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面 白 い
 
 
 まだ、大学に席を置いていた頃、僕は学生運動に好意的な、助手でしたか、助教授でしたか、忘れましたが、研究室に出入りしていました。
そこでよく市民運動のこなど話していたのだか、ある時、武藤君「面白いだけてはいけないよ、何故面白いのか、論理的に説明出来ないと」と諭された。
 
 当時、理学部の学生でありながら、僕は論理的に説明と言うことが、全く出来なかったのです。だから、僕の会話では感覚的な「面白い」という言葉が連発されていたのです。
 
 その後も僕は長いこと、論理的な話が出来なかった、何とか感覚的な言葉をつなげて詩らしきものはできたのだが、それ以上言葉をつなげることが出来なかった。
 
 助手の意見は正論です。でも、人間は論理で動いているわけじゃありません。いつもは直観で物事の本質を見抜き行動しているのです。論理的に説明する為には、直観で感じたことを、言葉(論理的な)で翻訳する必要があります。翻訳する為には、自分を考えの基本になる考えがしっかりしていないと、出来ません。
 
 若い頃の私は、その基本になるものがわからず、いや、疑問に感じて、論理を組み立てることが出来なかったのです。
 
 自分の存在そのものが疑問だったのです。左翼の中におりながら、イデオロギー的な論理に反発していたこともあり、そこで、自分にできる感覚的な言語、「絵」で自分を表現しようと思ったのです。
 
 でも、感覚言語だけでは、感動は表現できるのだが、程度の加減が出来ないのです。思いだけが先行して、体をこわしてしまいました。そこで文字言葉で整理すること、そのために新聞を作り始めました。言葉を何とか使える様になったのは、四十歳をも半ばを過ぎてからです。
 
 物事は深いのですね。深さを理解するためには、それなりの時間と手間が必要です。
 
 
 でも、若い人が感覚的な言葉の羅列で会話しているからと言って、彼らが浅はかな認識しているわけではありません。
 
 若者だけではなく、子供も、赤ん坊だって、直観で物事の本質を感じとって生きています。大人のような社会性はないから、そういう深さはないのだけど、身近な大人を観察して、深刻かそうでないかを瞬時に理解しています。その感性はずつと大人より鋭敏です。自分で自立できないから甘えられるよう、演技しているだけです。
 
 
 今でも、僕の判断基準は「面白い、面白くない」ですし、直感で感じ取ったことが一番大切にしています。
9/19 2011 Mamoru Muto

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