↑prev next↓
車 椅 子

 散歩して感動していることがあります。街作りが、障害者や年寄りに優しくなった事です。歩道には全てスロープが付き、車道との段差も低くなりました。

 と思うのは、1970代初め、僕が東京に出てきた頃、歩道はあるのだけど、車椅子では通れなかったのです。その頃、車道との段差が15センチもり、突然15センチ高くなり、車椅子の通るスロープはついていなかったのです。車椅子の人は、仕方なく車道の隅を行くしかなく、危険極まりだったのです。

 僕はその後、水俣病患者さん運動支援に参加しました。水俣病に限らず障害者を持つは家では、人目を恥、田舎では座敷牢まであった時代だったのです。胎児性の水俣病患者さんと付き合いで、彼等を社会に出す事、普通の人と同じことをする事、僕らはそのサポート役でした。普通の人間と変わりないと、人々に示すことでした。

 人間として当たり前の要求だったから、僕は水俣の運動に参加したのです。なのに、僕らは過激派のレッテル貼られました。

 その頃、宮崎で知り合った障害者の人が、車椅子でバスケットを初め、僕らはスポーツ大会開くのだ!と夢を語ってくれました。目がキラキラと輝いていた事を覚えています。

 それから半世紀たち、都内の川が綺麗になったように、障害者の世界も大きく変わりました。今やスポーツする障害者は、社会のヒーローです。

 社会が変わるのには時間が必要です。しかし、理のあることは必ず人々に受け入れられます。人とは違った道を歩んだ穂区の選択は、間違いなかったと思っています。

2024.2.3. Mamoru Muto
↑prev next↓