も人間の心であったことがある、と答えた。だから、動物ともお互いに良く判るし通じ合えるのだ、と。」
 「じゃ、俺の心もこの中の一匹であったことがあると言うのか。たまんないな。」
 「食うためや縄張りのためなら何でもやる人間が一杯いる。この犬の群と変わりがない。それに輪をかけて、人間は贅沢や主義主張や権力欲のためだけに何でもする。やり過ぎて世界をぶっ壊すほど。この犬の方が節度があると思うようになってきた。奴らは今、俺達を縄張りから追い出すだけで満足するだろう。夜が明ければ、見事に人間に縄張りを明け渡す。毎晩俺はこうやって、通させて下ださい、教えて下さいと歩くのだ。」と彼は合掌した。
 「それにしても、この桃源境みたいな街で、昼はまったく無関心な土地人、夜は獰猛な犬にしか出逢わんとは極端過ぎるな。」
 「その両極の他にも多くの極端な存在がある。俺が会ったチベット僧もそうだった。しかも極端な存在の間にも多くの存在があるのだ。この犬の群にも多くの違った存在があるように。いつか互いに認め合う時が来るだろう。少なくとも、かなりの数の犬の心を見分けられるようになった。俺の心を犬の心の内側に見るようになってきたんだ。」
 そう言われて犬を見たら、一匹一匹がかなり違う。そして節度があるのにも気づいてきた。
 リエンカーネィション、転生とは、心を投影し投影されることなのかも知れない、と思った。どことでも、何とでも互いに投影できたらどうなるだろう?でも現実には、足元に迫る野犬の群に、俺の脂汗は流れ続けているのである。
 カトマンズ入境一日目にして、これほどまでの極端から極端への渡り歩きだ。さてこれからどうなることやら、だ。
 
メモランダム1966  1 ミスター・ビートニク 完
 


サ ワ 写 真 集

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